紅蓮の騎士VSトリンキュロ・リムリリィ
アリア・リナージュ・アイアラスは、明朗快活に見えて、意外ときらいなものが多い。
トラウマになってるスライムとか。
泡の抜けたぬるいビールとか。
父親とか。
他の女の子を目で追う彼の横顔とか。
彼を呪いから守り切れなかった自分自身とか。
彼に呪いを遺していった魔王とか。
トリンキュロ・リムリリィとか。
アリアの『嫌い』という感情の多くには理由があるが、トリンキュロに対するそれは、明確な理由のない……ある種の生理的嫌悪に近かった。
もっとも、自分を殺したことがある相手を好きになれ、と言う方が、そもそも無理な話とも言える。
「ひさしぶりだねえ、アイアラス。元気だった?」
形の良い小さな唇が、滑らかに再会を喜ぶ言葉を口にする。
にこり、と。
人によっては見惚れてしまいそうな笑顔で、アリアは即答した。
「口を開くな。気持ち悪い」
耳が腐りそうだ。吐き出す息すら、嫌悪の対象である。
「ひっどいなぁ。感動の再会に似つかわしくない暴言だよ」
「あなたと会えてうれしい人間なんて、この世にいる?」
本当は、言葉すら交わしたくなかったが、しかし時間稼ぎは必要だ。
世界を救った姫騎士は、敵を前にした時、どのように相手を倒すかを最速最短で組み立てる。
この場合の『倒す』という言葉の意味は、殺さずに制圧するか、殺し切るかの二択に分かれる。
今回は、言うまでもなく後者だ。
「シャナ、防護結界張って。あと、カジノの人の避難誘導。赤髪ちゃんのカバー」
「もう全部やってます」
小声での簡潔な指示に、背後の賢者は即答。万全のバックアップを確認して、迷うことなくアリアは踏み込んだ。
黒いスーツの、上着が揺れる。
トリンキュロ・リムリリィを相手に、迷ってはならない。守勢には回ってはならない。殺すつもりで攻撃を加え続けなければ、四天王の第一位は殺せない。
かつてトリンキュロに殺された経験のあるアリアは、それをよく知っている。
殺意と敵意をふんだんに載せた、大上段の振り下ろし。
受ければ首どころか、体そのものが真っ二つに割かれるであろう、驚異の斬撃。
「『
しかし、目の前に濃厚な死が迫っても、トリンキュロ・リムリリィは動かなかった。
直立不動。自分の首を繋ぎ直そうともせず、プレゼントのように抱きかかえたまま。ただ当たり前のようにその場に佇んで、迫る大剣を見上げる悪魔の少女は魔法の言葉を紡ぐ。
「アニマ・イミテーション────『
油断ではない。慢心でもない。
それは、実力に基づいた、余裕と観察だ。
ぐにゃり。
トリンキュロの体を切り裂こうとした大剣は、その小柄な体躯に触れた瞬間、まるでおもちゃのように折れ曲がって、ゴムのようにたわんだ。
物理法則を無視した干渉。
異常極まる手応えに、アリアは忌々しげに吐き捨てる。
「触れたものを、やわらかくする……軟化の魔法」
「なつかしいでしょ? これで勇者くんの『
アリアは、もうトリンキュロの問いかけに応えない。そんなものに応じている暇があるのなら、次の一手を即座に打つ。
口を開く代わりに、アリアはトリンキュロの肩を掴みとった。
接触に、成功する。
「お?」
「溶けて燃えろ」
触れた瞬間に、アリアの『
一瞬で限界まで引き上げられた体温。普通なら有り得ない温度上昇によって全身の血液が沸騰し、トリンキュロ・リムリリィの肉体が燃え上がる。
魔法使い同士の戦闘。特に色魔法を保有している者同士の戦いは、触れられた時点で勝敗が決してしまうことも多い。それは、アリアの『
「ああっ! ボクの体がっ!?」
そう。普通の相手であれば。
「……ちっ」
堪らず、口から舌打ちが漏れ出る。
全身が燃え上がって炎に包まれた程度では、殺せない。トリンキュロ・リムリリィは、健在だった。
いや、果たしてその有様を、健在であると言っていいのだろうか。
アリアの『
仮に、自分の首から下が着脱可能であったとして。
首をお手玉のように放り投げなければ、避けられない攻撃を受けたとして。
実際に、自分の頭をお手玉のように放り投げることができるだろうか?
