悪魔の愛情

 親愛とは、時間の積み重ねだ。


「サジーっ! あなた、また昼まで寝てたんですか!?」

「寝ていたわけではない。英気を養っていただけだ」

「でもあなた仕事してないでしょう!?」

「しているさ。お前を守るのがオレの仕事だ。ルナ」

「それが女の家に居候する時の常套句ですか?」

「そんなことはない。オレが守ると誓ったのは、お前だけだ」

「あー、はいはい。そういうのはいいですから。ご飯の準備手伝ってくれますか?」


 共に過ごした時間が、思い出になる。


「稼いできたぞ。ルナ」

「……」

「おいやめろ。そんな目でオレを見るな。これは本当に、真っ当な手段で稼いできた金だ」

「一応どうやって稼いできたか聞いてもいいですか?」

「ククク……お馬さんが、がんばった」

「バカ!」


 やりとりの一つ一つが、かけがえないのないものに変わっていく。


「なあ、ルナ」

「なんです? サジ」


 悪魔は思う。

 ああ、自分はまた、同じことを繰り返している。

 だからこそ、もう同じ失敗はできない、と悪魔は思った。


「オレの正体は、人間ではない」

「え」


 それを明かした時。

 自分とルナローゼは、もう今までと同じ関係ではいられないだろう、と。親友に正体を明かした時と同じように、そう思った。

 夕飯の調理の最中。エプロン姿のルナローゼは、きょとんと振り返って、サジタリウスを見た。


「オレは悪魔だ。重ねて説明するが、人間ではない」

「サジ」

「悪魔は人間と契約を結び、望みを叶える。その代価に人の体から魂を抜き出して、喰らう。悪魔が提示した契約書に触れることによって、契約は完了する。そして、契約者の望みを叶えた瞬間に、その魂は……」

「えっと、サジ。待ってください」

「なんだ。人が真剣な告白をしている時に」

「知ってます」

「え?」

「あなたが悪魔なの、知ってます」

「ククク……いや、え? なんで?」

「だってはじめて会った日、酔って自分から翼広げてたじゃないですか。最初からあなたの正体なんて丸わかりですよ」

「フフフ……え、マジ?」

「はい。マジです」


 マジらしかった。


「お、おぉおおおおおおお……」


 恥ずかしい。

 サジタリウスは、ルナローゼの前で頭を抱えて倒れ伏した。

 情けない。

 もはや、まな板に乗せられた魚のように、のた打ち回るしかなかった。そんなサジタリウスを見て、ルナローゼは静かに息を吐いた。メガネの奥の瞳が、腐っても最上級の位階にある悪魔を冷たく見下ろす。


「何をしているんですか。そんな競馬で大負けしてもう私に金を借りるしか後がない……みたいな呻き声を上げながら倒れ伏して」

「いや……だって……だってなあ!」

「あなたがアホでバカでイケメンのクズであることは、重々承知です。そんなくだらないことで悩んでいる暇があったら、じゃがいもの皮でも剥いてください」

「ククク……今日はシチューか?」


 サジタリウスは切り替えの早い悪魔だった。

 ルナローゼはツンと答えた。


「カレーです」

「えー」

「えー、じゃありません。叩き出しますよ?」

「フフフ……すいません。食べます。美味しくいただきます」


 速やかに立ち上がったサジタリウスは、ルナローゼがいつの間にか買っていた揃いのエプロンを身に着け、じゃがいもの皮剥きに取り掛かった。

 ちょうど、頭一つ分。自分よりも低いところにある視線が、調理を進めながら、上目遣いにこちらを見る。


「ところで、サジ。あなたの羽根って……飾りではないんですか?」

「……ククク、飛べると言ったらどうする?」

「それは……ちょっと、飛んでみたいです」

「……そうだな。気が向いたら抱えて飛んでやる」


 昔も、同じ質問をされた。

 気づかれないように、サジタリウスは嬉しさを含んだため息を吐く。

 本当に。

 そんなところまで、似なくてもいいのにと思った。



 ◆◆



 我ながら、生温い時間を過ごしたと思う。

 親友の命で、幸せ過ぎるほどの余生を貰った。


「やあ、サジタリウス。ひさしぶりだね。元気だったかい?」


 だから、トリンキュロ・リムリリィが、自分に会いにやってきた時。

 これは罰なのだ、と。

 あるいは、今まで貰った幸せに報いるために、この身を盾にする時が遂に来たのだ、と。サジタリウスは、心の底からそう思った。


「きみはすごいね。ちゃんと人間の生活に馴染んで、人と一緒に暮らしている。ああ、勘違いしないで。きみの在り方を、責めているわけじゃない。きみが魔王様の元から離れた理由も、その上で得た答えも、ボクは尊重するつもりさ」


