新たな一人目。あるいは、彼が勇者である理由

 魔法の中から、勇者が目覚める。

 瞼が開く。鋭い瞳が、手を触れた心を射抜く。


 それは、恐怖した。

 勇者に魂を掴まれて、ただただ恐怖した。

 殺される。死にたくない。

 死にたくない?

 いいや、そうではない。

 迷宮に変化した男の魂は、死ぬことに恐怖しているわけではなかった。


「……いやだ」


 それは、きっと最初から。

 ずっとずっと、解放されたかったのだ。

 暗く湿った迷宮という形に囚われたまま、人間ではないもの成り果てていくのが怖かった。

 魔法という心を利用され、人間だった頃の記憶と名前を奪われたまま、朽ち果てていくのが恐ろしかった。

 だから殺されるのは構わない。

 けれど……このまま、死にたくない。


「……名前が、わからないんだ」


 縋るように、それは勇者に告げた。

 勇者の表情は動かない。

 暗く沈んだ漆黒のように、その顔色は変わらない。


「名前が……自分の名前が、わからないまま、消えたくない」


 願うように、それは勇者に言う。

 もう、人間には戻れない。

 そんなことは、自分自身が一番良くわかっている。

 それでも、名もなき迷宮のまま。あの四天王の道具になったまま、死んでいくのだけは……。


「……大丈夫だ」


 勇者は、口を開いた。

 それは、想像していたよりも、遥かにやさしい声色だった。


「……あ」

「大丈夫。大丈夫だ」


 幼い子どもに言い聞かせるように。

 自分に向けて牙を突き立てる獣を、諭すように。

 手のひらに収まる小さな心に向けて、勇者は語りかける。


「────ベリオット・シセロ。その名と魔法を、貰い受ける」


 勇者は、たしかに、声に出して『それ』ではない『彼』の名前を、呼んだ。

 

 


 トリンキュロ・リムリリィが奪い取り、弄び、忘れ去られた彼の名前を。


「べり、おっと……」

「ああ」

「私の……、オレの名前?」

「そうだ。お前の名前だ」


 たとえ世界を救っても、救えないものがある。

 勇者の魔法は、黒の魔法。全てを塗り潰す、略奪の色。

 黒己伏霊ジン・メランは、魔王を倒すために存在を許された、特別な魔法。相手を殺すことを前提にしている以上、その力の本質は決して救済ではない。

 勇者にできるのは、その名と魔法を奪い、心に刻むことだけ。

 死を迎える前の、この一瞬。彼に、名前を返すことしかできない。


「ごめん。おれは、お前を救うことはできない」


 謝罪があった。

 その瞳の中に、後悔が浮かんだ。

 歪み切ってしまった彼を、人間に戻すことはできないから。

 彼の命を、救うことはできないから。

 それでも、


「……ありがとう」


 感謝があった。


「本当に、ありがとう」


 それは……否、ベリオット・シセロは、勇者の瞳の中に写った己の姿を省みる。

 生まれ持った魔法のせいで、他人を避け続ける生き方をしてきた。生まれ持った魔法のせいにして、他人を信用することのない生き方をしてきた。

 心惹かれた存在には騙され、すべてを奪われ、人ですらなくなった。

 決して、幸せな一生ではなかった。

 自業自得だ。その生き方に相応しい、哀れな結末を迎えた人生だ。

 だとしても、それが自分の生き様なのだと。開き直ることはできても、一人ぼっちで、誰からも名前を呼ばれないまま、忘れ去られるのは、やはり寂しかった。

 自分の名前を、誰かに覚えていてほしかった。

 そんな寂しさから、救ってもらった。


「あなたは……勇者だ」


 勇者が取り戻した名前は、彼という存在を人間に引き戻す。

 ベリオット・シセロの心は、最後に、黒い輝きの中に救いを得た。


「どうか、あなたも……自分の名を」


 そして、最後の最後に、他者を気遣うやさしさを得た。

 その心に報いるために。

 勇者は笑う。

 これから旅立つ魂に向けて、感謝の言葉を。


「ありがとう。絶対に取り戻すよ」


 魔王討伐から、一年と少し。

 全ての名前を奪われ、全ての魔法を失った英雄は、ここに新たな魔の力を得る。

 殺すだけではない。奪うだけではない。

 その心を、救うために。

 黒の勇者は、新たな名前と魔法を、自分の胸の内に刻み込んだ。

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