普通は、できない。
しかし、それを平然と行なってしまうのが、トリンキュロ・リムリリィの異常な精神性だった。
見上げた視線が、ぴたりと噛み合う。空中で、生首が嗤う。文字通りに、アリアを見下す形で、首だけになったトリンキュロが再び言葉を紡ぐ。
「じゃ、反撃するね。『
それは、トリンキュロ・リムリリィの次の魔法だ。
聞き覚えのあるその名に、アリアは防御の構えを取った。
しかし、遅い。
構えるよりも早く、まるで見えない腕に張り手を受けたような衝撃を浴びて、姫騎士の体は吹き飛んだ。
「アリアさん!?」
「っ……大丈夫」
血の混じった唾が、床に落ちる。
空中で一回転。体勢をコントロールして、アリアは前を見る。
思考を止めるな。集中を切らすな。視線を外すな。
自分自身にそう言い聞かせながら、トリンキュロの姿を確認しようとして、
「──『
アリアは、理解できないそれを認識する。
──なぜだ?
首から下が失われたはずのトリンキュロの身体は、五体満足。全てが元通りになっていた。
服も、髪も、全身を飾り立てる細やかな装飾品も、全てが。
「思考、止まってない?」
「っ!」
小さな確認は、明らかな嘲りだった。
可愛らしい靴に踏み込まれた足元の床が、不自然に沈み込んで、弾む。
トリンキュロの体が、気味の悪い滑らかさを伴って、空中に跳ねる。
足元の床をトランポリンのようにやわらかくすることで、フリルに彩られた体が宙を舞う。
「『
加速、接近。
少女の風情を残す、あどけなさ。小枝のような、細い手首。しなやかというにはあまりにも華奢な脚。
そこから繰り出されるのは、強化の魔法による、埒外の怪力。
半ば反射でアリアは全身に鎧を展開。それを身に纏うことで、トリンキュロの打撃を浴びて、受ける。
姫騎士は、膝をつかなかった。大きく後退しながらも、その怪力の直撃を、耐える。
「お……! 魔法の接触発動の反応が早くなってるね。殴っただけで拳を焼かれるとは思わなかったよ。あれから鍛えたのかな? すごいすごい」
焼け焦げた拳を、頷きながらしげしげと眺めて、トリンキュロは頷いた。
「でも、ボクの打撃をもろに受けちゃダメでしょ。ギルデンスターンもいないのに。死んじゃうよ?」
どこまでも皮肉めいた、トリンキュロの物言い。
それに答える代わりに、アリアは頭兜のフェイスプレートを跳ね上げた。
「ぐっ……ごほっ、うっ……ぅ」
そうせざるを、得なかったからだ。
蒼い瞳に、涙が滲む。堪えきれなかったそれを、吐き出す。
血の混じった、唾とは違う。
濁流のような赤い血の塊が、姫騎士の口から流れ落ちた。
「ふっ……ふぅ、はっ……」
「騎士さん!」
自分を案じる声を、アリアは手を挙げるだけで制した。
逆に言えば、声で応じる程度の余裕すら、もう残されていなかった。
赤髪の少女は、瞠目する。
アリア・リナージュ・アイアラスは、世界を救った姫騎士だ。
あの時は隣に勇者がいたとはいえ、ジェミニとの近接戦闘でも、決して遅れを取らなかった。そんなアリアが、こんなにも簡単に弄ばれている。
なにより、次から次へと異なる魔法を繰り出す、トリンキュロの戦法は、例えるなら。
「な、なんなんですか。あれじゃ、まるで……」
「ええ。あなたが考えている通りですよ」
アリアを治癒の魔術で補助しながら、シャナは唇を噛む。
「トリンキュロ・リムリリィは、おそらく……この世で最も、勇者さんに近い魔法使いです」
「はあ? やめてよ。あんなヤツと一緒にしないでほしいな」
決して大きくはなかったシャナの声を聞き咎めて、トリンキュロはその発言を訂正する。
「ボクの魔法は『
学ぶこと。習うこと。
人の進歩は、自分より優れた誰かの、真似をすることからはじまる。
模して倣う。
殺して奪う勇者の魔法に比べれば、トリンキュロの『
「相手を殺さなきゃ奪えない、黒の魔法なんかよりも絶対に強いよ」
その使い手が、こんなにも最悪でなければ。
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