無色の彩り
青かった空は、いつの間にか雲に覆われていた。
雨の雫が落ちて、悪魔の頬を濡す。ここまでか、という悔しさに、奇妙な納得があった。
勝算はあると思っていた。いくつもの準備を重ね、計略を張り巡らせてきた。それでもなお、自分の半身をむざむざと殺され、魔法を奪われ、すべてが終わろうとしている。
ジェミニは悪魔だ。人間が言うバケモノだ。しかし、目の前に立つ人間は、悪魔以上にバケモノだった。だから負ける。それだけのことだった。
「……」
振り上げられる剣に、言葉はない。切っ先が鈍く輝いて、恐怖に染まる悪魔の表情をまざまざと照らし出す。
ジェミニは迷った。
魔王を、この少女を盾にすれば、なんとか生き残れるだろうか? あるいは、自分の生存は保証されるだろうか?
そんなわけはない。この黒い勇者と敵対した以上、もはや生き残る術はない。たとえ何度殺そうが、この男は何度でも蘇って、自分を必ず地獄の底に突き落とすだろう。
勇者の視線には、そういう力があった。
ジェミニは決断した。
その意を決した上で、あれほど欲していた少女の体を、突き飛ばすようにして解放した。
「え?」
困惑する少女とは裏腹に、勇者に迷いはなかった。
「潔いな」
呟きには、賞賛と殺意が同居していた。
最小の動作を、最速のスピードで。悪魔を殺すための動きを、勇者は実行に移す。
胴体を、一突き。
肉体を貫き通す大剣の感触に、ジェミニは目を開いた。しかし、その口から苦悶の声は漏れない。無言のまま、悪魔の手は、勇者の心臓に向けられる。
「二度も続けて、急所狙い。芸がないぞ」
が、その胸板に指先が触れたところで、勇者の手が少女の手首を掴んだ。悪魔の指先は、心臓には届かない。
「……ううん、見えたよ、勇者」
しかしたしかに、悪魔の指先は、勇者の心に触れていた。
「あなたの殺意が、あなたの魔法が……あなたの心が、わたしには見えた。見えたなら、触れられる」
そして、悪魔は自身の主である少女を手放してはいても、その視線までは決して外していなかった。
魔法とは、世界を書き換える概念である。
二体で一柱である特別な悪魔の魔法は、まだ完全に黒く塗り潰されたわけではない。
触れている対象と、視線の先にあるものを入れ替える。それが、ジェミニ・ゼクスの魔法。『
「魔王様を、返してもらう」
自分の命と、魔王の復活。その重さを、天秤にかけるまでもない。ジェミニのすべては、最初から主君に捧げられている。
勇者の中にある『魔王の存在』を、少女の心と入れ替える。
双子の名を冠する悪魔の、最後の魔法が発動した。
◇
夢を見ているようだった。
赤髪の少女は、目を開く。
心の内側で、欠けていたピースがかちりとハマった音がした。
呼吸をする。周囲を見回す。そんな当たり前の挙動をしながら、ここはどこだろうと考える。
透明な部屋だった。何もない、白とも違う、本当に透明な空間。
「こんにちは」
透明な少女がいた。
透き通るような白髪と、折れてしまいそうな肢体。造りもののようなその身体には、不思議と目が引き寄せられてしまうような魅力があって。同時に、目を離してはいけないような威圧感があった。
じっと見入って、思考が答えを出す前に、心が呟いた。
「あなた、は」
「ひさしぶり。元気だった?」
頬を持ち上げ、破顔する。たったそれだけの表情の変化が、こんなにも魅力的に見えるのは何故だろう?
「勇者の中から、ずっとあなたを見ていたわ」
唇を動かして、言葉を紡ぐ。たったそれだけの当たり前の所作が、こんなにも魅力的に聞えるのは何故だろう?