 あの子を、純粋な悪意に晒したくない。


「ただ、協力してほしいんだ。ギルデンスターンの会社をぶっ潰したくてね。下準備とか資金源の調達とかは目星がついてるんだけど……ほら、きみが仲良くしている彼女、ギルデンスターンに近しいところにいるだろう? せっかくだから、ぜひ利用させてほしくて」


 あの子を、純粋な悪意に利用されたくない。


「よろしければ、ぜひきみの彼女と契約させてほしいんだけど、どうだろう?」

「トリンキュロ」


 あの子を、純粋な悪意から、守りたい。


「アレは、オレの獲物だ。オレの契約者であり、オレの餌だ。他人のモノに手を付けるのは、昔から貴様の悪い癖だぞ?」

「……そうだね。失礼したよ」

「もちろん、協力はしてやる。オレ如きの非力な悪魔で、どこまで貴様の力になれるかは分からないが……計画のお膳立てもしてやろう」


 守る。ルナローゼ・グランツを、必ず守る。

 そのためなら、頭を下げよう。

 巨悪に頭を垂れよう。

 無様に尻尾を振って、付き従ってみせよう。

 最初から、勝負のテーブルに付くことすらせず、サジタリウスはトリンキュロに対して恭順の意を示した。


「……サジ」

「何だ?」

「きみ、つまらなくなったね」


 どこまでも冷たい声音に、背筋の先まで射抜かれるようだった。

 それでも、サジタリウスは耐えた。傲慢な第一位に対して、ただ淡々と平静を装った。

 感情を表に出さないのは、ギャンブラーの得意分野である。


「……まあ、いいや! ありがとう! サジタリウス! きみが仲間になってくれれば、百人力だよ!」

「ククク……見え透いた世辞は止せ」

「ああ、そうだ! もう一つ、聞いていい?」

「まだ何かあるのか?」

「いや、きみと彼女の関係を知るにあたって、ボクの方でも色々と調べさせて貰ったんだけど……純粋に興味があってさ」


 人を射抜く言葉は、サジタリウスという悪魔の真骨頂。

 それをわかっているからこそ、トリンキュロ・リムリリィはサジタリウスに向けて。




「きみ、ちゃんと祖父を殺して喰ったこと、あの娘に話してるの?」




 その残酷な問いを、突き刺した。

 サジタリウスは、顔を伏せた。

 一拍を置く。呼吸を整える。視線を上げる。

 己の内を駆け巡る、全てのあらゆる感情の熱を、完璧にコントロールした上で。


「…………ククク。そんなこと、話しているわけがないだろう」


 そして、悪魔は静かに笑った。


「あの娘には、利用価値がある」


 そうだ。笑え。


「アレの命も、遺産も、オレが貰い受ける」


 もっと、笑え。


「老いた男の魂も、悪くはなかったがな。若い生娘の、それも直接の血縁の魂ともなれば……騙し通して、啜り殺すのは、極上の快楽だろう?」


 もっともっと、大いに笑え。

 人間ではない、怪物らしく、より悪辣に。

 自分を親友と呼んでくれた友が遺したものを守るために。

 サジタリウスは、バケモノの笑みを貼り付けて見せた。


「事実として、ギルデンスターンはあの娘の祖父を見殺しにしている。すべての罪を、ギルデンスターンにでっちあげ、会社を内部から崩す。上手くいくと思わないか?」

「おお! いいねえ! それは楽しそうだ! きみの賭けに、ボクも一枚噛ませてもらうことにするよ!」

「ああ。賭けたければ賭ければいい。安心しろ。オレの言葉は、絶対だ。外すことはない」


 あるいは、トリンキュロが現れなくても、いつかはこうなっていたのかもしれない。

 あの子を守る。

 そんな言葉は、自分に対する言い訳。契約ですらない。今はもういない親友と交わした、この体を動かすための、仮初めの約束だった。


 あの子を、純粋な悪意に晒したくない。

 あの子を、純粋な悪意に利用されたくない。

 あの子を、純粋な悪意から、守りたい。

 どれもこれも、全てが、耳障りの良い建前に過ぎない。


 あの子に、嫌われたくない。


 いつの間にか、自分を動かすものは、そんなちっぽけで些細な、プライド以下のくだらない感情になっていたのだ。

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