武闘家さんと謎の黒い仮面
師匠は基本的に、嘘を吐かない。そして、嘘を吐かないということは、人の嘘も簡単に見抜いてしまうということである。
だから、あのハゲが何らかの思惑を抱いて、おれたちに近づいていることは、師匠もわかっているはずだった。
おれにできて、師匠にできないことはもちろんある。
でも、おれが見抜けて、師匠に見抜けないことはない。
だからその日の修行を終えた帰り道、師匠は言った。
「勇者」
「なんです?」
「今夜は、一人にしてほしい」
「わかりました」
「あと、わかってると思うけど。あの子、ちょっと心配。勇者も、気にかけてあげてほしい。念の為に、これを預けておく」
手渡されたそれを見て、そのあまりの用意の良さに、おれは夕焼け空を仰ぎたくなった。
思わず暴言を吐き出したくなるのをぐっと堪えて、言い返す。
「師匠」
「なに?」
「おれはまだ、あいつを師匠の弟子として認めたわけじゃありません」
「うん。知ってる」
「……だからおれは、あいつの兄弟子じゃないですし、助けてやる義理もないですよ?」
「うん。それも、知ってる」
◇
辺境の土地では、人が生きるために必要な当たり前の倫理が、当然のように無視される。
「よう。バロウ。調子はどうだ」
「上々です」
夜の闇が、風景に溶け込んでしまうような時間帯。
村からそれなりの距離がある、寂れた廃墟の屋敷。そこをアジトにする人飼いは、簡単に言ってしまえば法を無視する奴隷商人である。
バロウは、柱に繋がれたり、檻の中に収められている奴隷たちを軽く見やった。
人飼いは、その名の通り人間という商品を取り扱い、土地の権力者に取り入り、非合法な人命の売買を生業として勢力を拡大してきた組織だ。
今回、バロウが彼らから受けた依頼は、極めてシンプル。とある少女を攫って売り渡す、とても簡単なものだった。
「しかし、今回のターゲットは腕の立つガキだって話だったのに、よく連れて来られたな。例の祭りにはオレの部下も混じってたが、大の大人でも歯が立たなかったって聞いたぜ?」
「そりゃあ、正面から立ちあった時の話です。寝込みを襲えば、連れ去るのは簡単ですよ」
言いながら、バロウは少女がぎりぎり収まるサイズの、小さな木箱を床に置いた。
奴隷を戦わせる非合法な闘技場は、見世物として金になる。騎士団が常に目を光らせている都の近くならいざ知らず、辺境の土地でそれらの娯楽を咎める者は誰もいない。
腕の立つ小柄で容姿の整った少女は、コロシアムの見世物として、まさしくうってつけだった。
「成長したなぁ、バロウ。オレぁうれしいぜ」
「恐縮です。ボス」
昔を懐かしむように、人飼い首領の目が細まる。にこりともせずに、バロウは淡々と頷いた。
直接、言葉を交わすのはひさしぶりだ。
バロウは、彼らに飼われていたことがある。
より正確に言えば、彼らに飼われて、バロウ・ジャケネッタという男は育てられた。特別でも、悲劇的でもない。きちんとした教育の場がない未開発の土地では、これもまたよくある話である。
人飼いの実務に協力したことはない。それがいやで、バロウは死ぬ気で身を立てて、別の方法で稼げる冒険者になった。
それでも、過去の繋がりからは逃れることはできない。事実、この周辺で活動する冒険者の多くが、彼らの活動を見て見ぬ振りで誤魔化している。ギルドにその首を差し出せば、まとまった額の賞金が手に入るにも関わらず、誰も手を出さないのは、単純な話。もはや巨大な組織になった人飼いという集団に、誰も勝てないからである。
「いつもの上納金は?」
「こちらに」
「結構だ。仕事ができるヤツは嫌いじゃあない。そのチビ、ツラもいいんだろ? 泣き顔を肴に一杯やろうぜ」
「承知しました。では……」
バロウは、おもむろに木箱を開いた。
十数人の人飼いたちの視線が、その一点に集中し、賑やかだった空間に沈黙が満ちる。
いやになるほど静かな、驚愕があった。
箱の中には、少女はおろか、虫の一匹すら入ってはいなかったからである。
「……バロウ。これは、どういうことだ?」
「どうも何も。見ての通りです。ボス」
「おい、てめぇふざけてんじゃ……」
一撃。
声を荒らげて向かってきた男の顔面を、バロウの正拳が突いた。
それはこの一週間で、バロウが新しく学んだ拳の打ち方だった。
「ふざけてねぇよ。逆だ、逆。オレは、ふざけるのをやめたんだ」
こういうのを、絆された、というのだろうか。
情に引きつけられ、心や行動を縛られる。なるほど。そういう意味では、たしかにバロウはあの師匠と兄弟子に、心を縛られていた。
「バカが。情でも沸いたか?」
「……有り体に言やぁ、そうかもしれませんね」
最初はもちろん、タイミングを見計らって攫うつもりでいた。しかしいつの間にか、今まで知らなかった拳の打ち方を知るのが楽しくて。純粋に、言葉を交わすのが楽しくて。気がつけば自然と、これ以外の選択肢が浮かんでこなくなってしまっていた。
最低限、自分一人が気ままに生きていくために。
そのための力があれば、それで十分だとバロウは思っていた。
でも、どうやらダメらしい。
真っ直ぐに、芯の通った拳の握り方を。
背筋を伸ばした、その構えを教えられてしまったら。
もう捻くれて、曲がることはできない。
「今さら、オレたちに逆らって何か変わるとでも思ってんのか?」
「そっちこそ知らねえのか? 何かをはじめるのに、遅すぎるってことはないんだぜ」
だから、ここからはじめることにした。
たとえ、ここで終わってしまうとしても。
「オレの命に代えても。あの人たちを、アンタらみたいなクソ野郎どもには売れねぇなあ」
バロウ・ジャケネッタはチンピラ冒険者だ。
決して褒められるような生き方はしてこなかった。
胸を張れるような、太陽の下を自信を持って歩いていけるような人間ではないことは、自分自身が一番よくわかっている。
それでも、クズには、クズの矜持があった。
「遺言はそれでいいのか?」
首領の声音には、もはや怒りもなく。
ただ純粋な殺意だけが滲んでいた。
生き残れる、とは思っていない。元より、人数の差は比べるまでもなく。バロウは最初から勝ち目がないとわかっていても、けじめをつけるために、この場に来た。
「もういい……やっちまえ」
そう。だから。
そんな馬鹿の、浅はかな考えを、彼の小さな師が予想していないわけがなかった。
「……よし、やっちまおう」
首領の声に応じる、飄々とした声があった。
その静かな声と同時に、バロウに襲いかかろうとしていた二人が、声もなく吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
扉も、窓も、開いた形跡はない。この場にいる全員が、それを見逃すはずがない。
まるで、何らかの特別な方法で瞬間移動でもしたかのように。
その青年は、唐突に姿を現した。
「おい! テメェ、どこから入り込みやがった!」
「ここがどこだかわかってんのかぁ!?」
奇しくもそれは、バロウと同じ構えであり。
しかしそれは、バロウよりも洗練された構えであって。
だけれどもそれは、何も知らない人飼いのチンピラたちが一目見て理解できるほどに、どこまでもバロウと同じ拳だった。
「……なにもんだ。おまえ」
怒声が響く中。
珍妙なデザインの、黒いマスクをつけた青年はたった一言。
己の正体を、告げた。
「その馬鹿の兄弟子だ」
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