賢者ちゃんの先生の話

 シャナという少女は、アリアやムムとは違い、最初から賢者として仲間入りしたわけではない。

 まだ幼かったシャナには、戦う力を得るために、学ぶための環境が必要だった。

 だから、シャナは一度。旅の途中で、勇者と分かれる選択をした。

 彼の役に立つためには。

 彼の側にいるためには。

 魔術が必要だと思った。

 なによりも、生まれ落ちたその時から自分の体に宿っていた力を制御するために、魔を扱う術を理解しなければならないと思った。

 勇者と出会い、エルフの村から助け出された、その二ヶ月後。シャナは、自分が求めるものを最も効率よく学ばせてくれる人物に、師事することを決めた。


「……へんな場所」


 その教室は、異様な空間だった。

 床も壁も、すべてが白一色。窓はなく、扉は入口の一箇所だけ。そして、机と椅子が一組になって、百の数が並んでいる。それだけの生徒を収容できるほどの広さが確保された、学びの場だった。

 そんな広い教室の中で、たった一人。シャナは、適当な席を選んで座った。普通よりも広く作られた机の上には分厚い魔術の教科書と新品のノート、ペンなどの筆記用具が完璧に用意されている。隣の席を見やれば、やはり同じものが整然と並んでいる。当然のように、これらの教材も百組あった。

 シャナが席につくと同時。一箇所しかない扉が開いて、一人の女性が入室してきた。


「……おいおい。なんだそれは」


 挨拶はなく、シャナを見やった彼女がこぼしたのは、ただひたすらに呆れたような声だった。

 翻るのは、深い緑色のローブ。丁寧に編み込まれた長い二房の黒髪には、赤に青、加えて緑と、色とりどりのリボンが編み込まれている。

 大股でかつかつと教室を横断した彼女は、喉を震わせた。


「おいおい。おいおいおい! なんでそんなところに座ってるんだ! 講義を受ける時は常に一番前に座れって習わなかったのか!?」

「習ってない」


 返事はなかった。

 手のひらが黒板を叩く音が響いた。


「違ぁう! 違う違う違う! 違うだろ! いいか、我が愛弟子よ! アタシは今、お前に教えを授ける以前の問題を! どのような心持ちで学びを得るかという、心構えの話をしている! 世界で最も優れた魔導師であるこのアタシが! 貴重な時間を割いて! 未来の勇者の力になる賢者を育成してやろうと言っているんだ! にも関わらず、これから学ぼうとする当人がそんな後ろに座っていちゃあ何の意味もない! そもそも! このアタシの講義で最初から後ろに座ろうとするヤツは最初から……」

「座った」

「素直だなぁおい!?」


 一番前の一番中央の席に座り直したシャナを見て、教師は大袈裟に仰け反った。そんなに驚かれることではない。シャナにも、教えを受けるという自覚はある前に座れと言われれば、前に座るのは当然だ。そもそも、あんな生活をしていたのだから、誰かの命令に従うのに抵抗はなかった。


「あなたから、私は魔術を学ぶ。だから従う。疑問は持たない」

「……あー、そりゃダメだ」

「ダメ?」

「よくないってことだ。お前は一つ、勘違いしてるよ。従うとか、強制されるとか。学問ってのは、そういうもんじゃない」


 不思議な女性だった。

 あれほど高く興奮した音で紡がれていた声が、今度はゆったりと落ち着いている。


「学び、習うことは世界で最も自由な行為だ」


 彼女がシャナに最初に教えてくれたのは、学習の定義だった。


「自分から叩かなきゃ、学問の扉ってのは常に閉じたままだ。アタシがなによりも重視するのは、自ら疑問を持ち、学ぼうとする意欲。だから、最初に確認しておきたい。お前にそれはあるか?」


 聞かれて、少し考える。

 シャナはずっと、あの閉ざされた村の中の、薄暗い部屋の中で生きてきた。

 自分は何も知らなくて。何も知らない自分は、勇者を目指す彼の役には立てなくて。だから、彼のために魔術という知識が必要だと思った。


「意欲は、あるつもり。助けてあげたい人がいる。その人の役に立ちたい」

「他人のために学ぶのか? アタシの指導は厳しいぞ。それで、本当に耐えられるのか?」

「耐えられる。ところで、せんせい」

「どうしたぁ!? 我がかわいい生徒よ! 早速質問か!? 世界最高の魔導師であるこのアタシのことを知りたいってわけだな!? いいぞ! 質問は常に受けつけている! アタシのことを知りたいなら、まずは教科書の最初のページを開け! そこに美しい顔が大きく載っているだろう! 誰かわかるか!? そう! このアタシだっ!」

「せんせい」

「ああ! 皆まで言わなくてもわかる! 学者というのは常に成果を求める生き物。己の見た目には無頓着な人間も多い! だが、世界最高の魔導師であるこのアタシは、その美貌すらも最高だ! なぜなら回復魔術の応用によって肌の張りと艶を保つ努力を……」

