黒輝の勇者は、魔王を
魔法による入れ替えをはじかれた、と認識するのに、さして時間はかからなかった。
ジェミニは、自分の魔法が正しく働かなかった理由を考えようとして、しかしそれがなによりも不毛な思考であることに気がついた。
赤髪の少女が、ジェミニを見ていた。
(どうして……)
その目を、知っている。
記憶の底から、悪魔の最も大切な記憶が、走馬灯の如く鮮明に浮上する。
────魔王様は、何か欲しいものがありますか?
────わたしたちに用意できるものなら、必ず用意してみせるよ!
それは、ただの戯れだった。
玉座でつまらなそうに座る王の表情が、少しでもやわらげばいい、と。臣下が思いついた、ささやかな気遣いだった。
とはいえもちろん、主が欲するものがあれば、悪魔にはそれを用意する自信があったのだが。
────そうね
十二の悪魔に、主君として崇められることになった特別な少女は、その時はじめて、何かに迷う表情を見せた。顎に手を当てて、悩んで、考えて、
────あなた達みたいに、双子の妹ができたら……とっても楽しそうね
荒唐無稽な提案に、ジェミニは思わず吹き出した。そして、敬愛する主が温かい笑みを浮かべたのを、よく覚えている。
そう。悪魔はその笑顔を、片時も忘れたことなどなかった。
あの笑顔を、取り戻したかった。あの笑顔を、もう一度目にするために戦ってきた。
けれど、それはもう叶わない。何を引き換えにしたところで、絶対に。
────本当に?
声が、聞こえた気がした。
悪魔が主の残滓から目を離さなかったように。彼女もまた、ジェミニのことを見詰めていた。
少女の口が、言葉を紡ぐ。
「……ありがとう」
彼と、出会わせてくれて、ありがとう。
名前をくれて、ありがとう。
どちらか、あるいは両方だったのか。
ジェミニは、人ではない。
その感謝の言葉にどんな意味が込められているのか、人ではない悪魔は理解することができない。
だが、それは紛れもなく、悪魔が成し遂げようとした契約に支払われた、明確な代価だった。
「……ああ」
かくして、悪魔の夢は、ここに終わる。
剣が、意識を引き裂いて。
その名と魂を、勇者は心に刻み込む。
◆
夢を見ているようだった。
その日、すべてが終わり、すべてが変わった。
それは、最後の戦いだった。
「……ここまでだな、魔王」
疲労と痛みを少しでも排するように、息を吐く。
魔王をそこまで追い詰めることができたのは、はじめてだった。賢者ちゃんも師匠も、死霊術師さんも限界で、最後までおれの隣で戦ってくれていたのは、騎士ちゃんだった。
千載一遇の好機。もう二度とこないであろうチャンス。それに釣られて、おれは判断を見誤ってしまった。
「それは、どうかしら」
騎士ちゃんが膝を突いたのと、満身創痍の魔王が手をかざしたのは、まったくの同時。隣の騎士ちゃんの体を突き飛ばしたのは、ほとんど反射だった。
「っ!」
死に際に遺す、己の命を代価にした呪い。
浴びてはいけないものを浴びてしまった、と。すぐにわかった。それでも、おれには足を踏み出して、剣を振るう以外の選択肢は残されていなかった。歯を食いしばり、その華奢な身体に魔剣を突き立てる。魔王と呼ばれた少女の口の端から、鮮血が零れ落ちた。
「……ごほっ」
こいつの血も赤いのか、と。なぜか、ほっとした。
手にした剣から、伝わってくる命の鼓動は、今にも消えてしまいそうだった。
「……ああ、すごいわ、勇者。ほんとうに、あなたはすごい」
血と一緒に吐き出された言葉は、怨嗟ではなく、おれを讃えるものだった。
「わたしを倒すために、あなたはここまで辿り着いた。わたしを倒すことだけを目指して、あなたはここまでやってきた」
語る言葉に、熱が籠もる。
「なにが、言いたい?」
死に際の戯言に、どうして問いを投げたのか。自分でも、わからなかった。
「うれしいの。だってわたしは……世界で最も、あなたに想われた女ということでしょう?」
「ほざくな……っ!」
足場が崩れる。おれの体も、もう限界だった。膝にろくな力すら入らず、そのまま突き刺した剣と、魔王と一緒に、斜面を転げ落ちる。おれの名前を叫ぶ騎士ちゃんの声が聞こえた気がしたが、返事はできなかった。
「っ!?」
唇を、奪われたからだ。
一体、瀕死の体のどこにそんな力が残っていたのか。首の後ろに手を回されて、脚を絡められて、まるで抱きつかれるような形で、一緒に落ちるしかなかった。求められるその熱に、舌を噛みそうになる。口の中に、血の味が溢れだす。落ちて落ちて、転がって、ようやく背中の鈍い痛みと共に、体の回転が止まった。
おれは、すぐにその生温い感触を振り払って突き飛ばした。突き飛ばしたその手で、唇を拭う。
「はぁ、はぁはぁ……お前、なにを……?」
「ふぅ……ふふっ。照れてるの? かわいい」
魔剣は、腹に突き刺さったままだった。
今にも死にそうな息遣いで、それでも少女は、なぜかとてもうれしそうだった。
「どうして、こんなことを」
「理由はないわ。ただ、あなたと唇を重ねてみたかっただけ。わたし、あなたのことが大好きだから」
まるで普通の女の子のように、少女はそれを語る。
「わたしは今まで、欲しいものをすべて奪って生きてきた。だからね、勇者。わたしは、大好きなあなたのすべてを奪うわ」
まるで悪魔のように、少女はそれを語る。
「数え切れない人たちの魔法を、想いを、名前を、世界を背負って。あなたはわたしを殺した。この世は平和になって、魔の時代は終わる……でもね、わたしは嫉妬深いから、そんな一方的なハッピーエンドは、絶対に許さない」
体が熱を帯びていることに気がついた。胸の内側から吐き気が湧き上がって、思わず頭を抑える。
「だってあなたは、わたしの名前も、自分の魂に刻んで生きていくんでしょう? 平和になった世界で、わたしを殺したことも、背負って生きていくんでしょう?」
それが、義務だと思っていた。
それが、おれの使命だと思っていた。
だが、魔の王はそれを否定した。
「だめよ。絶対に許さない。あなたは……わたしの名前を一生忘れたまま、わたしの名前を呼べないまま、わたしという存在に囚われて、生きていくの」
焼けつきそうな頭を抱えながら、まだ間に合うと思った。
意識をして、言葉を紡いだ。
「────」
おれは、はじめて魔王のことを、名前で呼んだ。
「……ああ、うれしい」
本当に、本当に嬉しそうに。
「やっと、名前で呼んでくれた」
この世の皮肉と矛盾を、集めて押し固めたような事実が、そこにあった。
世界のすべてを賭けて戦った、命のやりとりのあとで。
おれが殺した女の子の笑顔は、見惚れてしまうほどに美しかった。
「愛してるわ、勇者」
「……違う。お前のそれは、愛じゃない」
「……そっか。うん、そうね。あなたがそう言うなら、これはきっと、愛じゃないんでしょうね」
ずっとおれを見詰めていた瞳は、
「わたしは……あなたに、恋をしていたのかな?」
最後の最後だけは、おれを見なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます