盗賊と魔王①
世界はすでに終わっている、というのが彼の持論だった。
魔王という御伽噺の存在が、実在していると確認されてから、どれだけの時間が流れたのか。詳しいところは忘れてしまった。多分、意識して数えている人間もいないだろう。誰だって、いやなことは考えないようにしているものだ。
そう。今の世界の均衡は、子どもが大嫌いな宿題をやるのを先送りにしている状態に近い。
べつに明日、滅びるわけではない。すぐに終わりが来るわけではない。ただ、人間の生活圏は瑞々しい葉が芋虫に貪られるように、徐々に目減りしていた。
だから、彼は一年後の世界のことを考えるよりも、明日飲む酒と美味い飯のことだけを考えるようにしていた。
刹那の快楽に身を委ねるためだけに、今日という日を生きる。
彼は、盗賊である。
もちろん、そこらに履いて捨てるほどいるチンピラ崩れがやるように、行商人を襲って金品を巻き上げることもあったが。彼の場合は高い地位にある人間から依頼を受け、宝物の回収や強奪を請け負う仕事の方が多かった。その内容には、依頼人にとって邪魔な人間を消すことも含まれる。
今回の依頼人はこれまでも何度も依頼を受けてきた、俗に言う『お得意様』というやつで、その屋敷は身分と立場に反して、人が寄りつかない森の中にあった。こんな辺鄙な場所に、よくもまあこれだけ大きな屋敷を構えたものだ、と。贅を尽くしたその外観を見て、思わずそんな溜息が漏れる。
予め、来訪の時間は伝えていたとはいえ、扉を叩く前に使用人が出てきたのには、少し驚いた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。主人からお話は伺っております。こちらへどうぞ」
見たことがない顔である。
案内に現れたのは、黒髪のセミロングが印象的なかわいらしいメイドの少女だった。一目で仕立ての良いとわかる仕事服。真っ白なフリルエプロンには、染み一つない。通された応接室はやはりというべきか、彼一人を待たせておくには充分過ぎる広さを誇っていた。
居心地の悪さを感じながら、出された紅茶に口をつける。茶には詳しくないし、普段からキツいアルコールばかり転がしているバカ舌に正しい価値がわかるとも思えない。ただ、自分が人生で飲んできた紅茶の中で最も高いものであることくらいはわかった。
彼は、刹那の快楽に身を委ねて生きている。
この一杯が飲めただけで、なんとなく。今回も仕事を受けてよかったと思えた。
「美味いな、この紅茶」
「恐縮です」
メイドは静かに笑った。
きれいなテーブル。美しいカップ。香りの良い紅茶。
恵まれたこの部屋の中には、きれいなものが満ちみちていて。
彼女の澄ました横顔までもが、怜悧で美しかった。
だからだろうか。なんとなく、汚したくなったのは。
彼は、飲み干したティーカップを置いて言った。
「おかわりをもらえるかい?」
「かしこまりました」
頷いた彼女は、ティーポットを持って近づいてくる。温かい紅茶が、カップの中に注がれる。
彼はとても自然な動作で、まるで高級品のカップを優しく持つように。
整ったメイドの顔を、広げた手のひらで鷲掴みにした。
「っ!?」
声は出せない。出させない。
ティーポットが落ちて、高級な香りが床にぶち撒けられる。こんな高い茶葉をカーペットに吸わせてしまうのは惜しいが、これはこれで悪くない楽しみ方かもしれない、と。部屋の中に広がる香りに、彼は鼻腔を震わせた。
「……きれいな顔してるな、あんた。髪色は、黒じゃない方が好みだが」
極めて客観的な容姿の評価を主観を交えて述べながら、彼は服に手をかけた。こういう服は造りが凝っているせいか、どうにも脱がせ方がわからない。長いワンピーススカートにシックな色合いは、色気がないと言えばなかったが……脱がせた時の想像が膨らむのは悪くない。きっと、下着も上品なものを身に着けているのだろう。
面倒になったので、懐からナイフを引き抜く。まずはエプロンから切っていけばいいか、と。そこまで考えてから、彼は強烈な違和感を覚えた。
この少女は、なぜ抵抗しない?
恐怖で体が竦んでしまっているからか?
男の自分には力では敵わないと、諦めてしまっているからか?
違う。少女は口元を掴まれたまま、目を開いて彼を真っ直ぐに見詰めていた。
まるで、自分とは違う生き物を観察するように。瞳の中に、写り込んだ自分の姿に、思わず息を呑んだ。
「おやめなさい」
そう言われて、彼は振り返る。
そこには、依頼主が呆れた表情で立っていた。
「……アリエスの旦那」
「彼女はとても美しい。摘み食いをしたくなる気持ちはよくわかりますが……しかし、自重してください」
アリエス・レイナルドは、王国の大臣である。
男にしては長い髪を後ろで纏め、颯爽と肩で風を切るその姿は、宮廷の女性たちから羨望の眼差しを向けられている。大臣の中で最も年若いものの、実績は申し分なく、国王からの信頼も厚い。次期国王の右腕は彼になる……というのが、専らの噂であった。
「さあ、仕事の話をしましょう」
そんな男は……否、そんな男であるからこそ。
アリエスは盗賊である彼に、幾度も表に出せない仕事を依頼していた。
仕事である以上、依頼主には逆らえない。彼は少女から手を離し、椅子に深く腰掛け直した。
「さて……思えば、私とあなたの付き合いも随分長くなってきました」
「そうだな。旦那は金払いが良いから、オレも感謝しているよ。これからも、末永くビジネスパートナーとして付き合っていきたいもんだ」
「それは結構。そこで今日は、これからも互いに良好な関係を築いていくために……あなたに、私の秘密について打ち明けておこうと思いまして」
「秘密?」
アリエスは、笑顔を浮かべたまま、メイドの少女を手で示した。
「簡潔に申し上げます。私の正体は悪魔で、魔王軍の幹部。ついでに、そこにいらっしゃるのが、私の主です」
「……あ?」
何を言っているのだろう、と。
思わず振り返った彼の唇に、指先が当てられた。
絶句する。
いつの間にか、その少女の髪からは、色が抜け落ちていた。彼が先ほどまで黒髪だと思っていたそれは、透き通るような色合いの白髪だった。
「さっきは、激しく求めてくれてありがとう」
乱れた襟とリボンのせい、ではない。
その囁きは、ただそれだけでどこまでも蠱惑的で。
「きれいだって言ってくれて、嬉しかったわ」
声に惹かれる。
表情に惹かれる。
視線に囚われる。
自分の内側からふつふつと沸き上がるその野性的な欲が、否応なしに彼に一つの事実を認識させた。
「……魔王?」
指が離れる。
薄く赤を引いた唇が、やわらかい三日月を描く。
「ええ、魔王よ。今日は折角だから、お給仕をしてみたの。わたしが淹れてあげた紅茶を飲んだのは、人類で貴方がはじめてじゃないかしら?」
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