「魔王」
「そうね。わたしは、そう呼ばれていたものよ」
透明な少女は、あっさりとそれを肯定した。
どこまでが地面で、どこからが天井かもわからない。
その場に立ち尽くす赤髪の少女に向かって、魔王と呼ばれた彼女は一歩ずつ近づいていく。
「大丈夫?」
「え?」
手を、差し出された。
なぜか、勇者とはじめて会った時のことを、赤髪の少女は思い出した。
その表情は、本当に心から、自分のことを気遣っているようで。
「わたしと、一緒になる気はない?」
その提案は、なによりも甘く、魅力的だった。
「一緒になる、って……?」
「元に戻る、ってことよ。何者でもない自分でいることは、なによりも辛かったでしょう?」
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
「わかるわ。だって、あなたはわたしだもの」
謳うように、囁くように。
もう楽になっていいのだと、魔の王は告げた。
「できません。わたしがあなたと一つになるということは、勇者さんやみなさんを裏切るということです。そんなことは、絶対に……」
「ほんとうに?」
「え?」
「あなたは、ほんとうにそう思ってるの? あなたの愛じゃ、どうせあの子たちには勝てないのに」
ただ当然の事実を、突きつけられる。
その指摘は、たしかに正しかった。
少女は知っている。
彼に向けられる気持ちが、多いことを知っている。彼に向けられる気持ちが、熱いことを知っている。彼に向けられる気持ちが、永遠であることを知っている。彼に向けられる気持ちが、美しいものであることを知っている。
そして、自分の想いが、そのどれにも勝る保証がないことを。他ならぬ、自分自身が知っている。
「重ねてきた時間も、想いも、あなたは他の子たちには勝てないでしょう? だったらわたしと一緒になって、いっそのこと、ぜーんぶ壊してしまわない? 大好きなあの人を、独り占めにしたいと思わない?」
魔王の言葉は、少女の本心でもあった。
少女の心の、一番奥の部分にある。浅ましい嫉妬を晒け出す言葉だった。
魔王の言葉に、偽りはない。魔王の言葉に、嘘はない。その提案はやはり魅力的で、少女の心を、強く強く揺り動かした。
だから、少女は、
「うらやましいんですか?」
魔王の提案を、鼻で笑って蹴飛ばしてみせる。
疑問形のその返答は、自分自身への問いかけと、確認だった。
「え?」
きょとん、と。
透明な少女の大きな瞳が、さらに大きく丸くなる。純粋な、困惑だった。
「わたしが、勇者さんと一緒にご飯を食べて、街を歩いて、海に行って。そういうのが全部、うらやましいんでしょう?」
赤髪の少女は言った。
あろうことか、世界最悪の魔王に向かって「お前、嫉妬してるだけだろ」と言っていた。
「わかるんです。だって、あなたはわたしだったから」
あなたはわたしだから、と。魔王は言った。しかし少女は、あなたはわたしだった、と。今の自分は違うと、魔王の共感を根本から否定する。
少女は、記憶喪失ではなかった。最初から少女には、記憶というものすらなかった。
けれど、世界を救った勇者の隣で、様々なものを見て、いろいろなものを感じて、それら全ての経験が、一人の少女を形作るアイデンティティに変わった。
少女には、名前しかなかった。決して勇者に聞いてもらうことができない名前しか、自分という存在を証明するものがなかった。
「でも、あなたはわたしじゃありません」
今は、もう違う。
「わたしは、勇者さんが大好きですから」
勇者のことが大好きな自分がここにいると、胸を張って断言できる。
「世界を一緒に見に行くって、約束しました。世界を壊す魔王になるなんて、死んでもごめんです」
だから、一人の女として、彼女は魔王の提案を、正面から否定する。
「そっか」
なによりも自信に満ちたその返答を聞いて。
魔王は、静かに微笑んだ。
「じゃあ、気をつけて」
胸に、手が触れる。やさしく突き飛ばされて、少女の意識は薄れていく。
ずっとこちらを見詰めていた瞳は、
「がんばってね」
最後の最後まで、優しいままだった。
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