勇者と女王陛下の昔の話

 昔の話をしよう。

 ある国に、一人の少女がいた。

 少女は、お姫様だった。

 ただのお姫様ではない。囚われのお姫様だ。

 少女は幼かったが、しかし幼いながらに聡明で、だからこそ悪意を持つ人々からは疎まれていた。

 国の実権は、アリエス・レイナルドという若い大臣が握りつつあった。彼は老いた王から絶大な信頼を得ていた。そんなアリエスが求めていたのは、自分の傀儡となる愚鈍な王。決して、聡明な王の後継者ではなかった。

 少女は、知っていた。アリエスの正体が人間ではないことを。

 少女は、知っていた。アリエスの正体が最上級の位にある悪魔であり、魔王と通じていることを。


 ──おや、見られてしまいましたか。


 闇の中で、人ではない証の翼を広げるアリエスを見た時。

 少しだけ。その漆黒がきれいだと思った。


 ──誰かに話しても、構いませんよ。話した相手を殺すだけですからね。


 けれど、その悪魔がこちらに向ける瞳は、やはり人間のそれではなかった。

 指の一本すら触れることなく、アリエスは少女を己の監視下に置いた。

 あの大臣は悪魔だ、と。年相応の子どものように、泣き喚くことは簡単だったかもしれない。 

 しかし、少女には何もできなかった。大臣の正体がバケモノの悪魔である、と主張したところで、誰も自分の言葉を信じてくれないのは明らかだったからだ。子どもの告発にはなんの意味もない。それが無駄な行為だと理解する程度には、やはり少女は賢かった。

 けれど、賢いということは、決して諦めが良いということではない。

 少女は一日中、窓の外を眺めるようになった。

 もしも、これが本で読むような物語であったなら。

 もしも、自分が物語のプリンセスであったなら。

 白馬に乗った王子様が、きっと自分を助けに来てくれるのに。

 広い部屋の中だけで完結する、何不自由ない生活。しかし、少女にとってそれはなによりも息が詰まる暮らしだった。


「……鳥になれればいいのに」


 結局、少女の元に、白馬の王子様は現れなかった。

 その代わりに、黒い勇者が助けに来た。


「やばい! 危ないっ!」

「え?」


 彼は、空を飛んできた。

 比喩ではない。本当に空を飛んで……否、どちらかといえば、鳥のように飛ぶというよりも、一本の矢の如く空を割く勢いで、少女の部屋に突入してきたのだ。

 破壊が、あった。

 錐揉み回転しながら突っ込んできた彼の体は、窓を叩き割り、そのままの勢いで部屋の中の机やベッドなどの調度品を粉々に破壊し尽くし、やはりぐるぐるともんどり打って、ようやく止まった。


「……うん。完全に加減ミスったな、これ」


 床の上に大の字になった状態で、彼はそう呟いた。全身から血を吹き出していてもおかしくないはずなのに、彼の体には傷一つなかった。

 まるで、体の全部が鋼で出来ているみたいだ、と。少女はそう思った。


「お兄さん……誰?」

「あ、どうも。はじめまして、姫様。勇者です」

「勇者、さん……?」

「はい、勇者です」

「……勇者って、空飛べるの?」


 至極真っ当な疑問に、勇者は力強く頷いた。


「うん。おれは勇者だからね。空くらい飛べるよ」


 飛べるらしい。

 すごい、と少女は思った。


「あれ? でも、あなたはたしか、追放されたって……」

「おお! そこらへんの事情もご存知とは! なら、話は早い」


 名前と噂だけは、聞いたことがあった。

 隣国の姫君を攫い出して国を出奔し、各地を転々としながら仲間を集め、武勇伝を打ち立てている若き英傑。

 そんな彼が、どうしてここに?


「何を、しにきたの?」

「及ばずながら、姫様を助けに参りました」


 勇者は、駆けつけてきた警護の騎士を殴り倒しつつ、年端も行かない少女に向けて、淡々と語った。

 魔王を倒せば、世界は平和になると思っていた。

 しかし、世界はそんなに単純ではなかった。魔王の手先は、既に人間社会の根深い部分にまで食い込んでおり、それは王国を内側から蝕む病巣になりつつある。

 魔王を倒したとしても、社会の深い部分に潜む悪魔が健在であるならば、それは決して人類の勝利ではない。

 世界を救ったとしても、そこに人が安心して生きることができる国がなければ、意味はない。

 だから、あなたが必要なのだ、と。

 勇者は少女に向けて、ではなく。たとえ幼くても、正当の血筋をたしかに受け継ぐ、王家の後継者に向けて、話をしていた。


「荒唐無稽な話なのは、理解しております。ですが、おれは世界を救うことができても……。だから、力をお借りしたい」

「……私に、どうしろと?」

「おれを信じて、おれと一緒に、ここから逃げてほしいのです」

「……ここから、逃げて。そのあとは、どうするのです?」

「然るべき準備を整えた後に、王都に帰還していただきます」


 小さな女の子ではない。

 か弱い姫でもない。

 これからの国を背負う一人の王に対して、勇者は膝を折り、頭を垂れた。

 少女にとって、それははじめて受けるかもしれない臣下の礼だった。


「ユリン・メルーナ・ランガスタ王女殿下」


 彼に、名を呼ばれた。

 たったそれだけで、何かが変わる予感がした。


「この国を、立て直すために。新しい王になってください」


 世界を救うのが、勇者の役目なら。

 世界を救った、その後で。人々が暮らす国を導くのが、王の役目だ。


「……本当に、できますか?」

「はい」


 月明かりに照らされて。

 侵入者の存在を告げる警告の鐘が鳴り響く中で。


「この国のすべてを、ひっくり返してでも……おれが必ず、あなたを王にして差し上げます」


 夜の黒い影に埋もれる勇者の微笑みに、しかしユリンは強く惹かれた。







 歴史上に残る勇者の偉業は、およそ六年に及ぶ旅路の中で、枚挙にいとまがない。

 たとえば、魔王軍最大の要衝と謳われた地下要塞都市ルグソーンに対して、冒険者たちを束ねて挑んだ迷宮大攻略戦。

 あるいは、大陸東方に位置する、シーザァルト連合王国が一つにまとまるきっかけを作った、ビタンの海戦。

 もしくは、篤い信仰によって国のシステムを維持してきた聖女を拉致し、一国の宗教概念を根本から揺るがした、グエイザルの衝撃。

 さらには、四人の騎士団長が敗北した後、絶望的だった北部戦線を押し戻すきっかけに繋がった、四天王第一位トリンキュロ・リムリリィの撃退戦……エオ山の戦い。


 そして、忘れてはならない。

 勇者の最大にして最後の偉業──魔王討伐。


 しかし、黒輝の勇者が関わった戦いの中で、最大の偉業は魔王討伐であったとしても、最大のは上記のどれでもない、と。後世の歴史家たちは、口を揃えて語る。


 それは、大陸最大の国家、ステラシルド王国にて勃発した。

 王家の正統なる後継者、ユリン・メルーナ・ランガスタを旗印に。人類を救う勇者が、魔王ではなく、当時の王政へと刃を向けた、異端の戦い。


 ──これを『勇者と女王の反乱』と呼ぶ。

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