紫天の嘲笑。そして

「終わりだ」


 跳躍と接近。踏み込み。

 動けない悪魔に、勇者が剣を振り上げる。


「終わって、たまるか!」


 小柄な少年に大剣を受け止められ、勇者の表情は僅かに揺らいだ。

 当然、刃渡りの広い聖剣をまともに受け止めたジェミニは、無事では済まなかった。肉が裂け、骨が砕け、肩の傷口から鮮血が吹き出す。受け止め切れなかった刃が、腹に食い込む。

 それでもなお、悪魔は笑っていた。

 勇者の背筋に、悪寒が走る。そういう笑みを浮かべる敵が何をするのか、勇者はよく知っている。


 死なば諸共。


 密着した状態で。ジェミニの手刀が、寸分違わず、勇者の胸を貫いた。


「ご、はっ……」


 ずるり、と。

 胸からべっとりと血が付着した、小さな手のひらが引き抜かれる。

 戦闘を開始してから、最も色の濃い笑みを浮かべ、少年の悪魔は歓喜した。


「やった……やったぞ! そうだ! そうだそうだ! 刺し違えてでも、ぼくは、お前を……」


 心の臓が、間違いなく貫かれた。

 世界を救った勇者はその瞬間、たしかに命を落とした。魔王の復活を望む悪魔は、たしかに勇者の命を奪った。

 しかし、悪魔は気付かない。

 あれほど勇者を守ることに執着していた姫騎士が、なぜ動揺を見せないのか?

 だから、悪魔は気付けない。

 使い潰され、放り捨てられ、軽んじられていた、裏切り者の姿が、いつの間にか見えなくなっていることに。


「────あらあら、いけませんわ」


 解答が、あった。

 女の、声がした。


「わたくしは、いくらでも何度でも殺していただいて結構です。ですが、その方をわたくしの許可なく殺すことは、絶対に許しません」


 どこから、現れたのか。

 いつから、そこにいたのか。

 まるで影の隙間から、這い出てきたかのように。彼女は、死んでしまった勇者の背中に覆い被さって、熱く抱き締めた。白く長い指先が、愛おしげに、心臓の鼓動が止まった身体に触れる。

 甘えるように、女の顎が男の肩にのった。唇が、甘い言葉を紡いだ。


「さあ、早く起きてください」


 そう。忘れてはならない。

 彼女こそ、世界最悪の死霊術師。

 決して覆せないはずの死という結果を、零れ落ちた命を、指先一つで覆し、紫色しいろで彩り、呼び覚ます。


 『紫魂落魄エド・モラド』リリアミラ・ギルデンスターン。


 その傲慢には、死すらも頭を垂れる。

 二人のジェミニは、激怒した。


「リ、リリアミラぁああああああ!」

「邪魔をするなっ! この、裏切り者がぁ!」


 絶叫と共に突き出された拳を顔面に受け、死霊術師の頭が文字通り千切れ飛ぶ。首なしとなった女の体から、力が抜け、地面に崩れ落ちる。

 それだけの間があれば、もう十分だった。

 ゆっくり数えて、四秒。それが、彼女の魔法が発動する合図。

 鼓動が戻る。

 呼吸が戻る。

 視線が射抜く。


「よう。おはよう」


 剣が、翻る。


「あ」


 断末魔の叫びはなかった。

 そこにあったのは、結果だった。

 無造作に振るわれた一閃が、双子の名を冠する少年の悪魔の首を斬って落とす。


「悪いな。相討ちじゃ、おれは殺せない」

「あ、あああ……!」


 勇者の言葉は、もう殺した少年に向けられているわけではなかった。赤髪の少女を取り抑える、もう一人のジェミニに向けられていた。

 勇者の剣が、ジェミニの半身を殺した。

 首を落として、殺した。

 その意味を、最上級悪魔はよく知っている。


「く、くるな。やめろ。おまえ、くるな……!」

「行かないよ」


 勇者は息を吐いた。


「お前が、こっちに来るんだ」


 立ち竦む悪魔を、彼はつまらなそうに。手近な石を掴む。掴んだそれを、悪魔に向ける。

 たったそれだけの動作で、ジェミニは勇者の目の前に転移させられていた。

 勇者がさっきまで掴んでいたはずの石が、ジェミニはさっきまで立っていたはずの地面に落ちる。本当に、いやになるほど軽い音が鳴った。


「便利だな。この魔法」

「わ、わたしの、力を……哀矜懲双へメロザルドを」

「そうだ」


 勇者は肯定する。

 その魔法を、最上級悪魔は知っている。

 ありとあらゆる同族を手に掛け、魔王を打ち倒し、世界に光をもたらした、その魔法の名を、悪魔は知っている。


「おれの魔法は、


 その魔法は、奪い、従える力。

 魔法とは、自身の体と心を中心とする魔の法。世界を己の理で塗り替える、神秘の力である。

 だからこそ、色の名を司る高位の魔法の中で、唯一。

 その力だけが特殊な発動条件を課せられ……魔法使いを殺すカウンターとして完成したのは、必然であった。


「おれは、お前がきらいだ。それでも、お前はおれを、この子に会わせてくれた」


 世界を救う、その日まで。

 折れず、屈せず、砕けず、諦めず。

 鉄の強さに、鋼の意思を伴って、勇者という存在ははじめて完成した。

 なにものにも染まらない輝きは、なによりも美しく、しかし同時に、この世に満ちるすべての色を否定した。


「礼を言う」


 それは、魂を塗り潰し、あらゆる魔を従える、救済の黒輝くろがね


 『黒己伏霊ジン・メラン』──・────。


 たとえ、讃える名が失われていたとしても。

 彼は、この世界を救った、最高の勇者にして、魔法使いだった。

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