覚醒する紅蓮

 悪魔の腕が、剣によって跳ね上げられる。


「っ……ひゅ……っはぁ!」


 気道に、再び空気が通る。呼吸と意識が、引き戻される。


「はぁ……はぁ……」

「よぅし! 生きてるな、アリア!」

「……先輩?」


 咳き込みながら前を見ると、三人の騎士がアリアを庇うように立っていて。伸縮する腕を引き戻した悪魔は、つまらなそうに鼻を鳴らして、立ちはだかる騎士の卵たちに問いかけた。


「なぜ立ち上がる?」

「愚問だな。かわいい後輩を守るのに、理由が必要なのか」


 喉に詰まった血の塊を吐き捨てて、グラン・ロデリゴが言った。


「なぜ負けるとわかっていて挑む?」

「わりぃな。オレぁ、頭の出来がちょいと悪いからよ。お前が何言ってるか全然わかんねぇんだわ」


 額から流れる血を糊代わりに前髪をかきあげて、ジルガ・ドッグベリーが言った。


「なぜ諦めない?」

「お生憎様ね。そんな言葉を知らないからよ」


 折れた腕をぶら下げたまま表情を変えず、サーシャ・サイレンスが言った。

 アリアよりも弱いはずの彼らは、しかしアリアを守るために、強く剣を握りしめていた。


「愚か極まる。すべて、無駄なことだ」


 剣が折れる。鎧が割れる。肉が裂ける。血が吹き出す。

 全員が、倒れていく。

 自分を守ろうと、立ち上がった人たちが、自分を庇おうと敵に立ち向かう人たちが。誰もが力尽きて、膝をついていく。


 ……助けなきゃ。


 もう一度、自分の剣を取ろうとしたアリアの肩を、しかし血だらけのジルガが掴んで、囁いた。


「バカが。お前だけでも逃げろ」

「でも、先輩……」

「何度も言わせるな。後輩を守るのに、理由は必要ない」


 呟いて、愚直に突進したグランの体が岩肌に叩きつけられる。まとめて鞭のように振るわれた腕が、今度こそジルガとサーシャの抵抗を刈り取る。


「……なんで」


 アリアは、呆然とそれを見ていた。

 どうして、自分なんかを助けるために。

 この人たちは、戦ってくれるんだろう?

 焦り。恐怖。理性的な思考の大部分を占めるそれらとは少し種類の違う、この状況に不似合いな感情が湧き上がる。


 助けてくれた。

 守ってくれた。


 自分以外の人が、自分のために、命を投げ出して、戦ってくれていた。


 ────嬉しい? 


 どす黒い問い掛けが、心の内から自然に漏れ出た。

 それは、浅ましく、醜く、あまりにも自分本位な感情の発露だった。

 けれど、その浅ましさは、その醜さは、間違いなく自分自身の心の本質だった。

 だから、だろうか。心が叫ぶままに、思考が意識を動かす前に、アリアの身体は先に動いた。

 誰かから必要とされたかった少女は。

 誰かから大切にされたかった少女は。


「まずは、お前からだ」


 誰かから愛されたかった少女は、その瞬間。

 はじめて、自分以外の誰かを守るために、自分の身を投げ出した。

 サーシャに向けて振るわれた悪魔の爪を、アリア・リナージュ・アイアラスは、真正面から受け止めた。

 軽装の鎧が、貫かれる。チェストプレートに喰い込むようにして、原始的な鋭い痛みが、胸を刺す。


「う……ぐ、ぅ……!」


 赤い血が、鎧と爪の間から、滴り落ちた。


 痛い。

 痛い。

 痛い。


 けれど、痛いだけだ。

 自分が、痛いだけだ。

 それだけなら、平気だった。


「……また、バカなことを。結果は、何も変わらない」

「変える」

「なに?」

「変える……変わるんだ。あたしが……」


 自分の存在に、価値を与えるために。

 自分の存在を、守るために。

 そのために、自分という存在には強さが必要なのだと思っていた。

 けれど、違った。

 自分という存在の価値をおとしめていたのは、他ならぬ自分自身で。冷たい諦めの中に身を沈めて、己をさげすんでいたのも、自分自身だった。

 昔は誰も、自分の名前を呼んでくれなかった。


 ────名前を呼ぶよ


 でも、彼は当たり前のようにそう言った。


「アリア、逃げて……」


 今は、もう違う。

 名前を呼んでくれる人たちが、たくさんいる。


「……逃げません」

「アリア……!」

「逃げませんっ!」


 負けたら、守れない。

 勝たなければ、救えない。


 故に、変化があった。


 滴り落ちる赤い血が、止まった。

 薄い鎧を突き刺した、爪と腕が動かなくなった。


「……なんだ、これは」


 悪魔は、絶句する。

 悪魔は、その変化を正しく認識できない。

 空間に満ちていた熱気が、丸ごと凍りついたようだった。

 少女の足元。そこに触れている場所から、地面が、軽やかな音を鳴らして氷結していく。

 少女の胸元。それを突き破るはずだった爪が、腕が、異常な速度で凍結していく。


「そっか。やっと……


 疑問があった。

 触れたものを熱する魔法。それなら何故、自分は自分以外のものを熱する時、その熱さに焼かれることがないのか? どうして熱気に満ちたこの空間の中で、自分だけが自由に動けるのか? 

 答えがあった。

 触れたものを熱くするのが、この魔法の本質ではない。きっと無意識の内に、自分はこの魔法の本当の力を理解していて。その力の正体は、もっと自由なもので。

 心に宿る魔法を引き出すためのきっかけは、ずっとすぐ側にあった。


 ────きみは、なんのために強くなりたい? 


 どうして、自分には力があるのか。

 その力で、何がしたいのか。

 今なら言える。

 今ならわかる。

 だって、ようやく見つけることができたから。

 守りたいものが、目の前にあるから。


「これは、なんだ……なんなんだ!? オマエの、そのは!?」


 だから、叫べ。

 この力の名は────


「────紅氷求火エリュテイア


 乱れた金髪の間から、深い蒼の瞳が覗く。その視線の鋭さに、鮮やかな紅色の怒りに、悪魔の心が凍りつく。

 身を焦がす熱い激情を、冷たい吐息に変えて。

 今、此処に。魔法使いとなった騎士は、静かに告げた。


「あたしの大切な人たちに、手を出すな」

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