そして、少女は恋をした
空に墜ちる。
魔王になったら、きっと今の自分は消える。なら、この死に方はもしかしたらすごく幸せなのかもしれないと、少女は思った。
結果に後悔がないと言えば嘘になる。だが、選択に悔いはなかった。
自分が死ねば、悪魔とリリアミラの計画は失敗する。魔王は、復活できなくなる。勇者は、人々の名前を取り戻せなくなる。
けれど、自分は、自分のまま死ぬことができる。
それはきっと、少女にとって最初で最後の、最高のわがままだった。
限られた時間の中で、彼といろいろなことをした。ご飯を食べて、かわいい服を着て街を歩いて、海にも入って、空まで飛んで。そのどれもが、最高に楽しかった。
でも、シャナは、アリアは、ムムは、リリアミラは、自分なんかよりも、もっともっと長い時間、彼と一緒に、彼の隣で冒険していたのだ。
ずるいな、と少女は思う。
だってそんなの、勝てるわけがない。
賢者は、勇者のことを愛していた。口では憎まれ口を叩いていても、彼のために尽くし、彼のために努力する。その姿に、自分とは比べ物にならないほどの、たくさんの愛を感じた。
いいな、と思う。
騎士は、勇者のことを愛していた。ずっと前から冒険を支え、彼のことを心から想いやり、彼の隣で屈託なく笑う。その姿に、自分とは比べ物にならないほどの、あたたかな愛を感じた。
うらやましいな、と思う。
武闘家は、勇者のことを愛していた。一人の弟子として勇者を導き、短い時間の中で少女にも多くのことを教えてくれた。その背中に、自分とは比べ物にならないほどの、決して変わらない愛を感じた。
すごいな、と思う。
死霊術師は、勇者のことを愛していた。在り方が歪んでいたとしても、彼を信じ、自分の想いを迷いなく貫き通そうとする。その姿に、自分とは比べ物にならないほどの、きれいな愛を感じた。
勝てないな、と思う。
そうだ。認めよう。認めなければならない。
少女は勇者に恋をして、でも彼の隣にはもうたくさんの愛があって。
自分は、彼女達に嫉妬していた。ほんの一月にも満たない時間、彼の隣にいただけなのに、一人前の女のように、嫉妬していたのだ。
彼女達と話す時だけは、勇者は少女の知らない顔になっていた。
彼らの愛は、名前が失われただけでは、絶対に揺らがない。
だから、妬いて、妬んで、欲しがって。なんて見苦しいんだろう。なんて浅ましいんだろう。なんて愚かなんだろう、と。自分で自分が、恥ずかしくなる。
でも、それが本当だった。それが本物の気持ちだった。
魔王になって消えるくらいなら、自分から消えることを選んで。
勇者の中に、自分の存在を刻みたかった。
彼は名前が聞こえないから。せめて、思い出だけになっても、彼の中に。
「バカだ、わたし」
漏れ出た声は、一瞬で風に溶けて消えていく。
でも、これで最後だ。これが最後だ。だから、少しくらいのわがままは許してほしい。
この気持ちが矛盾しているのはわかっている。
それでも。
自分以外の女の子が、彼の隣で幸せに笑う未来が、きっとあるはずだから。
その幸せを、祈りたい。
体を丸めて、目を閉じる。自分の身体を、自分で抱き締める。
風を切る音。空気を裂く音。
ただその音だけが満ちている、と思っていた。
「手を」
声が聞こえた。
「手を伸ばせ!」
大きな声が、はっきりと聞こえた。
「え」
無意識のうちに、手が伸びた。そんなに長く伸ばしたつもりはないのに、一瞬で掴まれて、引き寄せられた。最初に会った時よりも、その力はずっとずっと強かった。
目蓋を開くと、彼の顔があった。
「勇者、さん」
その名を呼ぶ。その名を呼んで、はじめて理解する。
どうして、この人が世界を救ったんだろうと、疑問に思った。どうしてこんなにやさしい人が呪いを受けて苦しまなきゃいけないんだろうと、やるせなかった。
