武闘家さんと謎の黒い仮面

 師匠は基本的に、嘘を吐かない。そして、嘘を吐かないということは、人の嘘も簡単に見抜いてしまうということである。

 だから、あのハゲが、おれたちに近づいていることは、師匠もわかっているはずだった。

 おれにできて、師匠にできないことはもちろんある。

 でも、おれが見抜けて、師匠に見抜けないことはない。

 だからその日の修行を終えた帰り道、師匠は言った。


「勇者」

「なんです?」

「今夜は、一人にしてほしい」

「わかりました」

「あと、わかってると思うけど。あの子、ちょっと心配。勇者も、気にかけてあげてほしい。念の為に、これを預けておく」


 手渡されたそれを見て、そのあまりの用意の良さに、おれは夕焼け空を仰ぎたくなった。

 思わず暴言を吐き出したくなるのをぐっと堪えて、言い返す。


「師匠」

「なに?」

「おれはまだ、あいつを師匠の弟子として認めたわけじゃありません」

「うん。知ってる」

「……だからおれは、あいつの兄弟子じゃないですし、助けてやる義理もないですよ?」

「うん。それも、知ってる」



 辺境の土地では、人が生きるために必要な当たり前の倫理が、当然のように無視される。


「よう。バロウ。調子はどうだ」

「上々です」


 夜の闇が、風景に溶け込んでしまうような時間帯。

 村からそれなりの距離がある、寂れた廃墟の屋敷。そこをアジトにする人飼いは、簡単に言ってしまえば法を無視する奴隷商人である。

 バロウは、柱に繋がれたり、檻の中に収められている奴隷たちを軽く見やった。

 人飼いは、その名の通り人間という商品を取り扱い、土地の権力者に取り入り、非合法な人命の売買を生業として勢力を拡大してきた組織だ。

 今回、バロウが彼らから受けた依頼は、極めてシンプル。とある少女を攫って売り渡す、とても簡単なものだった。


「しかし、今回のターゲットは腕の立つガキだって話だったのに、よく連れて来られたな。例の祭りにはオレの部下も混じってたが、大の大人でも歯が立たなかったって聞いたぜ?」

「そりゃあ、正面から立ちあった時の話です。寝込みを襲えば、連れ去るのは簡単ですよ」


 言いながら、バロウは少女がぎりぎり収まるサイズの、小さな木箱を床に置いた。

 奴隷を戦わせる非合法な闘技場は、見世物として金になる。騎士団が常に目を光らせている都の近くならいざ知らず、辺境の土地でそれらの娯楽を咎める者は誰もいない。

 腕の立つ小柄で容姿の整った少女は、コロシアムの見世物として、まさしくうってつけだった。


「成長したなぁ、バロウ。オレぁうれしいぜ」

「恐縮です。ボス」


 昔を懐かしむように、人飼い首領の目が細まる。にこりともせずに、バロウは淡々と頷いた。

 直接、言葉を交わすのはひさしぶりだ。

 バロウは、彼らにことがある。

 より正確に言えば、彼らに飼われて、バロウ・ジャケネッタという男は育てられた。特別でも、悲劇的でもない。きちんとした教育の場がない未開発の土地では、これもまたよくある話である。

 人飼いの実務に協力したことはない。それがいやで、バロウは死ぬ気で身を立てて、別の方法で稼げる冒険者になった。

 それでも、過去の繋がりからは逃れることはできない。事実、この周辺で活動する冒険者の多くが、彼らの活動を見て見ぬ振りで誤魔化している。ギルドにその首を差し出せば、まとまった額の賞金が手に入るにも関わらず、誰も手を出さないのは、単純な話。もはや巨大な組織になった人飼いという集団に、誰も勝てないからである。


「いつもの上納金は?」

「こちらに」

「結構だ。仕事ができるヤツは嫌いじゃあない。そのチビ、ツラもいいんだろ? 泣き顔を肴に一杯やろうぜ」

「承知しました。では……」


 バロウは、おもむろに木箱を開いた。

 十数人の人飼いたちの視線が、その一点に集中し、賑やかだった空間に沈黙が満ちる。

 いやになるほど静かな、驚愕があった。

 箱の中には、少女はおろか、虫の一匹すら入ってはいなかったからである。


「……バロウ。これは、どういうことだ?」

「どうも何も。見ての通りです。ボス」

「おい、てめぇふざけてんじゃ……」


 一撃。

 声を荒らげて向かってきた男の顔面を、バロウの正拳が突いた。

 それはこの一週間で、バロウが新しく学んだ拳の打ち方だった。


「ふざけてねぇよ。逆だ、逆。オレは、ふざけるのをやめたんだ」


 こういうのを、絆された、というのだろうか。

 情に引きつけられ、心や行動を縛られる。なるほど。そういう意味では、たしかにバロウはあの師匠と兄弟子に、心を縛られていた。


「バカが。情でも沸いたか?」

「……有り体に言やぁ、そうかもしれませんね」


 最初はもちろん、タイミングを見計らって攫うつもりでいた。しかしいつの間にか、今まで知らなかった拳の打ち方を知るのが楽しくて。純粋に、言葉を交わすのが楽しくて。気がつけば自然と、これ以外の選択肢が浮かんでこなくなってしまっていた。

 最低限、自分一人が気ままに生きていくために。

 そのための力があれば、それで十分だとバロウは思っていた。


 でも、どうやらダメらしい。


 真っ直ぐに、芯の通った拳の握り方を。

 背筋を伸ばした、その構えを教えられてしまったら。

 もう捻くれて、曲がることはできない。


「今さら、オレたちに逆らって何か変わるとでも思ってんのか?」

「そっちこそ知らねえのか? 何かをはじめるのに、遅すぎるってことはないんだぜ」


 だから、ここからはじめることにした。

 たとえ、ここで終わってしまうとしても。


「オレの命に代えても。あの人たちを、アンタらみたいなクソ野郎どもには売れねぇなあ」


 バロウ・ジャケネッタはチンピラ冒険者だ。

 決して褒められるような生き方はしてこなかった。

 胸を張れるような、太陽の下を自信を持って歩いていけるような人間ではないことは、自分自身が一番よくわかっている。

 それでも、クズには、クズの矜持があった。


「遺言はそれでいいのか?」


 首領の声音には、もはや怒りもなく。

 ただ純粋な殺意だけが滲んでいた。

 生き残れる、とは思っていない。元より、人数の差は比べるまでもなく。バロウは最初から勝ち目がないとわかっていても、けじめをつけるために、この場に来た。


「もういい……やっちまえ」


 そう。だから。

 そんな馬鹿の、浅はかな考えを、彼の小さな師が予想していないわけがなかった。


「……よし、やっちまおう」


 首領の声に応じる、飄々とした声があった。

 その静かな声と同時に、バロウに襲いかかろうとしていた二人が、声もなく吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。

 扉も、窓も、開いた形跡はない。この場にいる全員が、それを見逃すはずがない。

 まるで、何らかの特別な方法で瞬間移動でもしたかのように。

 その青年は、唐突に姿を現した。


「おい! テメェ、どこから入り込みやがった!」

「ここがどこだかわかってんのかぁ!?」


 奇しくもそれは、バロウと同じ構えであり。

 しかしそれは、バロウよりも洗練された構えであって。

 だけれどもそれは、何も知らない人飼いのチンピラたちが一目見て理解できるほどに、どこまでもバロウと同じ拳だった。


「……なにもんだ。おまえ」


 怒声が響く中。

 珍妙なデザインの、をつけた青年はたった一言。

 己の正体を、告げた。


「その馬鹿のだ」

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