黒輝の激怒
体が満足に動かない。
頭が霞がかったように重い。
それでも、赤髪の少女は立ち上がろうと動いた。
最上級悪魔による鏖殺は、滞りなく完了した。
シャナが死んでいる。イトが死んでいる。アリアが死んでいる。
自分以外の全員が、息をしていない。
それでもなお、赤髪の少女は震える腕で、折れた杖を手繰り寄せた。
「へえ」
トリンキュロは、少し意外そうに片眉を釣り上げた。
「まだ折れないんだ。ちょっとびっくりしたよ」
雷撃魔術を撃たれる刹那。トリンキュロは赤髪の少女の中に、紛れもない主の面影を垣間見た。
やはり彼女は、かつて世界を滅ぼそうとした魔王であり、その心の中には尊い主の色合いが、未だに眠っている。
仲間を全員殺せば、少女の心は完膚なきまでに砕けて、魔王の心を引き出せるかもしれない。そんな可能性も前向きに加味した上で、トリンキュロは少女を除く全員を殺害した。
だが、現にこうして、赤髪の少女は立ち上がろうとしている。
「……いやだなあ」
追い詰められても挫けない。
絶望の中にあっても、前を見続ける。
奇しくもその姿は、トリンキュロがこの世で最もきらいな、あの男とひどく重なった
「ボクの魔王様には、勇者みたいになってほしくないんだけどね」
「……そうですか」
鮮やかな赤色の髪が、散らばって広がる。
乱れた前髪の間から、トリンキュロを見据える瞳は、やはり赤い。
「わたしの目標は、勇者さんです。あなたの思い通りには、なりません」
強がりを多分に含んだ、笑み。
瞳には涙の跡が滲み、額には汗が滲んでいる。
だとしても、この状況で笑ってみせることができる。その事実に、トリンキュロは舌打ちを鳴らした。
「……だから嫌なんだ。勇者の側にいる人間は、どいつもこいつもやたら強くなる」
それはまるで、全てを自分の色に染め上げるような。
あるいは、混ぜ合わせた上で、自分の色にしてしまうような。
「なんでもかんでも真っ黒にされちゃたまんないね」
吐き捨てながら、トリンキュロは少女がひろい上げようとした杖を、蹴飛ばした。
「さて、魔王様……キスとハグをしよっか」
あっけらかんと言い放ちながら、トリンキュロは赤髪の少女に迫る。
抵抗はない。麻痺の魔法の効果は未だに抜けきっておらず、最上級悪魔に膂力に対する抵抗の術はない。
だからこそ、少女は言葉を紡ぐことをやめなかった。
「あなたは……」
「ん?」
「あなたは、勇者さんに一番近い魔法を持っているはずなのに……どうしてそんな風になってしまったんですか?」
単純な、憎しみではなかった。怒りでもなかった。
哀れみ。憐憫。
そういった感情がないまぜになった、鏡のような赤く潤んだ瞳。
「……あー」
可憐な少女の姿で。
がっぷりとはしたなく股を開き、がりがりと頭の後ろをかきながら。
トリンキュロはその場に座り込んで、赤髪の少女と向かい合った。
「たとえば、一匹の蝶を飼っていたとして、さ」
悪魔は、例え話を交えて語る。
理解を得られるように。
「あいつは、あの勇者は……飼っていた蝶が死んじゃったら、きちんとお墓に埋めて手を合わせて、毎年蝶が花に蜜を取りに来る季節にその子のことを思い出す……多分、そういうヤツなんだろうね」
あるいは、共感を得られるように。
「ボクはさ、キレイな蝶は標本にして手元に置きたいんだよ」
しっかりと、その赤い瞳と目を合わせて、トリンキュロは言葉を紡ぐ。
その態度は、いっそ薄気味悪いほどに、真摯だった。
「……そうですか。やっぱり、わたしにはわかりません」
「わからなくていいよ」
指先を絡めて、トリンキュロは笑う。
「あなたがボクを理解してくれなくても、ボクがあなたを理解してあげるから」
どこまでも一方的で。
どこまでも利己的な。
そんな在り方で人の心を理解しようとするトリンキュロは、気付かない。
「いつかは死ぬ人の心を、永遠のものにしたい。その色合いを、ボクの中に魔法というカタチで残したい。それは、おかしなことかな?」
「そうですわね。人は、死にます」
いつの間にか、背後に一人の女が佇んでいたことに。
赤髪の少女ではない。
シャナでも、イトでも、アリアでもない。
聞こえてはいけない声が、相槌を打った。
それは、甘く滑らかで美しい、打てば響くような、女の声。
トリンキュロ・リムリリィが、この世で最もきらいな、女の声だった。
「世界を救った賢者も、世界を救った騎士も。あるいは、そんな彼女たちに匹敵する力を持つ、世界最高の剣士も。人間という生き物は、簡単でくだらない理由で、あっさりと命を落としてしまいます」
かつて、四天王第一位だった悪魔は、賢者も、騎士も、世界を救ったパーティーのメンバーを完膚なきまでに叩きのめし、一度は完全に勝利を納めている。
「どれだけ知恵を蓄えようと、どれほど堅牢な鎧に身を包もうと、どんな名刀を携えようと。人は人である限り、些細な油断で、悪辣な罠一つで……そして、時の流れの中で、いつかは命を取り零します」
この世に、もしも、という仮定ほど無意味なものは存在しない。