違うのだ。
こんなところまで、自分を追いかけて、手を伸ばして、まだ強引に、この手を繋ごうとしてくれる。強いからじゃない。世界を救ったからじゃない。
だから、この人は勇者と呼ばれているのだ。
「おれは聞いたぞ!」
怒声が、吹きつける風を裂いた。
それは、少女がはじめて見る顔だった。とても怒った顔だった。
繋いだ手から伝わる熱が、冷めきっていたはずの心を引き戻す。
「覚えてるか!? 最初に会った時、きみは、なんて言った!?」
ああ、覚えている。忘れるわけがない。
「忘れたなんて、言わせない!」
その気迫に気圧されて、あの時と同じように。少女はそっと口を開いた。
「死にたく、ない……」
「今は!?」
「え」
「今はどうだ!?」
勇者は、少女に問う。
死にたくない、と。ただそれだけを、縋るように呟いていたあの頃から。
「おれと一緒に! 世界を見て! どう思った!?」
何を見て、何を感じて、少女の心の、何が変わったのかを、彼は問いかける。
「……ご飯が、美味しかったです」
「ああ! 美味かったな!」
食べることは、生きることだ。
たとえ心がくじけても、おいしいものを食べれば、嫌なことなんて忘れられる。ものを食べる、ということにはそういう力がある。
少女は、それを知った。
「また食おう! もっと食おう! もっともっと、世界中のおいしいものを食べに行こう!」
馬鹿みたいな提案に、けれど彼女は全力で頷く。
「きれいな服を着れて……うれしかったです」
「ああ! 赤髪ちゃんは美人だけど、かわいい服を着たらもっとかわいくなる!」
服を着ることは、心を飾ることだ。
着飾ることは、偽ることではない。自分をもっと好きになるための、人間の知恵と工夫。美しさの答えだ。
少女は、それを学んだ。
「いろんな服を着よう! おれだけじゃない! 騎士ちゃんや賢者ちゃんと一緒に、たくさんお洒落すればいい!」
ある意味男らしい、けれど一歩引いた提案に、彼女はくすりと笑う。
「……動物を、飼ってみたいです。大事に、育ててみたいです」
「ああ! なんでも飼おう! でも、世話はちゃんとしないとおれが怒るからな!」
命は、育むものだ。
人間だけではない。どんな生き物も、この世界で生きて、その生を謳歌する権利がある。
少女は、それを体験した。
「あと、命を大事にするなら、まず自分のことを大切にしないとな!」
「っ……はい」
身を以て、彼の隣で、教えてもらった。
掴まれた手の力は、まだ強い。もう離さない、というこの気持ちは、今だけは自分だけのものだ、と。
そう自惚れても、良いのだろうか?
「勇者さん」
「なんだ!?」
「お願いをしても、いいですか?」
「もちろん! おれにできることなら!」
「……わたしは、勇者さんと────」
二人の体が、雲を抜ける。
太陽が、眼下に広がる大地を、固く手を繋いだ青年と少女を、どこまでもどこまでも、鮮やかに照らし出す。
「────勇者さんと、冒険に行きたい!」
まだ見ぬ空を、まだ見ぬ大地を、まだ見ぬ世界を求めるその声は、輝きに満ちていた。
生きたい、と言っていた。
少女の、最も強いその叫びを聞いて。
勇者は、はじめて呆気に取られたように、目を丸くして。
少女は、そんな彼の表情がおかしくて。
全身で風を感じて、落ちていくまま、手を繋ぎ合ったまま、見詰め合って。
「……うん。一緒に行こう」
最後だけは、大声ではなく。
囁くように、勇者は約束をした。
彼は、少女のその華奢な体を、力いっぱい抱き締める。生きることを決意した、心臓の鼓動を、全身で感じて受け止める。
「行こう」
「はい」
大空の中で、この瞬間だけは、勇者と少女は二人きりだった。
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