殴り合いは心のコミュニケーションである

 バロウ・ジャケネッタは冒険者である。

 魔王が勇者によって討伐されたあと、人類の生活圏は以前よりも広がり、怪物たちが跋扈する危険な地域の開拓も、進んで行われるようになった。必然、腕が立つ冒険者は安全な生活圏よりも、スリルと一攫千金の夢を追い求めて、このような辺境の土地に進出することが多くなった。バロウも、そのような冒険者の1人だった。

 腕っ節には自信がある。殴り合いに限定するなら、王都の騎士とタイマンを張っても勝てる自信がある。事実、その程度の自惚れと自尊心を育める程度には、バロウという男は中途半端に強かった。


(なんなんだ、このガキは!?)


 だが、不幸にも彼の前に立っているのは、殴り合いに限って言えば人類最強の頂に手を掛けている拳聖だった。


 その名も、ゴールデン・サウザンド・マスク。


 はじめは、村の子どもが遊びで入ってきただけだと思った。だが、一回戦。少女をあやすように場外に出そうとした青年は、冗談のように高く打ち上げられ、吹き飛ばされた。


 ────次。


 少女は、静かに言った。

 二回戦で出てきた男に、油断はなかった。最初から全力で少女にタックルをかけにいき、流れるように拳による一撃を入れられ、地面に沈んだ。三回戦も、四回戦も、大の大人が小柄な少女に遊ばれるように叩き伏せられ、吹き飛ばされ、その度に周囲の観客の熱気はヒートアップした。


 今宵、この祭りの主役は、間違いなくゴールデン・サウザンド・マスクだった。


 バロウは攻める。ひたすらに攻める。だが、その殴打はまったくと言っていいほど通らない。

 ストレートを打ち込んでも、まるで水の中に手を突っ込んだかのように受け流される。蹴りを振っても、タイミングが完璧に悟られているかのように、跳躍で避けられる。相手は小柄で、手足のリーチでは圧倒的に自分が勝っているはずなのに、拳も脚も、何もかもが当たらない。


「身体の基礎は、できている。でも、技がなってない。力任せの拳に頼っていると、いつか必ず自分にしっぺ返しがくる。意識して、直した方がいい」


 しかも、戦いながら、なぜか上から目線で指導までしてくる。

 バロウははぐれ者から身を立ててきた冒険者である。修行などしたことはないし、戦い方は我流で、師もいない。故に、その少女の指摘が、彼の神経をどこまでも逆撫でした。


「……んだとぉ!」


 中途半端に強いせいで、実力差を正しく理解できなかったのが、彼の不幸であったとも言える。


「その仮面を引っ剥がして! 力の差ってもんをわからせてやるよ!」


 男らしい、分厚い手のひらが握り込まれた拳が、弾丸の如く加速する。大の大人が真正面から受ければ、それだけで倒れてしまいかねない、強烈な一撃。

 それを、謎の少女……ゴールデン・サウザンド・マスクは、


「暴言、反省」


 巻き取るように受け止めて、目にも留まらぬ反撃をお見舞いした。


「が、ふっ……!」


 その一撃を身に受けて、バロウは確信する。

 これは、ただがむしゃらに振るわれる拳ではない。これは、何の思考も伴わずに振るわれる拳ではない。

 肉体の、どこを突けば相手が倒れるのか。この少女は、それを知っている。

 自分にはない知恵と、自分とは異なる、鍛え上げられた拳の強さを、バロウは自ら体で体験するに至って、ようやく理解した。

 薄れいく意識の中で、それでもなんとか声を絞り出す。


「なに、もんだ、テメェ……」

「名乗るほどの、者じゃない」


 仮面の下で、うっすらと微笑む気配を感じながら、


「今夜のわたしは、謎の美少女、ゴールデン・サウザンド・マスク。それ以上でも、それ以下でもない」

「へっ……そうかよ」


 完敗である。バロウは、どこか晴れやかな気持ちで地面に倒れ込んだ。

 ぼやけていく意識の中、飛び込んできた青年がゴールデン・サウザンド・マスクと対峙したように見えたが……きっと、幻覚だと思った。こんな達人と、真正面から立ち会う度胸のある人間など、いくらこの世界が広いとは言っても早々いない。

 もしも、そんな人間がいるとしたら。

 ソイツは多分、本物の勇者だろう。



 こわいよー。

 やる気が溢れんばかりに漲ってる楽しそうな師匠こわいよー。

 賢者ちゃんに変装用のマスクをちゃちゃっと作ってもらってリングに飛び込んだまではよかったが、そのあとのことをまったく考えていなかった。

 後ろを、ちらりと見る。おれが乱入してきた時には、既に師匠と対戦していた冒険者の男は意識を失ってしまっていた。くっ……許してくれ。おれがもうちょっと早く駆けつけることができれば、犠牲にならずに済んだのに……


「何者だ?」


 おれという突然の乱入者の登場に、会場の空気はさらにヒートアップ。熱い歓声が耳を割らんばかりに響いてくる。おれは見た目のポーズだけはやる気満々といった風に拳を構えてみせて、師匠に向かって小声で囁いた。


「おれですよ、おれ。こんなところで油売ってないで、さっさと帰りましょう、師匠」

「意味不明。お前みたいなマスクの不審者の弟子を取った覚えはない」


 ふざけんな。誰か鏡持ってこいマジで。


「では、いくぞ」

「え、ちょっとま……」


 やけに嬉しそうな呟きに、静止の声も虚しく。

 跳ねた小柄な体はおれの前から一瞬で消えて。

 拳が、風を切った。

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