その勇者は、奪うことを決意した
よかった。今日は寝ている。
彼が眠っている寝室の扉を開いて、シャナはほっと息を吐いた。
今日は、風がとても穏やかで静かな夜だ。月にはうっすらと雲がかかっていて
、カーテンの隙間から漏れる光もいつも以上に儚い。
両手でしっかりと、シャナは扉を閉めて鍵をかけた。
規則的な寝息の側に、歩み寄る。そこは昨日、シャナが一緒に眠ったベッドだ。
昨日は、彼の話を聞きながら、ひさしぶりにぐっすり眠れた。いや、本当の意味で安心して寝ることができたのは、生まれてはじめてかもしれない。
────おれと一緒に、冒険に行かないか?
そう言ってもらったことが、うれしかった。
なぜだろう。
きっとこの人なら、自分のことをずっと見ていてくれると思った。
離れてほしくない。いなくなってほしくない。すぐ近くで、笑っていてほしい。
「……お兄ちゃん」
だから、一緒にいるために。
このお兄ちゃんは、殺さなくちゃ。
「ごめんね」
ナイフを抜いて、寝ている男に突き立てる。命令されたのは、シャナにもできる簡単な作業だった。
暗闇の中で、少年の体が強張る気配がした。
「……長老が、言ったの。約束、してくれたの」
彼に、シャナは言い聞かせる。
自分に、シャナは言い聞かせる。
言い聞かせて、言い聞かせて、何度も何度も繰り返して、自分自身に理解させる。心の内に、教えてもらった理屈を沁み込ませていく。
「私が、お兄ちゃんを3人に増やしてあげたから。だから……だからね? 1人は殺して長老に渡して、1人は私のお兄ちゃんにして、1人は世界を救いに行けばいいって。長老が、教えてくれたの」
命は、かけがえないのもの。失ってしまえば、決して取り返しのつかないもの。そう考えることができるのは、命に唯一性があるからだ。
同じ母親の腹から、どれだけ顔が似通った双子が生まれようと、その中に宿る心は違う。この世に、まったく同じ命は存在しない。
「3人もいるんだから、1人くらい……いいでしょう? お兄ちゃん」
誰もが持つそんな当たり前の価値観を、魔法は簡単に歪めてしまう。
外見も、心も、すべてが同じ命すらも増やす。増やすことができるなら、それはもう替えの利く消耗品だ。欲しいと思ったなら増やせばいい。他にも欲しい人間がいるのなら、増やして渡してしまえばいい。
けれど、少女の不幸は、そんな魔法を持って生まれてきたことではない。
それを間違いだと正す者が、周りに1人もいなかったことだ。
「一緒に、いようね」
シャナは、きっとこれから好きになる男の体に、もう一度ナイフを押し込んだ。
◇
くすぐったくて、目が覚めた。
「え?」
閉じていた目を開けると、めちゃくちゃかわいい女の子がナイフを握りしめて、おれの上に馬乗りになっていた。どこからどう見ても、完全に事案である。どうやら、おれは寝込みを襲われて刺されそうになっていたらしい。
目は口ほどにものをいう。きれいな色の瞳は、動揺で揺れていて。その中に、おれの顔が写っていた。
うーん。わりとひどい顔をしているな……やれやれ。
「……!」
また、ナイフが振り下ろされた。殺すつもりで刺してきた、というのはわかる。
しかし、刺さらない。おれの肌は、非力な力で振るわれる刃を、簡単にはじいた。
「なんで……?」
「ん? 勇者だから」
「……勇者は、ナイフ刺さらないの?」
「うん。勇者だからね」
シンプルに答えて、ナイフを払い除けて起き上がる。おれが力を込めると、華奢な体は簡単に倒れて、上下が逆転した。
「長老に言われた? おれを殺せって」
「……」
「うん、わかった。言いたくなかったら、言わなくてもいいよ」
瞳の色が、滲む。
ああ、この子は最初から泣いていたんだな、と。今さらながらに気がつかされる。
鈍感野郎、とアリアにまた怒られそうだ。これは反省しなければなるまい。
「……ごめんなさい」
掴んだ手首の、脈が早くなる。
人間の声って、こんなに震えるんだな、と。やけに冷めた頭で思った。
おれの中に、二種類のおれがいる気がする。
泣いている女の子の頭を撫でて、今すぐにでも安心させてあげたいおれと。
殺されかけたなら、相応の対処をすべきだと警告を告げるおれだ。
「私、お兄ちゃんに、側にいてほしくて。お兄ちゃんが、ほしくて、だから」
声音に嘘はない。しかしその言葉は、吐き気を催すような矛盾を孕んでいた。
