色喰いのリムリリィ


 どうして? 

 どうしてこの悪魔は、今。そんなことを聞く? 


 それまでの、小馬鹿にするような態度とは違う。

 雨があがったあとに空に架かる虹は、何で出来ているのだろう、と。

 純粋な知的好奇心から、子どもが質問をするように。

 トリンキュロは、言葉と疑問を重ねていく。


「つらかった? うれしかった? 後悔した? それとも、自分の力不足を嘆いた?」

「なに、を」

「お前のせいで勇者は名前を失ったね。あんなにも人と人の繋がりを大切にする勇者が、人の名前を呼べなくなってしまったね」

「……お前にっ! お前なんかに、何が分かる!?」

「わからないよ? だからこうして、理解するための努力をしているんじゃないか」


 ダメだ。

 のせられてはいけない。

 その葛藤は、もう克服したはずなのに。

 わかってはいても、アリアの心に入り始めた亀裂は、元には戻らない。

 じわじわと、広がって、裂けていく。


「教えてよ、アイアラス。きみの心が、知りたいんだ」


 ただひたすらに、力の差があった。

 奪う者と、奪われる者。

 捕食者と被捕食者。

 それまでアリアの表情を覆い隠していた鎧を、少しずつ、確実に。トリンキュロは剥いでいく。

 心の外殻を取り除いて、その中に眠る傷口に指を差し入れるために。


「顔が見たいな」

「…………やだ」

「ん?」

「……いやだ」


 か弱く細い、女の声。

 それが自分の声であることを、アリアは信じたくなかった。

 身体が、震える。

 心が、恐怖している。

 殺されたことはある。死ぬのはこわくない。

 だけど、死ぬことよりも、自分の心を、無造作に、無遠慮に、暴かれる事の方が、おそろしい。


「やめて……みないで」


 頭兜が歪む。みしみしと、いやな音を鳴らす。

 表情だけは、見られない。

 そんな細やかな最後の砦が。最後の頼みが、あっさりと毟り取られる。

 アリアの表情を、トリンキュロはまじまじと眺めた。

 乱れた金髪。

 濃い汗の匂い。

 噛み締めて血が滲む唇。

 どれこれも、心が折れた人間の有り様として美しかったが、なによりも雄弁な証明は、目元にあった。


「ああ、やっぱり──」


 すごく納得した、と。

 そう言いたげな表情で、トリンキュロは告げた。




「──お前、泣いてるじゃないか」




「う、うあああああああああああああ」


 決壊する。

 ぎりぎりで保っていた心が。

 繋ぎ止めていたプライドが。

 砕かれて、圧し折れる。

 その事実を指摘されて、アリアはようやく自分の瞳から涙が溢れている事実を、認識させられた。

 腕と脚を、捻じ曲げられた時よりも、より深い絶叫が、響いて流れていく。


「いいね。世界を救った姫騎士も、鎧の一皮を剥いてしまえば、こんなにかわいい女の子だ」


 トリンキュロは、アリアの頬を流れる涙を啄んだ。

 シャナは殺した。イトも殺した。

 ではなぜ、最後にアリアを残したか? 

