盗賊と魔王②

 白く細い指が離れる。

 薄く赤を引いた唇が、やわらかい三日月を描く。


「ええ、魔王よ。今日は折角だから、お給仕をしてみたの。わたしが淹れてあげた紅茶を飲んだのは、人類で貴方がはじめてじゃないかしら?」

「なんと羨ましい……魔王様、その紅茶はまだ残っていますか?」

「今さっき、床にぶち撒けてしまったわ」

「なんと勿体ない……舐めます」

「やめなさい。また淹れてあげるから」


 たったそれだけのやりとりだけで、盗賊は王国の中枢に立つ大臣とその少女が、従僕関係で結ばれていることを、否応なしに理解した。


「おいおい、マジかよ……」


 世界の滅びの、元凶である少女が、目の前にいる。

 その事実に耐えられる人間が、この世にどれだけいるだろうか。

 泣き叫んで、許しを乞うか。

 発狂して、向かってくるか。

 アリエスは、彼の反応を待った。


「ああ、くそっ……」


 頭を抱えて、心の底から後悔するような声を漏らして、



「ますます抱きたかった……!」



 盗賊は、心底悔しそうに、そう言った。

 悪魔は、目を丸くして手を叩いた。

 人間の反応に、心底驚かされるのは、ひさしぶりの経験だった。


「……これは驚きました。あなた、恐怖という感情を知らないのですか?」

「あ? 何言ってんだ、旦那」


 彼は、何の気なしに答える。


「魔王の嬢ちゃんがその気なら、オレはもう百回は死んでる。今さら怖がることなんてあるかよ。それよりも、あの魔王を抱く機会を逃しちまったことの方が、百倍悔しいね。これだけの別嬪さんなら、なおさらだ」

「相変わらず、あきれた刹那主義者ですね」

「ふふっ……アリエスが言った通り、おもしろい人ね。メイドさんごっこをした甲斐があったわ」

「けど、いいのか?」

「あら、何が?」

「オレがもし、あんたらの正体をバラしたらどうする? 国王の側近の正体は悪魔で、魔王と裏で繋がってる、ってな」

「それは脅しですか?」

「いいや、これからもビジネスパートナーを続けていくにあたって、気になるところはきれいにしておきたいだろ?」


 ふむ、と。アリエスは頷いた。


「盗賊風情におかしな噂を流されたところで、私の地位は揺らぎませんし、そのように宮廷内の立ち回りにも、気を配っているつもりですが……結論から言えば、そういった心配はする必要がない、というのが答えになります」


 悪魔は気安く彼の肩に触れて、一言。告げた。


「私の正体と魔王様について、他者に喋ることを禁止します」


 肩に触れて、それを言う。

 たったそれだけで、終わりだった。

 たったそれだけのことであるはずなのに、彼は自身の全身に冷たいものが這い回る感覚を覚えた。


「……なにをした?」

「魔法をかけてあげました」


 プレゼントを渡すような口調だった。


「私の魔法は、


 潜入、あるいは諜報活動。

 この世で秘密を守るために最も難しいのは、秘密を秘密のまま、他者に強制することである。

 人間の口は、常に軽い。だからこそ、その悪魔の魔法は敵の本拠地に潜り込むのに、なによりも最適だった。


「今のように口述での宣言は必要ですが、魔法ですから一度かけてしまえば当然解除はできません。これであなたは、一生涯、私と魔王様の正体について、喋ることができなくなりました。おめでとうございます」

「……こわいねぇ」


 行動の『禁止』。

 それはもう、何よりも強い呪いじゃないか、と。

 口には出さずに、彼は内心で毒吐いた。


「それともう一つ。これはべつに、魔法を使って禁止するまでもないと思いますが……」


 魔法をかける際は優しくのせられていた手に、肩が痛むほどの力が込められる。


「人間風情が、我が主に気安く触れるのは感心しません。次はありませんよ?」

「……へいへい。肝に命じておきますよ」

「結構です」


 後ろで、魔王の少女がフリルエプロンを摘んで、くるりと回る。


「あら? わたしはべつに気にしないのに」

「いけません、魔王様。私が、誰よりもこの私が気にします」


 再び笑顔の仮面を被り直したアリエスは、彼に資料を差し出した。


「……さて、それでは改めて、今回の依頼です。騎士学校の生徒が、ダンジョンの調査に出向くように、こちらで仕向けておきました。そこで、我らの同胞である最上級悪魔を殺した少女を、始末してください」


 記された名前は、イト・ユリシーズ。

 学生騎士最強とも謳われる、異端の剣士。


「こりゃまた、強そうな嬢ちゃんだ」

「強いですよ。死なないように気をつけてくださいね。ああ、そうそう。ついでに、そのダンジョンにある火の聖剣も回収も忘れずに」

「注文が多くて困るぜ。まあ、やらなきゃ死ぬだろうから、死ぬ気でがんばらせてもらうけどよ」

「理解が早くて助かります」


 アリエスは、わざとらしいほどに丁寧に、彼の手を取った。


「安心してください。老いた国王はもうじき死にます。新たな王の下で、私がこの国の権力を握る日も近い。その日が来たら、あなたを正式に私の配下に加えることを約束しましょう」


 悪魔は嗤う。


「よろしくお願いしますよ。ゲド・アロンゾ」


 盗賊は笑う。

 この世界が、いつ終わるのか。それは誰にもわからない。

 しかし、悪魔に根っこから巣食われたこの国は、世界の滅びを待つまでもなく……もうとっくに、終わっているようだった。

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