勇者が死霊術師さんの名前を呼んだ日
人間の罪は、根本的に償うことができない。
二十と数年の時を生きて、それがリリアミラ・ギルデンスターンの得た一つの結論であった。
たとえあったことを、なかったことにしても。犯した罪のすべてを、元通りにすることで精算したとしても。
過去の全てを、巻き戻すことは不可能だ。
昔の話である。
リリアミラが魔王を裏切り、勇者の仲間を蘇生し、世界を救うパーティーの一員となって、まだ一月も経っていない頃。
「リリアミラ・ギルデンスターンだな?」
「人違いでは、ありませんか?」
休憩のために立ち寄った酒場は、お世辞にも治安が良いとはいえない場所であり、他のメンバーが席を外しているタイミングであったこともまずかった。あるいは、酒臭い息を吐くその男は、リリアミラが一人きりになる瞬間を最初から見計らっていたのかもしれない。
だとすれば、赤ら顔の見た目よりも、脳にアルコールは回っていないらしい、と。リリアミラはそう思った。
「アンタみたいな別嬪さんの顔を、見間違えるわけがねえ」
「それは恐縮です」
「洗脳が解けた、なんて言い訳をして、うまく勇者の小坊主に取り入ったみたいじゃねえか。そりゃあ、うまくいくだろうなぁ。なにせ、その顔にその身体だ。どんな男でも誘惑されりゃあころっと落ちるだろうよ」
下品な男だった。
男の角張った大きな手が、無遠慮にリリアミラの胸に伸びる。露出の少ない厚手のセーターの上から、欲望に塗れた指の動きを感じて、リリアミラは僅かに眉を歪めた。
「何の御用でしょうか? 夜の相手でしたら、専門の方にお願いしてくださいませ。べつに、お金に困っているわけではありませんので」
「オレの故郷はアジストンだ。てめぇらが奪っていった土地だ。忘れたとは言わせねえぞ」
記憶力には、それなりに自信がある。ああ、自分が担当した侵略地域か、とリリアミラは心の中で納得を得た。
その上で、勇者パーティーの一員となった死霊術師は答える。
「申し訳ありません。わたくし、洗脳されていた間の記憶は曖昧なのです。ですが、どうかご安心ください。罪滅ぼしになるかはわかりませんが、わたくしは必ずあなたの故郷を勇者さまと共に、取り戻して……」
「ふざけるなっ!」
男の手が首筋に伸びて。女性にしてはやや高いリリアミラの体は、しかし根本的な男女の体格差には叶わず、一瞬で酒場の汚い床に押し倒された。
「オレは戦場で、てめえの顔を見た! てめえの表情を見た! あれは、破壊と略奪に心酔している人間の目だった! オレにはわかる! オレに、オレにだけはわかる! てめえはバケモノだ! この世に、存在しちゃいけねえ人間だ!」
男にのしかかられて、激昂したその表情を見上げる。頬に落ちる唾の感触が気持ち悪い。
それでも、リリアミラは一切抵抗しなかった。
ああ、髪が乱れるなぁ、とか。
どこまでやられてしまうんだろう、とか。
そんなことを思いながら、どこまでもぼんやりと男の声を聞いていた。
「勇者と一緒に世界を救えば! てめえの罪を償えるとでも思ってんのか!?」
くだらない質問だった。
そんなことは、欠片も思っていない。
人間が罪を償う最大の形は、死んでこの世から消え去ることだ。死んでしまった人間に憎しみをぶつけることは不可能だから。
けれど、リリアミラの魔法は、それを許さない。
いっそ死んでしまえれば、どんなに楽だろうか。
今も昔も、男に犯されかけているこの瞬間も、リリアミラはそれを望んでいるというのに。
生まれ持った瞬間から心の内にある魔法だけが、そのたった一つの願望を拒絶する。
「すいません。その人、おれの仲間なんです。やめてもらえませんか?」
喧騒の中で、何故かその落ち着いた声音だけははっきりと耳に届いた。
リリアミラの服を剥ぎ取ろうとしていた手が、一瞬で強張って固まる。
「く、黒輝の……」
「故郷を失ったあなたの気持ちはわかります。でもそれは、あなたが今ここで、彼女を傷つけていい理由にはなりません。彼女に対して抑えきれない気持ちがあるのであれば、リーダーであるおれに向けてください」
年下の少年に淡々と諭され、ヤニで汚れた男の歯が、ぎしりと音をたてる。
男の懐から、鈍く光るナイフが取り出される。
「お前がっ! お前の魔法があるなら! こんなヤツはさっさとぶっ殺して、蘇生の魔法だけ奪っちまえばいいじゃねえか! それをっ……!」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
その前に、勇者の脚が男を店の外まで、蹴り飛ばしていた。
リリアミラは、ぼんやりと自分を助けてくれた勇者の表情を見上げる。
少年から青年になろうとしている彼の表情は、ひどく歪んでいた。
「……それができれば、とっくにやってるよ」
吐き捨てる言葉も、心なしか汚い。
彼にしては、本当にめずらしい表情だった。
「……立てるか?」
「はい。大丈夫です」
「なんで抵抗しなかった?」
「わたくし、か弱い乙女ですので」
「嘘つけ。それに、あんたの魔法なら過剰防衛で殺しても、いくらでも生き返らせることができるだろ?」
「でも、殺してはいけないでしょう? わたくしはもう、勇者のパーティーの一員なのですから」
苦いものを噛み潰しているようだった表情が、そこできょとん、と。丸くなった。
堪らず、リリアミラは笑う。やはりまだ、彼の顔つきは青年のものではなく、少年に近しいものだ。それが何故か、リリアミラにはとても好ましい事実であるように思えた。
「それに、こういう扱いを受けるのは、慣れています。それなりに長い間、身体をおもちゃにされていた経験もありますから」
「おれは……」
露出した肌に視線を合わせないように上着を掛けながら、少年は女性の体を抱き起こす。
「あんたがどういう境遇にいたのか、とか。どうして魔王の傘下に加わったのか、とか。そういう過去に興味はないし、そういう過去に同情するつもりもない。ただ、魔王を倒すためにあんたの力が必要だから、利用する。それだけだ」
また笑ってしまいそうになる。勇者は、嘘が下手だった。
「でも、あんたはもうおれの仲間だから。さっきみたいなのは、見過ごせない」
「お優しいのですね」
「優しくないよ。おれも、本質的には、あのおっさんと同じだ。おれはあんたを、絶対に許さない。最後に必ず殺す」
「はい。わたくしも、それを望んでおります」
だから、と。
勇者の少年は言葉を繋げて。
「リリアミラさん、あんたを殺すまで、おれはあんたを誰にも傷つけさせない」
この日。彼は、パーティーの仲間として、はじめて彼女の名前を呼んだ。
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