騎士ちゃんの昔話
暑い。
上層階とは正反対に、茹だるような熱気が、ダンジョンの下層には満ち満ちていた。
「はぁ……はぁ」
自分の息遣いの荒さを、アリアは自覚する。
隣に立つサーシャを見れば、顎の先から、汗が滝のように滴り落ちている。下層に降りた瞬間に、ダンジョンの環境は劇的に変化していた。
ここは、火の聖剣が眠る迷宮。魔力を宿した武具は、それに相応しい持ち主を見極めるために、共生するモンスターに合わせて、特殊な環境を形成する。熱気に満ちた空間は、人間が活動するにはまるで地獄のような様相を呈していた。
しかし、逆に言えば……地獄とは、悪魔にとって愛すべき故郷である。
「脆弱なものだな、人間は」
力尽きた騎士の頭を踏みつけにして、長い腕が特徴的な上級悪魔は
「この程度の気温で音を上げるとは、不便でか弱い肉体だ。まァ、強さに関しても、あのバケモノじみた刀の女以外は、まったくもって話にならないが」
言いながら無造作に振るわれた腕を避けきれず、アリアの隣にいたサーシャが吹き飛ばされた。
「サーシャ先輩!?」
「オマエだけだな。多少、骨があるのは」
もう動けるのは、アリアしかいない。
通常、上級悪魔を撃退するには、武装した騎士の集団が必要だと言われている。イト・ユリシーズが単独で上級悪魔を一方的に屠っていたのが、むしろ異常。今、目の前でアリアが直面している現実こそが、人と悪魔の、正常なパワーバランスだった。
「負けない……あたしは」
「オマエは? なんだ?」
伸縮した腕が、アリアの細い喉笛を掴んだ。
「っ……ぐ、ぁ……」
「多少力があったところで、何も変わらん。死ぬ順番が少し変わるだけで、そこには何の意味もない」
淡々と、自分よりも弱い生き物を締め上げながら、悪魔はその事実を告げる。
「理解しろ。オマエは、何も守れない」
◆◆◆◆
記憶の底の中から、それを拾い上げる。
アリア・リナージュ・アイアラスは、子どもの頃から、自分は強いという自覚を持っていた。
あるいは、それはどちらかといえば、自分は強く在らなければならないという強迫観念に近かったのかもしれない。
城の中に味方はいなかった。母は元々身分が低く、病に冒されていて、腹違いの子であるアリアの存在は腫れ物のように扱われていた。
己の魔法を持ち、剣の才がある。戦うための駒、あるいは政略結婚のための道具としてなら、いつか役に立つかもしれない。そんな理由だけで、アリアの存在は保証されていた。
「あなたは、お父上に愛されていません」
故に、アリアの養育を任された執事長は、まだ8歳の少女に向けてそんな言葉を平気で浴びせかけていた。
「……はい。わたしの出自を考えれば、それは仕方のないことです」
無表情に、突きつけられた事実を咀嚼する。
「ええ。よく理解していらっしゃいますね、お嬢様。あなたはお父上に愛されていません。これから先も、愛されることはありません。だからせめて、道具としてお役に立てるように努力をしてください」
執事長は、アリアの名前を決して呼ぼうとはしなかった。まるで口にすることそのものが不快であるかのように、ただ『お嬢様』という記号で呼び続けた。
愛されることがないのなら。
愛する必要がないのなら、人を愛さなくてもいい。
まだ幼いアリアの心の中にあったのは、そんな諦めにも似た感情だった。
顔を伏せる少女の暗い影を、執事長は満足そうに眺めて、
「たのもぅ!」
唐突に、そんな空気を吹き飛ばすように、ドアが蹴破られた。
ぎょっとする執事長とは対照的に、アリアの顔には満面の花が咲いた。
「お母さん!」
「うんうん。あたしだよ。お母さんだよ、アリア」
アリアの母は、そこにいるだけで、その場の空気を変えてしまうような女性だった。空気を変えるために、ドアを蹴破るような女性だった。
「お、奥さま。どうしてここに……?」
「いけませんか? 今日は何故か特別に猛烈に、気分がよかったのです。それとも、あたしの体調が良いと、何かまずいことでもあるのかしら?」
「い、いえ……決してそのようなことは」
アリアの母親は病を患ってはいたが、強い女性だった。
「ああ、そうそう。元々メイドをしていたせいかしら。品がなくて申し訳ないのだけれど、あたしはとっても地獄耳でね」
声の張りも、詰め寄る足取りも、とても病人のそれではなく、
「あなた、今……アリアに何を言っていたの?」
母は本当に、とても強い女性だった。
一言一句、言葉の意味を明確にした発声に、執事長の表情が歪む。
「べつに、なにも……」
「あら? アリアには言いたいことを言いたいだけ言えるのに、あたしに何も言えないのは何故?」
「わ、私はお嬢様のことを想って……」
「アリアのことを想っているのなら、それをあたしに言えないのは何故?」