「ですが、それは今日ではありません」
しかし、トリンキュロ・リムリリィは、その声を聞く度、その名を思い出す度に、いつも考えてしまう。
「もしも、それが今日だというのなら……そんなくだらない死は、わたくしが覆して差し上げましょう」
この女さえ、いなければ。
「リリアミラ・ギルデンスターン……!」
この女さえ、裏切らなければ、自分たちが敗北することなど、絶対にあり得なかった、と。
「ええ、わたくしです。あまりひさしぶり、というわけでもありませんわね。トリンキュロ」
自らの名を呼ばれて、死霊術師はひらひらと手を振った。
女が立っている。
棘のある花の如き、妖艶な容貌。
凛と際立つ、鈴の声音。
ウサギの耳を模した、耳飾り。
要するに、バニーガール。
その姿を、トリンキュロは頭から足先まで、まじまじと見詰めた。豊満な体を惜しみなく晒す、煽情的な衣装を。
「一つ、質問いいかな?」
「どうぞ?」
「お前……どうしてバニーガールなんだ?」
「あらあら。ここはカジノでしょう? 下品な悪魔は、ドレスコードも弁えられないようですわね?」
自分が着ているドレスよりもお前のバニーガールの方が下品だろう、とか。
そもそもカジノのバニーガールは絶対にドレスコードではないだろう、とか。
言いたいことは山程あったが、トリンキュロはそれを口には出さなかった。
敵の服装を、いちいち気にかける必要はないし、それを指摘するのも無駄なだけである。
それよりも重要なことは唯一つ。
「ギルデンスターン。おまえ、どうしてのこのこ出てきた?」
「さて? のこのこ、とは?」
「言葉通りの意味だよ。このボクが、目の前で悠長に、おまえに仲間を蘇生させるのを眺めているとでも思っているのか?」
リリアミラを無力化するための魔法の組み合わせを頭の中で巡らせながら、トリンキュロはわざとらしくせせら笑う。
リリアミラの『
心臓を潰された賢者も、臓物を抜き取られた剣士も、首をへし折られた姫騎士も、指先一つで簡単に蘇る。
逆に言えば、指先一つでも死体に触れることができなければ、蘇生はできない。
四秒という時間は、トリンキュロ・リムリリィの前では、あまりにも長い。
しかし、リリアミラはそれを指摘されても、ゆったりと微笑むだけだった。むしろ首を傾げて、死霊術師は最上級悪魔に言葉を返す。
「わたくしからも、一つ。疑問に思っていることがあるのですが」
「なにかな?」
「よろしいのですか? トリンキュロ。わたくし如きの登場に、気を取られて」
「あ?」
策謀を巡らせているわけではない。
駆け引きを仕掛けているわけでもない。
ただ単純に、一つの事実を、リリアミラ・ギルデンスターンはトリンキュロに教えた。
「あなたの死神が、すぐそこまで来ていますよ?」
赤髪の少女でも、リリアミラでもない。
新たなもう一人の声が、低く響いた。
「コール──ジェミニ・ゼクス」
その名前を、トリンキュロは知っている。
「『
その魔法を、トリンキュロは知っている。
振り返った時には、もう遅い。
入れ替わっていた。
トリンキュロが、熱い口吻と抱擁を交わそうとしていた相手が。
赤髪の可憐な少女から、下履き一つの不審者に。
その姿を、トリンキュロは頭から足先まで、まじまじと見詰めた。
男が立っている。
細くとも鍛え抜かれた体。
突き刺すような視線。
やはり露出している上半身。
要するに、半裸。
パンツ一丁で仁王立ちするその男を、トリンキュロ・リムリリィはよく知っている。
「ゆ、勇者……」
「ひさしぶりだな」
「おま、お前……」
体が震える。
心が生理的嫌悪で揺れる。
玉のような汗が浮かび、トリンキュロの呼吸が、早くなる。
なぜここに?
どうしてわかった?
いつから自分の存在に気がついていた?
限界だった。
言いたいこと、聞きたいことは山程あったが、それでもトリンキュロは問わずにはいられなかった。
「なんで服を着てないんだよぉおおお!?」
「うるせえ」
絶叫するトリンキュロの顔面に、拳が突き刺さる。
トリンキュロ・リムリリィの体には、もはや数え切れないほどに魔法という神秘が収められている。
迂闊に触れれば、魔法効果による即死も有り得る。
そんなことは、関係ない。
勇者は、悪魔の可憐な顔立ちを、躊躇なく殴り抜いた。
「ごっ……!?」
一発、ではない。
踏み込んで、二発。
潜り込むようにして、三発。
踏み締めた床を砕き割って、四発。
流れるような打撃が全身に余すところなく浴びせられ、トリンキュロの小柄な体が吹き飛び、叩きつけられる。
「がっ……あ」
戦闘を開始してから、はじめて。
四天王第一位が、床に膝をつき、肩で息を吐く。
「大したダメージじゃないだろ? さっさと立て」
瞳が、淡々と敵を見据える。
拳が、雄弁に音を鳴らす。
声が、鋭利な殺意を突きつける。
世界を救った勇者が、どこまでも静かに、悪魔へ告げる。
「おれは、今からお前を死ぬまで殴る」
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