姫騎士のトラウマ

「え」


 黒いドレスの胸元を彩るのは、冗談のように赤い鮮血。

 痛みと驚愕。

 ようやく認識が追いついて、振り返った背後には穏やかに微笑む悪魔がいた。


「やあ。グランプレ」

「トリンキュロ……どうして?」


 ごぷり、と。

 血の泡を吹き出しながらも、シャナは疑問を口にせずにはいられなかった。

 隠れていたわけではない。魔力探知に、抜かりはなかった。

 仮に、再生や回復の魔法を使っていたとして。そもそも、全身が跡形もなく吹き飛んでいた悪魔に、思考を回すための『頭』はないはずだ。


「どうしてぇ? お前、曲がりなりにも賢者なんだから、そんなこと聞くなよ。自分の頭で考えな」


 魔法による防御の認識が間に合わないほどの、圧倒的な速度。

 魔法による再生すら許さない、絶対の威力。

 雷撃魔術は、それらの条件をすべて満たしていた。

 すべての条件を満たしていたとしても、それは魔王軍四天王第一位を倒せるという事実には繋がらない。

 五体満足。傷一つなく、汚れ一つなく、トリンキュロ・リムリリィはそこにいた。


「いやあ、よかったよ、グランプレ。増えたお前を一人ずつ殺すのは……正直なところ、ボクでも面倒だった。昔からの癖だよね? きみはいくら増えても、疲れる戦いをしたあとは、必ず一人に戻りたがる。勝利を確信して、一人にまとまってくれるのを待っていて正解だったよ。全員殺すよりも、やっぱりこっちの方が断然早い」


 質問に、答えはない。

 ただ、悪辣で合理的な思考をひけらかしながら。

 子どもが折り紙のつくりものを潰すような気安さで、トリンキュロはシャナの心臓をあっさりと握り潰す。

 破裂音と共に、小柄な体が糸の切れた人形のように揺れた。


「賢者さ……!」

「失礼するよ、我が君」


 滑らかな動作だった。


「少しだけ辛抱を……『虎激眈眈アリドオシ』」」


 一瞬で距離を詰めたトリンキュロは、賢者の心臓を潰した手のひらで、少女が賢者から譲り受けた杖を手折った。

 それと同時に、赤い瞳を見開いたまま、少女の体が硬直する。


「大丈夫。『虎激眈眈アリドオシ』は全身を『麻痺』させるだけの魔法だから。こわがらないで。それよりも、雷撃魔術を使うために、随分無理をしたでしょう? すごく汗をかいているね?」


 ぺらぺらとよく回る口の中から、赤い舌先が躍り出る。

 べろん、と。

 トリンキュロは、固まる少女の頬から流れる雫を舐め取った。満足気に熱い息を吐いて、最上級悪魔は頬を赤らめる。


「……うぅぅん。しょっぱい。良い味だ」

「いや、キモいキモい。もっかい死ね」


 吐き散らされたのは、嫌悪の言葉。

 汗の味わいに浸るトリンキュロに向けて、イト・ユリシーズは再び抜いた刃を振りかぶった。

 魔王の魔術ですら仕留めきれなかった、誤算。

 シャナを一撃で仕留めることを許してしまった、迂闊。

 反省すべき点はいくらでもあるが、後悔をしている暇はなく。それらの後悔を踏まえたとしても、イトのやることは変わらない。

 トリンキュロがなぜ復活したのか。再生したのか。回復したのか。そのタネは未だにわからない。

 だが、接近し、斬り裂けば、殺し切れる。

 そんなイトの確信を、




「魔王様バリア〜!」




 トリンキュロ・リムリリィは、邪悪を以て攻略する。

 己の敬愛するかつての主を、盾にするという形で。

 思ってもいなかった一手に、イトの思考が遅れる。


(斬撃の射線上に、アカちゃんが被る……!)


 イト・ユリシーズの斬撃は、必殺。

 必殺であるということは、斬れば殺してしまうということ。


「なんでも斬れちゃうってことはさ……逆に言えば、自分が斬りたくないものは、絶対に斬れないってことだよねえ?」


 振りかぶった刃が、止まる。

 イトは即座に遠隔斬撃という攻撃手段を捨て、魔術による攻撃に切り替えるために、懐に手を伸ばした。


魔術そっちも使えんのは、さっき見たんだよなあ!」


 悪魔が吼える。

 赤髪の少女を、盾として前に抱えたまま、トリンキュロが前方に跳ぶ。

 愛刀を振るうことを躊躇ったイトは武器を変え、魔術用紙スクロールを抜き出した。

 空中で、交差する一瞬。

 勝敗は、一撃で決した。


「うん……強かったよ、騎士団長。きみは、本当に強かった。ただ残念なことに、ボクにはあんまり結婚願望がないからさ。その蒼い心を食べるのはやめておくよ。お腹、こわしたくないし」


