勇者の切り札


 昂る心を感じながらも、トリンキュロは細く形成した触腕を、勇者に向けて射出した。

 絶命を避ける範囲で、相手の体に穴を空けて、動きを止める。殺さない程度に殺し、終わらせる。

 しかし、トリンキュロのその目論見は、完全に裏目を打った。


「『お前の攻撃は、勇者には届かない』」


 咄嗟に前に出たサジタリウスが、それらすべての攻撃を、自らの体で受け止めたからだった。

 肉を貫く音。吹き出る血飛沫。

 トリンキュロだけではない。勇者も、悪魔のその行動に、一瞬の虚を突かれて、目を見張った。

 勇者には『哀矜懲双へメロザルド』という魔法がある以上、避けられない攻撃を繰り出せば、必ず転移で回避する。少なくとも、トリンキュロはそう予測していた。予測した上で、仲間の魔法を使われ、冷静さを欠いた勇者の転移の先を読んで潰そう、と。そんな悪辣な考えを巡らせていた。

 その程度の稚拙な駆け引きの思考が、一流の賭博師サジタリウスに読まれないわけがない。

 サジタリウス・ツヴォルフという最弱の悪魔の一手に。

 トリンキュロ・リムリリィという四天王最強の目論見が、崩される。


「ククク……」


 身を盾にする。らしくない自己犠牲だ。

 本当に、らしくないことをしたものだ、と。サジタリウスは己の行動を自分で笑う。

 力はない。魔法もハリボテ。回るのは口だけの、最弱の悪魔。それが自分だ。

 だとしても、不敵に笑みを漏らすだけの満足が、胸の内にある。

 これは、自己犠牲ではない。

 勝つために必要な、一手だ。


「トリンキュロ。『オレの魔法は、貴様の……」


 自分の体を貫かせたまま。

 トリンキュロの体から伸びる触腕という体の一部に、サジタリウスは言葉の矢を番える。


「『貴様の魔法を、無効に……」

「ちぃ……くそっ!」


 トリンキュロの判断は、なによりも素早かった。

 即座に、触腕を体から切り離し、接触による魔法の影響を断つ。

 それは、迂闊な接触が即死に繋がる魔法使いを相手にする判断として、どこまでも正しい。


「ククク……バカが」

「あ?」

「オレ如きの魔法が、貴様の赫色をどうにかできるわけがないだろう?」

「あ……あァ!?」


 だが、サジタリウスという賭博師を相手にするには、あまりにも愚かな選択だった。

 サジタリウスの『妄言多射レヴリウス』は、あくまでも起こり得る事象を実現する魔法。仮に「お前の魔法を無効にする」と口にしたところで、そんな戯言を実現する力はない。

 それは、己の魔法をチップに賭けた、ブラフ。

 サジタリウスという最弱の悪魔が、トリンキュロという最強の悪魔に対して仕掛けた、刹那の駆け引き。

 悪魔の妄言は、数多を射抜く。


「サジタリウスぅううう!」


 トリンキュロが、絶叫する。

 触腕という、遠距離攻撃の手数を潰した。

 その心から、余裕と冷静を奪い取った。


「さあ、いけ……勇者」


 生み出された隙を見逃さず、サジタリウスの真横を、勇者が走り抜ける。

 血まみれの手は、駆け出した勇者の背には、もう届かない。

 重ねた言葉を、実現する力に変えて、与えることは叶わない。

 それでも、サジタリウスは、その思いを言葉に変えて口にした。



「勝て」



 なによりも、誰よりも強く、背中を押すために。

 悪魔が紡いだその一言は、たとえ魔法ではなかったとしても、たしかに勇者の心を強く射抜いた。


「ああ。まかせろ」


 新たな仲間の声援を引き金にして、勇者が加速する。

 再びの、一対一。小細工なしの対峙。

 勇者が正面から踏み込み、トリンキュロがそれを迎え撃つ形。


(無駄だ。お前は詰んでいる……!)


