そして、少女は賢者になった
狐に化かされたことは一度もないが、狐に化かされるとはこういうことを言うのだろうな、とおれは思った。
「……消えたな」
「……消えましたね」
扉を開けて、店を出た瞬間。厳密に言えば、店を出たと認識して、振り返った瞬間、おれたちがさっきまで食事を楽しんでいた店は、忽然と姿を消していた。
「勇者くん! 大丈夫!?」
「お店! お店が消えちゃいましたよ、勇者さん!」
外で待っていた騎士ちゃんと赤髪ちゃんも、あわてた様子で駆け寄ってくる。ついさっきまで入っていた店がいきなり消えてしまったのだから、驚くのも無理はない。
ていうか、もしかしなくてもあのエルフの店主、めちゃくちゃすごい魔術の使い手だったのでは?
「どう思う賢者ちゃ……」
「空間転移用の魔導陣を店全体に仕込んでいたとして、どこに仕込んでたのか全然わからなかった……人やモノを転送させるのとはわけが違う……だって建物をそのものを転移させたのにそこに建物があった痕跡すらない。つまりこれは地面に仕込んだものではなく建物をそのものを転移対象として認識させているということ。だとしてもこんなに一瞬で何の予備動作もなく忽然と消えるなんてありえない……でも認識阻害の類いじゃなくて明らかに建造物そのものが移動している……店そのものを単一の存在として確立させている? その場合、建築の土台から魔術的アプローチをする必要が……でもその方が明らかに手っ取り早いし、一応の辻褄が合う……だったら」
ぶつぶつと呟きながら、賢者ちゃんは乾いた地面に杖の先でガリガリとおれにはよくわからない式を書き込んでいく。
あ、これだめみたいですね。スイッチ入っちゃってるわ。
「騎士ちゃん、赤髪ちゃん。悪いけど先行ってて。多分、師匠が死霊術師さん拾いに行ってるから」
「はいはーい。じゃあ、先行ってるね」
「わかりました」
隣にしゃがみ込んで、うわ言のように呟きを止めない賢者ちゃんをしばらく隣で眺める。
「はっ! すいません。つい……」
「いいよ。気が済んだなら行こっか」
「そうですね。30人くらいに増えて、じっくり思考を共有して取り組みたいところですが」
「だめだめだめ。それ、絶対日が暮れるパターンでしょ」
さっきの魔術はおそらくあーだこーだ、と。うんちくを垂れ流すモードに入った賢者ちゃんの話を、笑いながら聞き流す。
しかし、口と同じくらい滑らかに動いていた足が、ふと止まった。
「ん、どうかした?」
「ああ、いえ……」
すぐに視線は逸らされてしまったが、何に目を留めていたかはすぐにわかった。
花だ。草木すら少ない荒野の中で、それでも懸命に咲こうとしている、小さくてかわいらしい一輪の花。
賢者ちゃんと同じように、おれの目も何故かそれに強く惹かれてしまった。
「賢者ちゃんは、花は好き?」
「そうですね」
視線が、前に戻る。
「好きだったんだと思います」
花を見る時。
賢者ちゃんはいつも嬉しそうに、寂しそうな表情をする。
自分の中にいる誰かを思い出すような、そんな顔をする。
そして、決まってどこか遠くを見る。
「なんで過去形なわけ?」
「……はぁぁ。そういう質問します? 今の私は成長しましたからね。お花に無邪気に喜んでいたあの頃と違って、大人になったんですよ」
ぐだぐだと言いながら、しかし賢者ちゃんは花の前で膝を折った。
水の魔術だ。かざした指先から、雫が落ちる。根付く地面がやさしく濡れて、花を支える緑色が、少しだけ背伸びしたように思えた。
「お、やさしい」
「気紛れの慈悲です」
「またかわいくない言い回しを……お水をあげたくなった、でいいじゃん」
「よくないですよ。だって、わたしがずっとここにいて、この花に水をあげられるわけじゃないでしょう?」