 無感動に、トリンキュロは言い捨てた。

 悪魔の細い腕が、無造作に手の中のものを捨てる。それは、トリンキュロがすれ違い様にイトの腹から抜き取った、人体のパーツだった。

 あまりにも重い、血を含んだ臓物が地面に落ちる音が響く。

 ただの一言すらなく。

 イト・ユリシーズが、己の体から溢れ出る血の海の中へ、倒れ伏す。


「……ッ……ぅ……ッ!」

「ダメだよ、魔王様。全身が麻痺してるって言ったでしょう? 無理に叫ぼうとすると、喉を痛めちゃうよ」


 もう動かない、シャナとイトを見詰めて。

 目の中にいっぱいの涙を浮かべる少女の慟哭を、間近で堪能しながら、悪魔はあくまでも優しく囁いた。

 かつての魔王は、涙を流すことなどなかった。

 しかし、これはこれで、良い。

 整った美貌が、悲しみと涙で歪む様。

 それは、トリンキュロの好物の一つだ。


「わかるよ、魔王様。人間って悲しい生き物だよね。だって、こんなにも簡単に死んじゃうんだから」


 だから、と。

 トリンキュロはわざとらしく言葉を繋げて、


「こんなにもか弱い人の心は、せめて大切にしたいよね?」

「トリンキュロッ!」

「うるさいなぁ。声がデカいぞ、アイアラス」


 最後の一人。

 激昂する騎士の大剣を、トリンキュロは悠々と受け止めた。

 ドレスから伸びた細い片脚が、姫騎士の鎧の腹を踏み拭き、吹き飛ばす。


「さぁーて、アイアラス。どうする? また死んじゃったね? お前は騎士で、前に出て仲間を守るのが役目のはずなのに……まーた仲間を守れずに、お前が最後の一人になっちゃったね?」


 全身が麻痺して動けない少女を、やさしく床に下ろして寝かせる余裕を保ちながら。

 悠々と、トリンキュロはアリアに向けて問い掛けを続ける。


「黙れ」

「黙れとか、コミュニケーションを否定することを言うなよ。悪魔にだって心はあるんだ。悲しくなっちゃうだろ?」

「黙りなさいっ!」


 炎と氷が、乱舞する。

 しかし、当たらない。激昂するアリアの心の内を読んでいるかのように、トリンキュロは軽いステップを踏みながら、それらの攻撃を回避する。

 アリア・リナージュ・アイアラスの強さは、熱のような闘争心と冷たい判断力が違和感なく混じり合っていること。

 守るべき仲間を失い、油断を突かれ、なによりも勇者という精神的支柱を欠いた今。

 世界を救った騎士の全力は、失われている。


「『自分可手アクロハンズ』……手指鏃ハントペイル


 だからといって、トリンキュロが手を抜く理由は、ない。

 自らの指先を『自分可手アクロハンズ』で鋭い弾丸の形に成形したトリンキュロは、その先端を無造作にアリアへ向けた。


「喰い破る猪牙に」


 模倣した魔法を使用する、アニマイミテーション。

 模倣した色魔法を使用する、カラーイミテーション。


「蜂起する回転を」


 そして、それらを溶け合わせることで生み出す、新たな魔法の創造。


「混ざれ……──」


 それこそが、トリンキュロ・リムリリィの真骨頂。

 射出された五発の弾丸の内、三発は鎧と剣に阻まれ、弾かれる。だが、その内の二発が鎧の間からアリアの右腕と左脚に容赦なく食い込み、



「──『猪突蜂天ファング・ビーネ』」



 右腕と左脚が、回転し、捻れた。


「ぎっ……あぁぁぁぁぁ!??」


 被った頭兜ヘルムで、表情は見えない。

 逆に言えば頭兜ヘルムを被っていても木霊するほどの絶叫が、姫騎士の口から溢れ出た。


「うっ……ふぅ……はぁ、はぁ……」


 片膝をつき、痛みを堪えるアリアの肩に、トリンキュロはそっと手を置いた。


「ごめんね。今、楽にするよ、アイアラス……『虎激眈眈アリドオシ』」


 麻痺の魔法で、アリアの痛覚が和らぐ。

 しかし同時に、全身から力が抜け、抵抗の力すら抜け落ちる。

 トリンキュロは、アリアの体を押し倒して、その上に馬乗りになった。


「軽めに打たせてもらったよ。これなら、まだ喋れるだろ?」

「離せ……!」

「離さないよ? せっかく、やーっと捕まえたんだから」


 抜けた力でもがこうとするアリアの腕を、トリンキュロは小柄な体でがっしりと掴む。

 外見は幼女のそれであっても、中身は正しく化物の膂力。


「離せって、言ってんでしょうが……!」


 体が麻痺していても、魔法はその限りではない。

 全身からの、発熱。触れたものを焼き尽くす、発火。

 しかし、そんななけなしの抵抗すら、トリンキュロ・リムリリィには通用しない。

 鎧を通した放熱は、すべて『青火燎原ハモン・フフ』によって拡散され、周囲に熱波を撒き散らして終わる。

 トリンキュロの顔を見上げて。頭兜ヘルムの中で唇を噛みながら、それでもアリアは思考する。


 考えろ。

 考えろ。

 考えろ。


 なんでもいい。

 逆転の方法。せめて赤髪の少女あの子だけでも、この悪魔から逃がす方法を……


「ねえ、アイアラス。一つ、質問いいかな?」

「お前に答えることなんか……!」

「最後の戦いで、勇者に庇われた時。どんな気持ちだった?」


 投げられた問いに、アリアの思考は貫かれた。

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