「お、奥様! 誤解です! 私はお嬢様には何も……」
「見苦しいですよ」
ぴしゃりと。言い訳が、切って捨てられる。
「身分のこと、家のことを言うのであれば、あたしに直接言いなさい。それらはすべて、あたしの責任です。ですが、娘に対してそれを言うのは、許しません」
顔を紅潮させた執事長は、ぷるぷると震えたあと、捨て台詞を吐いた。
「生まれたことが間違いだったくせに、何を偉そうに……」
「あぁ!?」
しかし、その捨て台詞を、アリアの母は捨てて行かせなかった。
なんというか、アリアの母は本当に、とても強い女性だったので……部屋を出ようとする執事長の腕を凄まじい力で掴み取り、背中で持ち上げ、一撃で床に叩き伏せた。
その結果。轟音が響いて、大の大人が泡を吹くところを、アリアははじめて目撃することになった。
「お、お、お……お母さん!?」
「ふんっ……! 良い気味だわ」
目を回している情けない男を、鼻息荒く見下ろしたあと。声のトーンが一段落ち着いて、謝罪がアリアに向けられた。
「ごめんね、アリア。お母さんのせいで、辛い思いをさせたね」
「だ、大丈夫だよ! わたし、我慢できるもん。いろんなことを言われて、ばかにされても、平気だもん!」
そう言うと、母は笑ってアリアの頭を撫でた。
「アリアは強いなぁ。えらいぞ。さすがは、あたしの娘だ」
膝を折って、目線を同じにして、アリアの母はまだ小さな娘を力いっぱいに抱き締めた。
「……お母さん」
「なぁに?」
「お母さんは、どうしてそんなにかっこいいの? どうしてそんなに強いの?」
「それはねぇ……アリアがあたしの宝物だからだよ。大切なものを守るためなら、お母さんはいくらでも強くなれるんだよ」
アリアは、純粋にその言葉が嬉しかった。
やさしい言葉に、常に緊張で固く張り詰めていた心が、少しずつ解けていく。
「あたしは……もうすぐ病気でいなくなっちゃうかもしれないけど。でも、あたしが生きている間は、アリアのことを絶対守ってあげるから。たくさんたくさん、抱きしめてあげるから。だから、我慢しなくていいんだよ」
そこまで言われて、ようやく。
アリアは、しゃっくりあげるように堪えていたものを吐き出して、涙を流した。
「……あのね、お母さん。みんなはきっと、わたしのこと、好きじゃないの」
「そんなことないよ。あたしは、アリアのことが大好きだよ」
「……お母さん以外の人、みんないじわるなの。わたしのことが、きっときらいなの」
「ごめんね。それはお母さんのせいだ。いつも側にいてあげられなくてごめんね」
「……お母さん、わたしがきらわれるのは、わたしがわるいこだからなの?」
「違うよ。アリアはとってもいい子だよ。あたしが保証する」
頭を撫でながら、母はアリアに向けて少し申し訳そうな表情をした。
「ごめんね。お母さんがもっと強かったら、アリアのことを守ってあげられたのにね?」
母は強い女性だった。
それでも、母の顔つきが、体付きが、以前に比べてやせ細っていることは、まだ幼いアリアにもわかった。
もうすぐきっと、母は自分の側からいなくなる。
だから、こんな風に泣いてはいけない。心配をかけてはいけない。弱いままではいけない。
もっと、もっと強くならなければならない。アリアは、そう思った。
「お母さん、わたし、強くなるね」
「……無理して強くならなくても、いいんだよ?」
「ううん。わたし、剣も魔法もすごいって、それだけは先生に褒めてもらえるの。だから、強くなるよ! 魔王を倒す勇者さまみたいに、強くなるんだ!」
「……うん、そうだね。アリアは強い子だから……だから、これからもっともっと強くなれると思う。でも、忘れないでほしいな」
抱き締める力が、より一層強くなる。
「自分を守るための強さは、どこまでいっても独りぼっち。人が一番強くなれるのは、誰かを守るために戦う時なんだよ」
「……お母さんが、わたしを守ってくれたみたいに?」
「そう。お母さんが、アリアを守る時みたいに!」
ニカッと。間近で見る母の笑顔は、とても眩しくて。
幼い心の中に、納得があった。安心があった。
だからアリア・リナージュ・アイアラスは、この日の母とのやりとりを、よく覚えている。きっと、一生忘れない。
「自分を大切にしてくれる人。自分が大切にしたいと思える人に出会えた時。そういう人たちを守れる強さが、アリアにはきっとあるから──」
────これから先。あなたの人生に、たくさんの幸せな出会いがありますように。
その言葉の熱を胸いっぱいに吸い込んで。その願いの温もりを、全身の抱擁で感じ取って。
それから数日後に、アリアの母は死んだ。
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