心に宿す、勇気の剣

 理想通りの動き。確かな手応え。

 だからこそ感じる、背筋を這い上がる蛇の如き違和感。

 イトはそれに、強い悪寒を覚えた。


「……見事だ」


 宙を舞う生首が、悠然と称賛の言葉を紡いだ。

 首は落とした。しかし、殺せていない。


「お姉さん!」


 背後から、少女の警告の声。

 首を失った胴体の切断面から、濃い青色の風が吹き出した。


「これ、は……」


 刺激臭に、目を突くような痛み。

 転がる生首が、地面で嗤った。


「わかるだろう? 毒だ」

「ッ……アカちゃん! 吸わないで!」


 イトの反応は、決して遅くはなかった。噴出するそれが有毒な気体だとわかった瞬間に、即座に飛び退いて距離を取った。

 反射と直感による、最速で最良の反応。

 それでもなお、気体が空間に充満するスピードの方が早い。


「ダンジョンのような閉鎖空間では、毒霧を撒くのが最も効果的だ、と。リリィ様は、よくそう仰っていた。同時に、簡単に敵を無力化できてしまうからつまらない……と。愚痴を吐いてもいたが」


 地面に落ちた生首を拾い上げ、黒のローブは淡々とそんな言葉を吐く。切断されたはずの首は、いつの間にか元に戻って繋がっていた。

 リリィ様、と。そう口にした。

 つまりコイツは、四天王第一位、トリンキュロ・リムリリィ……

 視界が、青く染まっていく。呼吸のテンポがずれる。吐き気に加えて、強烈な目眩。あとは、頭痛もか。

 呼吸を止めるという対処法を放棄して、イトは声を発した。


「ろくに換気すらできない湿っぽい空間なのに、こんなに毒ガスばら撒いちゃって。キミも呼吸できないんじゃないの?」

「無用な心配だ。私は、そもそも生存に必要な呼吸を行っていない。空気は不要だ」

「……化物かよ」


 吐き捨てた言葉と共に、背後で人が倒れる音が響いた。

 揺れる視界の歪みを堪えて振り返ると、地面に赤い髪が広がっていた。


「アカちゃん!?」


 警告はしたが、吸い込んでしまったのだろう。そもそも、息をずっと止めていろ、という方が無理な話だ。


「……お姉さん、ごめんなさい」


 倒れ込んだ少女が、荒い呼吸を繰り返しながら、それでも口にしたのは、謝罪の言葉だった。

 きっと苦しいのに。辛いのに。それでも懸命に、自分と視線を交わそうとする、赤の虹彩をイトは見た。


「巻き込んで、しまって……ごめんなさい」


 髪色と同じ瞳から、雫が落ちて。

 イトは、僅かに目を開いた。


「お前には、用はない。欲しいのは、我らが王の残滓のみ。いただいていくぞ」


 膝をついたイトの横を、黒の異形は淡々と通り過ぎようとする。

 昔のことを、思い出す。

 ああ、そうだ。昔も、こんなことがあった。

 ダンジョンに潜って、意気揚々と敵を迎え撃って。馬鹿馬鹿しい油断で不覚を取って、毒を浴びて這い蹲る。

 昔も、そうだった。


 ────今は? 


「同じ質問をするのは、好きではないが……もう一度問わざるを得ないようだな」


 黒の異形の、片腕が落ちる。

 それは、手のひらで形作られた刃による、斬撃の結果である。


「なぜ、庇う?」

「……ワタシさぁ。これでも昔は、勇者を目指していたんだよね。だからさ、やっぱり思うんだよ」


 立ち上がったイトの指先が、片目を隠していた眼帯を外す。琥珀色の瞳とは違う、瑠璃色の輝きがそこにはあった。

 左右で色の異なる、オッドアイ。

 埋め込まれた魔眼が、毒を見る。

 見たそれを、腕が切り払う。

 たったそれだけで、空間に満ちていた毒の煙が、鮮やかに霧散した。


 それはやはり、腕全体が大剣のように振るわれた、斬撃の結果である。


「泣いてる女の子を助けるのが、勇者でしょ?」

「……理解不能だ。質問を変えよう。なぜ、貴様はまだ言葉を紡ぐことができる?」


 毒は効いているはずだ。即死することはなくとも、もう動けないはず。

 黒の異形のそんな疑問に、今度は回答があった。

 細い指先が、胸の上で十字を切る。まるで、体を侵す腫瘍を切除するかのような、繊細な動き。


 それもまた、歴然たる斬撃の結果である。


「……毒は、切れるものではない」

「斬れるよ? ワタシが斬れると思ったなら、それは斬れる」

「……やはり、理解不能だ」


 はじめて、黒の異形は言葉に感情を滲ませた。


「……おねえ、さん」

「大丈夫」


 イト・ユリシーズは、勇者にはなれなかった。


 ────大丈夫ですか? 先輩


 けれど、彼が泣いている自分にそうしてくれたように。

 成長した少女は、背後へと優しく語り掛ける。


「大丈夫だよ。アカちゃん」


 きっと、自分が知る勇者なら、そうするから。

 少女の正体が、何であろうと関係ない。

 魔王であろうと、関係ない。

 泣いている人がいる。だから助ける。刃を手に取る理由は、きっとそれだけで良い。

 イト・ユリシーズの心には、一振りの剣が在る。

 かつてそれは、摩耗し、刃が欠け、粉々に砕けて、一度は折れた。

 だから勇者になれなかった少女は、ひたすらに刃を磨き、愚直に打ち直してきた。


「ワタシがキミを守るから」


 心に宿したその剣は、もう折れない。

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