アルカウス・グランツ
アルカウスが体調を崩しがちになったのは、黒輝の勇者が魔王を打ち倒し、世界を救った後のこと。
あまり無理をしない方がいい。仕事は休んだ方がいい。
そう忠告すると、アルカウスは皺が刻まれた顔で苦笑いを浮かべた。それは、ゲームに興じている時の悪ガキのような表情ではなく、ベテランの運び屋の横顔だった。
「そうしたいのは山々だが、最近弟子を取っちまってな」
「弟子?」
「おうよ。オレの仕事を学びたいってな」
「ククク……それはまた、物好きがいたものだな」
「ほんとになぁ。ま、オレももういい加減に引退する年だしよ。ここらで後進をきっちり育てて、道を譲ろうってわけだな。いつかお前にも紹介してやるよ、サジ」
「不要だ。むさ苦しい男に興味はない」
「おおっと? そりゃ残念だ。うちの弟子は、とんでもねえべっぴんのお嬢さんだってのによ」
「前言撤回だ、アル。すぐ呼んでこい。今夜一緒に飲もう」
「クソヒモ野郎が。ぜってぇ紹介しないからな」
「アル! 頼む! アル!」
「うるせえ! 寄ってくんな!」
軽口を叩けている内は、まだ良かった。
しかし、数ヶ月もすると、アルカウスの体調は目に見えて悪化していった。
「こりゃ、もう長くねえかもなぁ……」
「……貴様らしくもない。弱音を吐くな。病は気からと言うだろう。安心しろ……『お前の病気は必ず良くなる』はずだ」
ベッドに横になった親友の手に触れて……その手を強く握って、サジタリウスは宣言した。
数日は、体調が安定した。しかし、またすぐに、ぶり返して元通りになった。
いくら『
友の命は、もう助けられない。
それならせめて、なるべく最後まで、同じ時間を過ごそうと。
サジタリウスは酒場ではなく、アルカウスの家に足繁く通うようになった。
「来てやったぞ」
「また来たのかよ。サジぃ……お前、オレ以外に友達いねぇだろ」
「フフフ……急にひどいことを言うな。オレは泣くぞ」
「いやあ、ちょっと心配になっちまってな。オレが死んじまったら、遊べるヤツがいなくなっちまうだろ」
「……余計なお世話だ。馬鹿が」
アルカウスの体調が良い日は、ベッドの横で、これまでと同じようにゲームをした。
厳密に言えば、これまでと同じ、ではない。
体調の悪化に伴って、アルカウスのプレイは明らかに精彩を欠くようになっていた。サジタリウスはわざと手を抜いて、良い勝負を演出し、負けるように心掛けた。
皮肉な話だ、とサジタリウスは思った。
はじめて自分を完膚なきまでに打ち負かした相手に。あれほど勝ちたかった好敵手に、今度は、わざと負けている。
ひどい話だ、と悪魔は思った。
どうして人間という生き物の寿命は、こんなにも短く決められているのだろう。どうして人間という生き物の体は、こんなにもか弱いのだろう。
「……なあ、サジ。なんか、お前も顔色悪くねえか?」
「とうとう目までボケたか? 貴様のひどい顔と比べれば、数倍マシだ」
「いや、そりゃそうだろうが……」
アルカウスに、自分が悪魔であることを告白したその日から。
サジタリウスは、人間の魂の摂食をやめていた。
悪魔にとって、空腹は生き地獄に等しい。もういいのではないか。我慢しなくてもいいのではないか。これまでのように、賭場に落ちてくるクズの人間の魂なら、喰ってしまってもいいのではないか、と。
そう考える度に、心に根付いた親友の言葉が甘い誘惑を断ち切った。
お前さんが人間じゃないってことは、オレとお前がダチじゃねえ理由になるのか?