 咀嚼するためだ。

 より、厳密に言うなら。

 あの中で一番食べやすそうで、最も食べ頃に近いと感じたのが、アリア・リナージュ・アイアラスだったからだ。


「じゃあ、いただきます」


 鮮やかな金の髪を、片手で鷲掴みにして。


ことわりほどけ──『意心伝心ハルトゴート』」


 トリンキュロの唇が、アリアの唇をむ。

 あるいは。

 己の思うがままに、己の人の心を喰らう怪物であったのならば、トリンキュロ・リムリリィは決して四天王の頂点に至ることはなかっただろう。

 行動を分析する。分析を煮詰める。煮詰めたそれから、答えを導き出す。

 トリンキュロという悪魔は、常に理性に基づき、相手の心を捕食するための思考を行う。

 そうして、野生のままに喰らい尽くす。


「ご馳走様ちそうさまでした」


 長い長い、口吻くちづけが終わる。


 その悪魔は、触れた全てを模倣する。

 その悪魔は、触れた全てを理解する。

 魔王が倒れた後の世界で、主無き身に成り果てたとしても、決して止まることはない。

 それは、人の心への憧れが生んだ、頂点捕食者。


 『麟赫鳳嘴ベル・メリオ』。トリンキュロ・リムリリィ。


 この世界を滅ぼす、最強の悪魔にして、魔法使いである。


「ありがとう、。これで、きみの心はボクのものだ」


 トリンキュロ・リムリリィには、一つ。小さな拘りがある。

 心を喰らった相手を殺す時は、


「美味しかったよ。 『紅氷求火エリュテイア』」


 その心の名を、呼びながら殺す。

 そんな、小さな拘りだ。

 名前という概念が、人にとってなによりも大切であることを、トリンキュロは、よく知っていた。



 ◆



「見つけたーっ! 最後の一人だ!」


 それは、とある悪魔の最初の記憶。

 飢えて、苦しくて、辛くて、すべてが朧気であった頃の、心の奥底に眠る断片。


「ククク……驚いたな。こんな小さな子どもが、最後の一人とは……本当に大丈夫か?」

「いや、最初の仲間が遊び人だったし、今さらでしょ。ていうかサジ、昨日借したお金返してくれる?」

「フフ……あと三日待ってください」

「サジタリウス貴様っ! また金をたかったのか!? いい加減にしろ! 我々の旅の資金をなんだと……」

「キャンサー、うるさい」

「……」

「まあ、そう目くじらを立てるな、じいさまよ。明日には三倍にして返す」

「結構な自信だけれどね、サジタリウス。あなた、リーダーにたかるのはもうやめなさい。いい加減にしないとその唯一の取り柄のキレイな顔をボコボコにするわよ」

「ククク……待ってくれヴァルゴ。本当に明日は勝てる。勝てるんだ」

「ていうか、お金に困っているなら私から借りなさいな」

「断る。お前から借りても興奮しない」

「殺す」

「やめてヴァルゴ。サジの唯一の長所が消えちゃう」


 賑やかで、うるさいパーティーだった。

 一気に過熱しはじめた喧騒から抜け出して、少女は苦笑した。


「騒がしくてごめんなさい。でも、いつもはみんな仲良しだし……それに、とっても楽しいの」


 眩しい、と思った。


「ねえ。わたしの仲間になってくれる?」


 微笑み、手を差し伸べてくる少女の、すべてが眩しかった。


「あなた、名前は?」

「……カプリコーン。でも……」

「ん?」

「自分の、名前……きらい。好きじゃない」

「どうして?」

「自分は、悪魔だけど……人間に、なりたい」

「……そっか」


 彼女は膝を折った。

 目線が合う。同じ高さで、見詰め合う。

 そんな小さな気遣いを受けたのも、はじめてだった。



「じゃあ、わたしがあなたに名前をあげる」



 地面に生えた小さな花をそっと摘んで、少女は微笑んだ。


「カプリコーン・アインじゃない。あなたの、あなただけの、人間としての名前」


 たくさんのものを、彼女から貰った。

 旅の楽しさも、寝床を共にする温もりも、言葉を交わす嬉しさも。

 けれど、一番最初に貰ったものが、最も大切なものにものになった。



「──トリンキュロ・リムリリィ」



 その名は、悪魔を呪縛から解き放つ、祝福になった。



 ◆



「あなたは……何なんですか?」


 赤髪の少女が、まだ痺れの残る唇で、必死に声を絞り出す。

 彼女はもう、何も覚えていない。

 だから、思い出すまで、繰り返そう。

 何度でも、何度でも、教えよう。


「トリンキュロだよ。ボクの名前は、トリンキュロ・リムリリィだ」


 人は脆い。

 人は弱い。

 人は醜い。


 それでも。


 いつの世も、人の心は美しい色合いに満ちている。

 誰かを愛したことはない。

 悪魔にとって、人は捕食の対象。

 魔王という主に向けていた感情が、愛と呼べるものかどうか。トリンキュロにはわからない。あるいはアリエスの方が、その答えには近かったのかもしれない。

 それでも、カプリコーン・アインという悪魔は、人間としての名を受け取って、人を理解するための道を選んだ。


 トリンキュロ・リムリリィは、人の心を愛している。


 自らの血肉として、その心を己を動かす赫色の中に落とし込むことを望む。

 食らって、食らって、喰らい続けて。

 その先に、孤独が待ち受けているとしても。

 きっとそれは、唯一無二の極彩に成り得るだろう。

 だからこそ、人間を目指す悪魔は信じている。


 ──ボクの愛が、最もとうとい。

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