蒼穹の剣士は、勇者を愛している

 一緒に溺れてあげてもいいよ、と。おれの横に座っている女の人は、そう言っていた。

 けれど、どこまでも蠱惑的なその表情を見上げて、おれは答えた。


「それは、だめです」

「なんで?」

「おれは、先輩に死んでほしくありません」


 きょとん、と。

 大人っぽかった表情が、急に子どもらしくなった。

 すべての毒気を抜かれたような顔になって、しばらく硬直した後。


「ふふっ……あっはっは! そっかそっか! 死んでほしくないかぁ! そうきたか……うんうん。そうだよね」


 ひとしきり膝を叩いて、頭を振って頷いて、笑うだけ笑って、


「キミは、勇者だもんね」


 何かを確認するように、少しだけ寂しそうな顔をした。


「うん。ワタシも、勇者くんには死んでほしくないな」


 そして次の瞬間には、立ち上がった先輩の横顔は、甘い女性のそれから、精悍な剣士に戻っていた。


「じゃあ、死ぬのはやめて、ここから出ようか」

「いや、でもどうやって……」

「決まってるじゃん」


 明確な、解決策の提示があった。


「斬って出れば良い」


 ◇


 一緒に死んであげてもいいよ、と。そう伝えた。

 あなたには死んでほしくない、と。そう返された。

 こまった。そんな風に言われたら、もう何も言えないに決まっている。

 彼の周囲の岩を切り裂いて、その体を引きずり出しながら、イト・ユリシーズは苦笑した。


「あれ? キミ、ちょっと太った?」

「笑えない冗談はやめてください。これでも毎日剣は振ってましたよ」

「でも鈍ってるんじゃない? だから逃げ遅れて生き埋めになるんだよ」

「言い返せないからやめてください」


 昔と同じように、軽口を叩き合う。

 肩と半身に寄り掛かるようにして預けられた、彼の体重が心地良い。


「うん。やっぱりちょっと重くなったよ」


 片手で、勇者の体を抱き寄せて。

 片手で、愛刀を構えて。

 イトは、やわらかく笑った。


「……嬉しいな」

「何がです?」

「ワタシは、勇者にはなれなかったけどさ」


 その剣士は、この世の全てを斬って断つ。

 その剣士は、この世の全てを絶つことで否定する。

 穢れを祓う一振りの刃は、魔王の気紛れによってその在り方を歪められた。

 今は違う。


「勇者の危機に……勇者を救うことができる存在にはなれた」


 後に勇者となる少年との出会いを経て、その深い蒼は、鮮やかに色合いを変えた。

 それはかつて、海の底に沈む闇すらも斬り裂く、暗く冷たい蒼黑だった。

 今は、違う。


「あ、そういえばワタシの魔法、切断じゃないからね」

「え?」

「ワタシの魔法はね……ワタシが振るう刃に触れたすべてを『断絶だんぜつ』するんだ」


 切断、ではない。

 切断とは切るだけ。物体を両断するだけに留まる。

 断ち斬った上で、存在そのものを、絶つ。

 存在と概念の断絶。

 それこそが、イト・ユリシーズの魔法の本質。


「離れちゃダメだよ。危ないから」


 自分たち以外に、中に人がいないのなら。

 もう何も、遠慮する必要はない。

 今、この瞬間。イトが斬り裂くのは、目の前を埋める瓦礫ではない。視線の先の岩の塊でもない。


 この迷宮そのものを、一刀で斬る。


 剣が、振られた。

 斬撃が、あった。

 あとは、結果が残るだけだ。

 合計八層にも及ぶダンジョンの全てを。ただの一振りが、一刀両断する。真っ二つに、切って開く。


「……すごい」


 壮観、という他ない。

 途方もない巨人が、身の丈より巨大な剣を振り下ろしたとしても。こうも見事に大地を切り裂くことは、不可能だろう。

 それは紛れもなく、世界最高の一閃だった。

 勇者は、ただ目を見張って、彼女が振るう剣がもたらした結果を見る。

 斬撃に見惚れるのは、はじめてだった。


「お、空が見えたね」


 地の底に、太陽の光が差す。

 その剣士は、触れる全てを指先一つで切り捨てる。

 その剣士は、愛刀の一振りで、大地の奥底から天に至る斬撃を撃ち放つ。

 それは、終わりなき絶望を切り裂き、新たな希望を斬り拓く、大いなる蒼穹そうきゅう


蒼牙之士ザン・アズル』。イト・ユリシーズ。


 彼女は、この世界を救った勇者の窮地を救う、最強の剣士にして、魔法使いだった。

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