こんなにも熱く求めながら、殺そうとする。
こんなにも涙を流しながら、強く欲する。
その致命的な食い違いの原因は、きっと本来この子の中にはなかったもので。この子の体に宿ってしまった魔法と、それを利用しようとした汚い大人たちが、この子をこんな風にしてしまって。
「ごめんなさい」
繰り返される空虚な謝罪に、耳が痛む。
この子は『おはよう』は知らなかったのに『ごめんなさい』は知っているのだ。
もしかしたら、穏便に済むかもしれないと思っていた。この子を連れていくか、と聞かれたから。だから、なんとかなるかもしれないと思っていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。私、お兄ちゃんのこと、殺そうとしちゃった」
でも、甘かった。
「だから、いいよ。私のこと、殺していいよ」
すべて、おれが甘かった。
「殺そうとしたから、殺されるのは……当然だと思うから。大丈夫。私、今までもたくさん死んでるから。慣れてるから」
増やしてしまえば、代わりがいる。だから、大丈夫だと。
おれよりもずっと小さい女の子は、そう言っていた。
「だから、私を殺していいから……私のこと、きらいにならないで」
わからない。
この子が言う『私』とは、一体誰のことを指すのだろう?
この子はきっと今までもたくさん増やされて、使い捨てられて。そしてこれから先も、いくらでも増えて、周りの都合で使い捨てられていくのだろう。
おれは良い。これから世界を救いに行くのだから、いくら魔法があっても困らない。どんな魔法でも欲しい。
アリアだってそうだ。己の魔法を見詰め直して、研鑽し、懸命に自分の力にしようとしていた。それはいい。それは、問題ない。
でも、こんな小さな女の子に、こんな残酷な魔法を与えるのは、やはり間違っている。
奪わなければ、ならない。
「シャナちゃん」
ナイフは、手の届く距離にあった。
「おれの魔法は……殺した相手の力をもらうんだ」
「え?」
手を離して、立ち上がる。床に落ちていたそれを、拾い上げる。
実際に持ってみると、抜き身の刃は予想していたよりも重かった。でも、まだ軽い。
だからおれは、ナイフをベッドの上に置いて、自分の剣を引き抜いた。より効率的に人を殺すために作られた刃の切っ先を、少女に向けた。
「正直に言う」
身に纏う空気が変わったのを、理解したのか。小柄な体が、まるで獣から逃げるように、後退った。でも、扉には鍵がかかっている。外には出られない。
そう。人間は、心臓を一突きすれば、簡単に死ぬ。
「おれは、きみの魔法が欲しい」
剣を、突き立てる。
彼女の呼吸が、止まる。瞬間が、永遠に感じられるように、静止した気がした。
「っ……が」
シャナちゃんの、背後。
おれが突き立てた剣は、扉の向こうで聞き耳を立てていた不届き者に刺さったようだった。血反吐を吐いて、倒れ込む音がした。
とんとん、と。肩を軽く叩く。止まっていた呼吸が戻った。
「……はっ……はっ」
「驚かせて、ごめん。脅すようなことをして、本当にごめん」
ぽろぽろと、また瞳から雫が落ちる。でもその涙は、さっきまでとはまた種類の違う涙だった。絞り出すような冷たさではなく、自然と溢れるような温かさがあった。
頬が、興奮で赤くなっている。薄い胸が、上下に揺れている。
おれの目の前で、この子はたしかに生きている。
「でも、どう思った?」
「……どう、って」
「死にたくないって。そう思ったでしょ?」
わかってほしい。
その気持ちに、替えなんて効かない。
「それは、きみだけのものだ。きみだけの命だ。だから、いくら増やせても、簡単に捨てちゃいけない」
わかってほしい。
今を生きている自分に、代わりなんていない。
「おれが助けたいのは、きみだ。シャナ」
おれは、世界を救うために、この子の魔法が欲しい。
だから、おれの都合で、おれがこの村から奪う。そう決めた。
もう一度だけ、手を伸ばす。
「おれと一緒に、来てくれる?」
返事はなかった。伸ばした手は掴まれずに、胸の中に飛び込まれた。震える背中をさすって、抱き止めた小さな体を持ち上げる。
これが、おれが抱える命の重さだ。
「よし、行こうか」
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