黒輝の勇者は、魔王を

 魔法による入れ替えをはじかれた、と認識するのに、さして時間はかからなかった。

 ジェミニは、自分の魔法が正しく働かなかった理由を考えようとして、しかしそれがなによりも不毛な思考であることに気がついた。

 赤髪の少女が、ジェミニを見ていた。


(どうして……)


 その目を、知っている。

 記憶の底から、悪魔の最も大切な記憶が、走馬灯の如く鮮明に浮上する。


 ────魔王様は、何か欲しいものがありますか?

 ────わたしたちに用意できるものなら、必ず用意してみせるよ!


 それは、ただの戯れだった。

 玉座でつまらなそうに座る王の表情が、少しでもやわらげばいい、と。臣下が思いついた、ささやかな気遣いだった。

 とはいえもちろん、主が欲するものがあれば、悪魔にはそれを用意する自信があったのだが。


 ────そうね


 十二の悪魔に、主君として崇められることになった特別な少女は、その時はじめて、何かに迷う表情を見せた。顎に手を当てて、悩んで、考えて、


 ────あなた達みたいに、双子の妹ができたら……とっても楽しそうね


 荒唐無稽な提案に、ジェミニは思わず吹き出した。そして、敬愛する主が温かい笑みを浮かべたのを、よく覚えている。

 そう。悪魔はその笑顔を、片時も忘れたことなどなかった。

 あの笑顔を、取り戻したかった。あの笑顔を、もう一度目にするために戦ってきた。

 けれど、それはもう叶わない。何を引き換えにしたところで、絶対に。


 ────本当に? 


 声が、聞こえた気がした。

 悪魔が主の残滓から目を離さなかったように。彼女もまた、ジェミニのことを見詰めていた。

 少女の口が、言葉を紡ぐ。


「……ありがとう」


 彼と、出会わせてくれて、ありがとう。

 名前をくれて、ありがとう。

 どちらか、あるいは両方だったのか。

 ジェミニは、人ではない。

 その感謝の言葉にどんな意味が込められているのか、人ではない悪魔は理解することができない。

 だが、それは紛れもなく、悪魔が成し遂げようとした契約に支払われた、明確な代価だった。


「……ああ」


 かくして、悪魔の夢は、ここに終わる。

 剣が、意識を引き裂いて。

 その名と魂を、勇者は心に刻み込む。



 夢を見ているようだった。


 その日、すべてが終わり、すべてが変わった。

 それは、最後の戦いだった。


「……ここまでだな、魔王」


 疲労と痛みを少しでも排するように、息を吐く。

 魔王をそこまで追い詰めることができたのは、はじめてだった。賢者ちゃんも師匠も、死霊術師さんも限界で、最後までおれの隣で戦ってくれていたのは、騎士ちゃんだった。

 千載一遇の好機。もう二度とこないであろうチャンス。それに釣られて、おれは判断を見誤ってしまった。


「それは、どうかしら」


 騎士ちゃんが膝を突いたのと、満身創痍の魔王が手をかざしたのは、まったくの同時。隣の騎士ちゃんの体を突き飛ばしたのは、ほとんど反射だった。


「っ!」


 死に際に遺す、己の命を代価にした呪い。

 浴びてはいけないものを浴びてしまった、と。すぐにわかった。それでも、おれには足を踏み出して、剣を振るう以外の選択肢は残されていなかった。歯を食いしばり、その華奢な身体に魔剣を突き立てる。魔王と呼ばれた少女の口の端から、鮮血が零れ落ちた。


「……ごほっ」


 こいつの血も赤いのか、と。なぜか、ほっとした。

 手にした剣から、伝わってくる命の鼓動は、今にも消えてしまいそうだった。


「……ああ、すごいわ、勇者。ほんとうに、あなたはすごい」


 血と一緒に吐き出された言葉は、怨嗟ではなく、おれを讃えるものだった。


「わたしを倒すために、あなたはここまで辿り着いた。わたしを倒すことだけを目指して、あなたはここまでやってきた」


 語る言葉に、熱が籠もる。


「なにが、言いたい?」


 死に際の戯言に、どうして問いを投げたのか。自分でも、わからなかった。


「うれしいの。だってわたしは……世界で最も、あなたに想われた女ということでしょう?」

「ほざくな……っ!」


 足場が崩れる。おれの体も、もう限界だった。膝にろくな力すら入らず、そのまま突き刺した剣と、魔王と一緒に、斜面を転げ落ちる。おれの名前を叫ぶ騎士ちゃんの声が聞こえた気がしたが、返事はできなかった。


「っ!?」


 唇を、奪われたからだ。

 一体、瀕死の体のどこにそんな力が残っていたのか。首の後ろに手を回されて、脚を絡められて、まるで抱きつかれるような形で、一緒に落ちるしかなかった。求められるその熱に、舌を噛みそうになる。口の中に、血の味が溢れだす。落ちて落ちて、転がって、ようやく背中の鈍い痛みと共に、体の回転が止まった。

 おれは、すぐにその生温い感触を振り払って突き飛ばした。突き飛ばしたその手で、唇を拭う。


「はぁ、はぁはぁ……お前、なにを……?」

「ふぅ……ふふっ。照れてるの? かわいい」


 魔剣は、腹に突き刺さったままだった。

 今にも死にそうな息遣いで、それでも少女は、なぜかとてもうれしそうだった。


「どうして、こんなことを」

「理由はないわ。ただ、あなたと唇を重ねてみたかっただけ。わたし、あなたのことが大好きだから」


 まるで普通の女の子のように、少女はそれを語る。


「わたしは今まで、欲しいものをすべて奪って生きてきた。だからね、勇者。わたしは、大好きなあなたのすべてを奪うわ」


 まるで悪魔のように、少女はそれを語る。


「数え切れない人たちの魔法を、想いを、名前を、世界を背負って。あなたはわたしを殺した。この世は平和になって、魔の時代は終わる……でもね、わたしは嫉妬深いから、そんな一方的なハッピーエンドは、絶対に許さない」


 体が熱を帯びていることに気がついた。胸の内側から吐き気が湧き上がって、思わず頭を抑える。


「だってあなたは、わたしの名前も、自分の魂に刻んで生きていくんでしょう? 平和になった世界で、わたしを殺したことも、背負って生きていくんでしょう?」


 それが、義務だと思っていた。

 それが、おれの使命だと思っていた。

 だが、魔の王はそれを否定した。


「だめよ。絶対に許さない。あなたは……わたしの名前を一生忘れたまま、わたしの名前を呼べないまま、わたしという存在に囚われて、生きていくの」


 焼けつきそうな頭を抱えながら、まだ間に合うと思った。

 意識をして、言葉を紡いだ。


「────」


 おれは、はじめて魔王のことを、名前で呼んだ。


「……ああ、うれしい」


 本当に、本当に嬉しそうに。


「やっと、名前で呼んでくれた」


 この世の皮肉と矛盾を、集めて押し固めたような事実が、そこにあった。

 世界のすべてを賭けて戦った、命のやりとりのあとで。

 おれが殺した女の子の笑顔は、見惚れてしまうほどに美しかった。


「愛してるわ、勇者」

「……違う。お前のそれは、愛じゃない」

「……そっか。うん、そうね。あなたがそう言うなら、これはきっと、愛じゃないんでしょうね」


 ずっとおれを見詰めていた瞳は、


「わたしは……あなたに、恋をしていたのかな?」


 最後の最後だけは、おれを見なかった。

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