「せんせい」


 三回目。

 それでようやく、


「……ちっ。偉大なるこのアタシの有り難い話を遮る不躾な人間は基本的に例外なくブチ殺すことにしているが、まぁお前はかわいいかわいい愛弟子だからな。そこまで発言したいことがあるのなら、特別に発言を許可しよう。で、何かなシャナ?」

「私、字が読めない」


 彼女は、そこで大きくずっこけた。リズミカルに硬質な床を叩いていた高いヒールの足首が、ごりっといやな音を立ててすっ転んだ。

 如何にも魔導師らしい大きく背の高いとんがり帽子が、ふわりと宙を舞って落ちる。


「は? はぁ!? 字が読めない!?」

「うん。習ったことがないから」


 彼女は、ぶるぶると唇を震わせて、頬を真っ赤に染めた。

 教科書に載ってる顔と実物はやはり違うな、と。シャナはぼんやり思った。


「ふ、ふ……ふざけやがってええ! あのちんちくりんの勇者志望のクソ小僧が! アタシは魔術の指導を引き受けるとは言ったが、読み書きから赤ん坊のはいはいみたいに教えるなんて、そんな慈善事業みたいな青空教室を開いてやるとは一言も言ってねぇんだよ……あの、くそったれがぁ!」


 それこそまるで赤ん坊のように四肢をしたばたとさせて、一通りとても教師とは思えない口汚い罵詈雑言を吐き出し尽くして、それでようやくシャナの師匠は息を切らして上体を起こした。


「はぁ、はぁ……じゃあお前、何か? 自分の名前も書けないのか?」

「うん。わからない」

「よぉし! わかった! もうわかった! もういい! 上等だ! そういうことならやってやる!」


 世界で最も偉大な魔導師であると言われている彼女は、勢いよく黒板にチョークをはしらせた。

 黒い板の中に、白い文字が並ぶ。たったそれだけの板書も、何も知らないシャナにとっては目新しいものだった。


「読めっ! 我が愛弟子よ!」

「だから読めない」

「ならば、大きな声で復唱しろ! シャナ・グランプレ! これが、この世界でお前の名を証明する、文字の羅列だ!」

「シャナ、グランプレ」


 慣れないペンで、ただたどしく。けれど大きくしっかりと、シャナは開いたノートの最初のページに、はじめて

 習った自分の名前を書いた。


 シャナ・グランプレ。


 真っ白な紙の上に、黒いインクでそれを書いただけで、何かが自分の中にしっくりと収まる気がした。

「せんせい。グランプレってなに?」

「ああ、それはアタシの母方の苗字だ。いらないからお前にやる」

「いいの?」

「びくびくと聞き返すんじゃあない! このアタシがくれてやると言ったものは一も二もなく受け取れ! そして感動に咽び泣いて感謝しろ! わかったか!?」

「うん。ありがとう」

「よぉし!」


 一つ、頷いた彼女はそこでようやく床に落ちていた自身のトレードマークとも言えるとんがり帽子をかぶり直して、整えた。


「そして愛弟子よ! お前が自分の名前の次に覚えるべきものは、これだ!」


 また勢いよく、チョークが唸る。


「さっきよりも大きな声で! 尊敬と敬愛と崇拝を込めて復唱しろ!」


 彼女は、王国における魔術指導の基礎を築き上げた教育者である。

 彼女は、それまで無秩序に乱立していた魔術体系を、万人に理解できる属性として定義した研究者である。

 彼女は、理屈の通らない神秘であった魔術を、魔力によって運用される学問にまで落とし込んだ開拓者である。

 彼女の名は、この世に轟く伝説。

 世界最高と謳われる、四人の賢者の一角である。


「アタシの名は、ハーミット・パック・ハーミア! この世界で唯一にして絶対! 魔術のすべてを解き明かす、最高の魔導師にして大賢者だ!」

「あたしの名は、ハーミット・パック・ハーミア。この世界でゆいいつにして、ぜったい。魔術のすべてをときあかす、最高の魔導師にして大賢者だ?」

「誰がそこまで復唱しろと言った!? 名前だ名前! とにかく偉大なるこのアタシの名前を刻み込め!」


 やはり声が大きくて圧が強かったので、シャナはカリカリとノートに名前を書き込んだ。


「どうだ? 言葉の意味を理解して、白い紙に文字を刻む気持ちは?」

「……わからない。私、まともにペンを持ったこともないバカだから」

「馬鹿? はは、なるほど。馬鹿ときたか。そうか。いいだろう。なら、最初に一つ。簡単な道徳の授業をしよう。柄じゃあないが、これでもアタシは教鞭を取る身だからな」


 それまでひたすらに熱が篭っていた言葉から、熱さが失われる。


「お前の環境には同情するよ。恵まれない生まれであることも、あのボウズから聞いている」


 眼鏡の奥の瞳が、すっと細くなる。

 シャナは知っている。そういう声音と視線と、雰囲気には覚えがある。

 手をあげられる、と思った、殴られる、と思った。

 自分は罰を受けるのだと思って、シャナは目を閉じた。慣れているから、こわくはなかった。


「よく聞け、シャナ・グランプレ。お前はその席に座った瞬間から、偉大なるこのアタシの弟子にして、愛すべき生徒だ。そして、偉大なるこのアタシの生徒である以上、己を卑下する発言は、その一切を許さない」


 しかし、頬に痛みはなかった。

 目を開ける。

 ハーミアは、シャナのノートに、赤いペンをはしらせた。

 文字ではない。だから、文字を知らないシャナにも、その意味がわかった。


「お花?」

「そう。はなまるってヤツだ。よくできました、と。教師が生徒を褒めるのに使うマークだ。覚えとけ」


 自分のノートに、花が咲いた。

 なぜだかシャナには、それがたまらなく嬉しくて。


「でも、私の文字、へたくそだよ?」

「はぁ? 何度も言わせんな。へたくそかどうか決めるのはアタシだ。お前をバカと侮辱する権利を持つのは、今この瞬間からお前を教育するこのアタシだけだ。それを肝に銘じておけ」

「はい」

「よぉし、良い返事だ」

「せんせい」

「なんだ?」

「私、字も書けないけど、魔術をおぼえること、できる?」

「できるとも」


 百の席が用意された教室を見渡して、ハーミアは言う。


「お前の魔法は、分身のような見せかけの誤魔化しとは違う。そっくりそのまま、目玉も心臓も、脳ミソに至るまで、まったく同じものを用意することができる」


 増えてみろ、とハーミアは言った。

 言われた通り、シャナは増えた。

 二人になったシャナは、用意された席に座る。一瞬で、生徒が二人になった。


「お前は、一人で学ぶわけじゃない」


 リングを嵌めた細い指先が、今度は違う席を指す。その指示に従って、シャナは三人に増えた。


「二人で学ぶわけでもない。三人で学ぶなんて、甘っちょろいことは言ってられない」


 三人になった生徒に向けて。


 声のトーンが、落ちる。やはり一転して落ち着いた口調になったハーミアは、淡々と告げる。


「初回だ。無理をするなとは言わない。その十倍の数を用意してみせろ」

「はい。せんせい」


 増えて、増えて、増える。

 静かだった教室に、椅子を引く音と、ペンを手に取る音と、ノートを開く音が、幾重にも重なって響く。

 たった一人の生徒しかいなかった教室は、一瞬で一つのクラスに変化した。

 それは、異常な光景である。同じ顔で、同じ背格好の少女が、同じようにノートを開き、同じようにペンを握る。

 しかし、三十人に増えたシャナを見て、ハーミアはただ一言。満足気に呟いた。


「素晴らしい」


 それは、己の愛弟子に。生徒に向けられた、明確な賞賛だった。


「それで良い。最初は三十人だ。慣れたら、数を増やしていく。次は五十人。六十、七十、八十……そして、最終的には百人。そう、百人だ。お前は単純に計算して、常人の百倍のスピードで、物事を学ぶことができる。偉大なるアタシの教えを、誰よりも最大最高の形で吸収することができる」


 ハーミット・パック・ハーミアは、根本的に人でなしの魔導師である。


「アタシは天才だ。人類最高の天才だ。いくらお前がエルフの血を引いていると言っても、アタシに比べれば凡才もいいところだろう」


 彼女は、自分が史上最高の魔導師であることを、欠片も疑っていない。


「だが……どんな凡人であろうと、百人で学べばその学習効率は天才を上回る」


 彼女は、自分以外の人間に価値があるとは思っていない。魔術を教育するシステムを構築したのは、研究の過程でそれを他者に伝え広げる必要があると感じたからに過ぎない。

 彼女は、世界を救おうとは思っていない。魔術の探求が第一の目的である以上、自分の命が失われるリスクを侵してまで、魔王と対峙しようとは考えない。

 だからそんな彼女が、シャナという少女の教育を引き受けたのは、世界を救うためではない。未来の勇者の頼みだからでもない。


 自分を超える魔導師になれる可能性があるから。


 たったそれだけの理由で、ハーミアはシャナのために己の知識と時間を注ぎ込むことを選択した。

 故に、告げる。


「このアタシが、保証しよう」


 百余年の時を生きてきた伝説の賢者は、断言する。


「お前の魔法は、この世界で最も学ぶことに向いている」


 シャナを見て、ハーミアは笑う。

 それは、馬鹿にしているわけでも、嘲っているわけでもない。

 はじめてだ、とシャナは思った。


「さあ、わかったらペンを握れ。ノートを開け。授業をはじめよう」


 自分を見て、こんなにも期待に満ちた笑みを浮かべてくれる人は。


「死ぬ気で学べ。学べなければ死ね」

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