人間は、人間を食べない。
彼は、自分を友だと呼んでくれた。
その言葉に、報いるために。
最後の最期まで、彼の友であるために。
サジタリウスは、人の魂を決して食べない、という誓約を自らに課した。
限界は近い。彼の終わりを看取って、自分もすぐに死ぬことになるだろう。
悪くない話だ、とサジタリウスは思った。
そういう死に方ができるのなら、ほんの少しでも人間に近づける気がした。
「おい、サジ。明日は、ルナが来るんだ。遠くで経営の勉強をしてるってのに、オレのためにわざわざ……お前も、会ってやってくれないか?」
「……もちろんだ」
「ルナはな。すげえ美人になったんだ。きっとびっくりするぜ」
「…………いいのか? そんな美人なら、オレは口説いてしまうかもしれないぞ」
「そいつは許せねえな。やっぱなしだ」
アルカウス・グランツの、命の終わりが近付いていた。
たった一つ。
サジタリウスという悪魔にとって誤算だったのは、親友の命が終わるよりも早く、己の飢えに限界が近付いていたことだった。
表情にそれを出さないように、堪えながら。サジタリウスは骨と皮膚だけになった友の手を、祈るように握り続けた。
目眩がする。動悸が止まらない。呼吸が辛い。
もう少し。あと数日。たったそれだけでいいのに。
せめて、友の最期を看取るだけの、ほんの少しの時間だけでいいのに。
それすらも与えられないということは、やはり自分は生まれた時から呪われている種族なのだろう、と。
悪魔は、人間の手を離した。
「少し、野暮用を済ませてくる」
「……おい、サジ」
「心配するな。すぐに戻る」
「サジ」
死にかけの病人のどこに、そんな力が残っていたのだろう。
驚くほど強い力で、アルカウスはサジタリウスの手を掴んだ。
人間が、悪魔の手を引き戻した。
「お前、やっぱ嘘が下手だよ。表情が読みやすい。だから、オレにゲームで勝てねぇんだ」
「手を離せ、アル」
「お前も辛いんだろ? やせ我慢しやがって、馬鹿野郎が」
友情とは、年月の積み重ねだ。
なんとなく、次に相手が何を言うか。
親友であれば、自然とわかってしまう。
だから、サジタリウスはそれを聞きたくなかった。
「オレの魂、お前にやるよ」
「……貴様は、本当にバカだ」
「うるせえなぁ」
サジタリウスは、嫌だった。
「孫娘が会いに来るんだろう? 明日までがんばれ」
「自分の体のことが自分が一番よくわかるって言うだろ? ちょっとばかし、時間が足りねえ」
サジタリウスは、嫌だった。
「ふざけるな。オレが、お前を……喰えるわけが、ないだろう」
「死にかけの老いぼれの魂で、親友を救えるなら……上々だろうよ」
いくら否定しても、いくら拒んでも。
悪魔の本能が、目の前の人間の魂を喰らうことを望んでいる。
人間である前に、お前は悪魔なのだ、と。
どうしようもない飢えに、種族の本能を突きつけられて。
それが、本当に嫌だった。
「ふざけるな。オレは、貴様の望みなど絶対に叶えてやらんぞ」
「素直じゃねえなぁ。オレの体が楽になるように、散々魔法使ってたくせに」
「……」
「たくさん叶えてもらったよ。お前には」
手のひらから、熱が抜け落ちる。
「孫娘の命を、救ってもらった。ジジイになってから、おもしれえ友達ができた」
瞳から、光が失われていく。
「叶えすぎなくらいに、お前には叶えてもらった。でも……そうだな。最後に、もう一つだけ」
それでも、乾いた唇は、滑らかに言葉を紡ぎ続けた。
「アルカウス・グランツが、サジタリウス・ツヴォルフに望む──」
悪魔の胸から浮かび上がった契約書に、老人が触れる。
契約者の望みは、絶対である。
拒否権は、ない。
「──オレより、ちょっとだけ長生きしろ」
親友は、自分を喰え、と最期まで言わなかった。
生きろ、と。
ただ、それだけを、望んでくれた。
◆
外は、雨が降り始めていた。
たてつけの悪い扉が、耳障りな音を伴って開く。
「間に合いませんでしたか」
水滴が、床に落ちる。
声の主は、息を切らしており、髪も乱れきっていた。
彼女のそんな姿を見るのは、はじめてだ。
呻くように、もう動かなくなった手を握りながら、サジタリウスは声を絞り出した。
「……ギルデンスターン」
「驚かないのですね?」
あくまでも、淡々と。
部屋に踏み入ってきた死霊術師は、ベッドに横たわる師の体を見下ろした。
「……ああ。自分の弟子はとんでもねえべっぴんのお嬢さんだと。アルは、言っていた」
「そうですか。生きている内に、直接言ってほしかったですわね」
リリアミラ・ギルデンスターンは、ベッドに腰掛けて、サジタリウスが握っているのとは反対の手を取った。
一秒。
二秒。
三秒。
四秒。
僅か四秒という一瞬が、経過する。
それはサジタリウスという悪魔にとって、生きてきた中で最も長い四秒間だった。
いくら待っても、目の前の現実は覆らなかった。
手の温もりは、戻らない。心臓の鼓動は、復活しない。
悪魔に魂を喰らわれた人間は、二度と蘇生できない。
「……すまない」
謝罪しか、浮かんでこなかった。
人間は、死んだらそれで終わり。
当たり前のことであるはずなのに、その当たり前を、悪魔は正しく認識できない。
「すまない、ギルデンスターン。オレは……」
「謝罪は不要です」
簡潔な否定があった。
「人は死にます。死んだ人間は、生き返りません。あるいはこの世に、悔いのない死など、ないのかもしれません」
指先一つで、それを覆せるからこそ。
「だからわたくしは、死ぬ前に何かを遺すことができた人間は、幸せなのだと思います」
死霊術師は、それを尊ぶ。
「魔王軍の四天王を弟子に取って。悪魔に魂を預けて逝くなんて……おじさまは、本当に死ぬまでギャンブラーでしたわね」
リリアミラの頬を流れている雫が、何なのか。
見極めるためには、サジタリウスの視界は歪みすぎていた。
内側から溢れ、零れ落ちるものが多すぎて、はじめて感じるものを噛み締めるので、精一杯だった。
「サジタリウス。あの人の心は、わたくしの手の届かないところにいってしまわれました」
膝を折り、目線を合わせ、肩に手を置いて。
リリアミラの指先は、真っ直ぐにサジタリウスの胸元を指差した。
「今は、ここにあります」
死霊術師は、それを悪魔に問いかける。
「どう使うかは、あなた自身が、選びなさい」
遺されたものがある。
託されたものがある。
人ではない自分に、人間の友が賭けてくれたものが。
「……ギルデンスターン。頼みがある」
その日。
悪魔と死霊術師は、密約を交わした。
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