勇者は賢者を間違わない
夜。宿の自室に戻ったシャナは、ぼんやりと自分自身の顔を眺めていた。
ハーミアがシャナに教え込んだのは、シャナ・グランプレという自己をどのように維持するか、である。
異なる自分が、異なる場所で、異なる経験をする。それは、自分という存在が少しずつ乖離し、消えていく恐怖に等しい。
だから、シャナ・グランプレという個人のアイデンティを維持するためには、決してブレることのない、己の存在を確立させる柱が必要だった。
狹苦しい部屋の中に、シャナ・グランプレは五人いた。
今日もシャナは、一人ずつ。己自身のそれを、確かめる。
「私は、勇者さんのことが好き」
一人目。ギルドの受付嬢をしていたシャナが呟いた。
「私は、勇者さんのことが好き」
二人目。畑の見張りをしていたシャナが呟いた。
「私は、勇者さんのことが好き」
三人目。土木工事で監督をしていたシャナが呟いた。
「私は、勇者さんが好き」
四人目。教壇に立っていたシャナが呟いた。
そして、四人の自分自身を見回して、最後のシャナが呟いた。
「私は、勇者さんが好き」
ブレない。変わらない。揺らぐことなんてありえない。
シャナ・グランプレは勇者のことが好きだ。
その心が根底にある限り、群体であるシャナの集合意識は、常に安定した状態で保たれる。
この結論に辿り着いた時、ハーミアはなぜか顔を引き攣らせて固まっていたが……まあ、あのクソ師匠は人の恋心や愛とは最も縁遠い人種なので、そもそも理解が難しかったのだろう。
一日の終わりの、いつものルーティーン。それを終えたところで、コンコン、と。ノックの音が響いた。
「はい。どうぞ?」
「あ、よかった。まだ起きてた」
扉を開けたのは、勇者だった。
シャナは表情を変えない。ただ淡々と、勇者に問いかける。
「どうしたんです? こんな夜中に」
「ごめんごめん。でもほら、今日はまだ賢者ちゃんと会ってなかったからさ」
「は? 何言ってるんですか。何回も会ってるでしょう?」
聞き返すと、逆に不思議な顔をされた。
「いや、そっちこそ何言ってんの。ギルドと、畑と、土木現場と、教室。それぞれ四人の賢者ちゃんにはたしかに会ってるけど……でも、まだ賢者ちゃんには会ってないでしょ?」
今、この瞬間。
扉を開いて勇者と話しているシャナを指して、勇者はそう言っていた。
つまり、全く同一の存在であるはずの増殖したシャナを、彼は完璧に見分けていた。
「……よくわかりましたね」
「そりゃあわかるよ。付き合い長いんだから」
ぬけぬけと、勇者はそんなことを言う。
「でも、寝る前に顔合わせられて良かった。賢者ちゃん、明日の予定は?」
「……四人は、今日と同じです」
「明日、ちょっと遠出したいんだけど、一緒にどう?」
「……行きます」
「お、よかった」
いつものように軽く笑って、勇者は頷いた。
「じゃあ、おやすみ。賢者ちゃん」
「はい。おやすみなさい。勇者さん」
扉を締めたあと、しばらくシャナはそのまま固まっていた。
増えていた五人のシャナが、一人に戻る。
それから、思い出したように呼吸を再開して、狭い部屋の中で無駄に何回かくるくると回って、そのあと下の人間の迷惑にならない程度に飛び跳ねて、それからようやく、ベッドの中に潜り込んだ。
今の自分の表情は、絶対に誰にも見せることができない。
私は彼のことが好きだ。
いや、訂正しよう。
今日も私は、彼のことが大好きだった。
その日の夜、シャナはひさしぶりにぐっすりと眠れた。
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