 四天王第一位は、足を広げ、地面を強く踏みしめた。

 読めている。

 勇者は既に、手札という手の内を、吐き出しきっている。

 こちらの攻撃を『哀矜懲双へメロザルド』で避けようにも、転移する方向は、視線の先。

 近距離への転移なら、合成した魔法で潰せる。遠距離への転移なら、近接主体の勇者は自分に攻撃を届かせることはできず、致命傷には成り得ない。

 この状況。この間合い。このタイミング。

 勇者は『哀矜懲双へメロザルド』による転移に、頼りたくても頼れない。


「賭けを見誤ったな……お前にもう、切れる選択肢カードはない!」


 次は、さらに火力を上げる。

 両手を合わせて、トリンキュロは合成魔法『紅氷青火エリュテイア・ハモン』の使用を選択する。

 自身の周囲を巻き込む。全方位への熱放射。

 仮に、万が一、勇者が『哀矜懲双へメロザルド』で、誰に入れ替わろうと関係ない。

 勇者も、シャナも、イトも、レオも、リリアミラも、サジタリウスも。

 誰一人として、この魔法を浴びて無事では済まないのだから。


「終わらせる!」


 サジタリウスの捨て身の一手で、計算を狂わされたのは、事実。

 最弱の悪魔の足掻きに、苛立ちを覚えたのも、また事実。

 それでもトリンキュロ・リムリリィは、勇者と正面から、一対一で決着を付けるというこの状況に、心地良さを抱いていた。

 互いの一手を読み合い、互いの思考を潰し合い、互いの心を賭けて、死力を尽くす。

 例えるならば、最高の遊戯。

 相手に勝つための最後の一枚を、盤上へと繰り出す、至上の興奮こそが、今。




「『紅氷青火エリュテイア・ハモン』」




 絶対の自信の元に、合成魔法を撃ち放つ、刹那。

 対峙する宿敵へ、トドメを刺す快感に身を浸す中で。


(どうして……? なぜだ?)


 しかし、トリンキュロは気がついた。


(なんでお前は、ボクを、見ていないんだ……?)


 気がついてしまった。

 勇者の瞳が、自分へ向けられていないことに。

 それどころか、その眼差しには殺し合いの最中で、どこまでも穏やかなあたたかさがあって。

 その事実は、宿敵が自分を見ていないことを証明するには、十分過ぎるものだった。


「お前はっ……ボクを見ろよぉ! 勇者ァ!」


 感情の昂ぶりに呼応して、合成した魔法の出力が引き上がる。灼熱が、無差別に周囲を焼き焦がす。

 合成色魔法『紅氷青火エリュテイア・ハモン』。

 それは紛れもなく、相手全てに対応できる攻撃だった。

 世界を救った勇者すらも、転移の魔法によって逃れざるを得ない。


「『哀矜懲双へメロザルド』」

 

 相手全てに対応できる攻撃のはず、だった。

 唯一人、その色魔法の本来の使い手を除いては。


「お前が、何を以て人の心を『折った』と……そう考えているのかは知らないし、興味もない」


 姿が、消えた。転移によって、入れ替わった。

 勇者の声が、遠くに聞こえる。


「でも、一つだけ言わせてもらうなら」


 皮膚をも焼き尽くすような熱風の中で、鮮やかな金髪が揺れる。

 トリンキュロは、絶句した。

 おかしい。

 そんなはずはない。

 唇を奪った。プライドを引き裂いた。心を折った。隅々まで潰して、何もかも喰らったはずだ。

 それなのに、だというのに。


は、その程度じゃ折れない」


 トリンキュロの前に、一人の騎士がいた。

 勇者と転移で入れ替わった、アリア・リナージュ・アイアラスが、そこにいた。

 呼吸の一つで肺を焼き尽くすはずの、熱の中。人の生存を許さない、灼熱の地獄の中で。

 不屈の冷気が、渦巻く。

 白い吐息が、薄い唇から漏れ出して、流れていく。




「──『紅氷求火エリュテイア』」




 トリンキュロ・リムリリィが模倣した灼熱を、姫騎士の絶対零度が、塗り変える。


「なんだよそれは……」


 最後の、最後に。

 トリンキュロは、勇者だけを見ていた。

 勇者は、トリンキュロを見ていなかった。

 たったそれだけの違いだった。

 いや、違う。

 きっと、最初から。

 勇者が賭けていた切り札は、自分ではなく、仲間だった。


「賭けは、お前の負けだ」


 姫騎士が、大剣を薙ぐ。

 『因我応報エゴグリディ』の再使用まで、七十六秒。

 力も、魔法も、プライドも。

 トリンキュロ・リムリリィの小さな体に詰め込まれたすべてが、人形を潰すように破断された。

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