しゃがみこんだまま、賢者ちゃんはじっと花を見詰める。
「こんなところじゃなくて、もっと楽な場所で咲けばいいのに、とか。今はそういことを考えちゃいますから」
……なんというか、本当に素直じゃない育ち方をしたなぁと思う。
とはいえ、質問にはしっかり答えてほしいものだ。
「過去形じゃなくて、現在進行系なんだよね」
「はい?」
「さっきの質問」
むぅ、と。ローブに包まれた背中がもぞもぞした。
「……答えをわかっている問いを投げる方が、いじわるだと思いますよ」
「つめたっ!?」
すくっ、と。立ち上がって。ちょん、と。
背伸びした指先に鼻をつつかれて、おれはたまらずあとずさった。
「────花は好きです」
不意打ちだった。
「特に、その場所でがんばって咲こうとしている花は、もっと好き」
花が咲くような笑顔、という表現を最初に考えた人は、間違いなく天才だと思う。
だって、いつもは素直じゃないくせに。
急に昔みたいな笑い方をされると、おれの心臓が少し跳ねてしまう。
「でも、人は一輪の花よりも、一面に広がる花畑に惹かれるものでしょう?」
「……そうかな?」
疑問を返して、おれは見た。
水を浴びて、心なしか艶やかに輝いているように見えるその花を。
「おれも好きだよ。小さくてかわいい花は、特に好きだ」
「そうですか。それは……よかったです」
小生意気で、あっけらかんとした、鈴の声。
それでも、さっさと歩き出した背中には、また笑う気配があった。
◇
燃え盛る森から脱出するために、彼が選択したのはいちかばちかの賭けだった。
「いくよ。しっかり掴まって」
「はい」
「コール……マーシアス。『
少女の身体を強く抱き締めると同時に、彼と少女の身体が、重力を無視してふわりと浮き上がる。
その魔術に、否、魔法に、少女は覚えがあった。
「長老の……」
そのままぐんぐんと高度を上げた少年は、遠方にちらりと見えた明かり……おそらく、遠く離れた村のものであろうそれを見据えて、呟いた。
「これならいけるか……」
その明かりに向けて、目標が固定された。
ぎゅん、と。ただ浮かぶだけだった身体が、まるで風に押し出されたように、加速して射ち出される。
「きゃっ……」
眼下を、見る。
燃え盛る、生まれ故郷の森。風は冷たくて、指先はかじかんでしまいそうなほどに寒い。
「ごめん。本当に、ごめん……」
彼は悪くないはずなのに、なぜか、彼はそれを心から悔いているようだった。
「でも、絶対に……絶対に、おれと一緒に来てくれたことを、後悔はさせないから」
それを、認識した瞬間に。頬で受ける風の冷たさを、強く抱きしめられた熱が上回った。
下を見るのではなく、前を見る。
顔をあげると、闇の中に浮ぶ月があった。ささやかに、けれどたしかに光る、いくつもの星々があった。
それは、少女がはじめて誰かと見る、夜の輝きだった。
だから、不思議と、こわくはなかった。
「大丈夫?」
「はい」
これだ、と少女は思った。
彼に恋した『私』の想いを、私は知らない。それがどれほど深い気持ちだったのか、わからない。その無念を晴らすことは、きっとできない。
だって、私は私だとしても。
この世界に、まったく同じ恋は一つとして存在しないから。
この夜、この瞬間。彼を見詰めるこの気持ちは……それだけは絶対に、私だけのもの。
ああ、そうだ。
きっと『私』は、この人に恋をした。
「お兄さん」
「ん?」
「名前を、教えてくれませんか?」
そして多分、これから私もこの人に、何度でも恋をするのだ。
静かに咲かせた想いを、幾重にも重ねて、花束のように。
────このささやかな恋を、愛に変えていくのだ。
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