その勇者、最強

「おはようございます」


 目覚めた少女が最初に見たのは、流れるような黒髪と、何かに期待するような甘ったるい笑みだった。

 腕を動かす。体を起こす。周りを見回す。


「無事に目が覚めたようだね」

「よかったよかった」


 男の子と女の子が、一人ずつ。手を繋いで、こちらを見ていた。なんとなく、それが人ではないことは、すぐにわかった。


「わたしは……」


 自分が誰なのか、わからなかった。

 知識はあって、脳は働く。体は動いて、不自由はない。

 ただ、自分が誰なのか、まったくわからなかった。闇の中で微睡んでいたら、唐突に光のあたる場所に引きずり出されたかのような。呼吸をしているのに、息ができないような、そんな矛盾した感覚だけが、体中を満たしていた。


「混乱していらっしゃるようです。やはり、失敗だったのでは?」

「ううん、成功だよ」

「魔王様の魂は、間違いなくここにある」

「不完全な形で蘇生されることは、わかりきっていたからね」

「では、どうするのです?」

「単純な話だよ」

「借り物の器に、不完全な中身。何もかも足りないけど、何もかも足りないなら、これから満たしていけばいい」


 会話の内容はこれっぽっちも理解できなかったけれど、自分のことを話しているのは、なんとなくわかった。

 手を繋いだまま、少年と少女は、恭しく頭を下げる。


「お目覚めを、心より嬉しく思います。わたしたちの王様」

「わたしが……王さま?」

「うん。あなたは、生まれながらにして王だったんだよ!」

「あの忌々しい勇者のせいで、あなたの記憶と力はなくなっちゃったけど……」

「わたしたちの言う通りにしてくれれば、必ず取り戻せるよ!」

「わたしは……その人に、殺されたんですか?」

「そうだよ!」

「勇者が、あなたから全てを奪ったんだ!」

「憎いよね! 悔しいよね!?」


 わからなかった。

 何もわからない。


「うんうん。わかるよ」

「起きたばかりで混乱しているよね」

「何か、欲しいものはある?」

「なんでも言ってよ! あなたの欲しいものなら、なんでもすぐに用意してあげる!」


 なんでもいい。

 自分がここにいることに、何か存在の証明がほしかった。


「名前」

「え?」


 水。食べ物。衣服。

 多分、そんなものを想像していたのであろう悪魔は、少女の呟きに首を傾げた。


「名前が……ほしいです」


 縋るように。少女は悪魔に、それを求めた。




「ダメだよ、魔王さま。そいつらは勇者の仲間なんだから、勝手に仲良くしちゃ」


 割って入った声と共に、少女の前にいた賢者の姿が、かき消されるように消失した。


「っ……シャナ!?」


 賢者が立っていた場所に、コップが落ちて砕ける。次の瞬間には、剣を構えようとしたアリアの姿も消えて、代わりに小さなティースプーンが落ちた。


「なんだよ。リリアミラ、やられてるじゃん。かっこ悪いなぁ」

「お前……!」


 あるいは、ムムが素の状態でそこに立っていたのならば、姿を現した悪魔に、すぐに対応できたかもしれない。だが、ムムの腕はリリアミラの胸の中に埋まっていて、それが結果的に彼女の初動と、俊敏な対応の妨げとなった。

 ムムとリリアミラがいた場所に、フォークが転げ落ちる。からん、と。無機質な音を響かせて、少女と悪魔は、その空間に二人きりになった。


「みなさんを……どこにやったんですか?」


 体の震えを堪えて、問う。


「外に捨てた」


 少年の皮を被った悪魔……ジェミニは、とてもつまらなそうに言った。


「ぼくたちの魔法……『哀矜懲双へメロザルド』は、。ちなみに、ぼくのかわいい片割れは今、船首のあたりで風を浴びているよ」


 少女は、絶句した。

 ジェミニの魔法は、その存在が二人であることで、はじめて真価を発揮する。船の中から、いきなり船首に、それも豪風が吹き荒れる空の中に放り出されて、助かる人間などいない。


「そんな……」

「……やっぱりダメだなぁ。ねぇ、魔王様。ぼくたちがどうして、魔王様を勇者さまのパーティーに近づけたか、ちゃんとわかってる?」


 呪いとは、術者の魂が色濃く反映された『残り続けること』を前提とした魔術。名前、という概念に干渉する強大な呪いを受けた勇者の体には、今もまだ色濃く魔王の残滓が眠っている。

 リリアミラの蘇生が不完全に終わった理由の、半分がそれだ。蘇った少女が赤子のように、別人のように、なんの記憶も持たない状態だったのも……勇者の中に、魔王が己の大半を遺していったからだった。少なくともジェミニは、そう仮定している。


「魔王様にはね。勇者との交流の中で、彼の中に眠る自分を見つけてほしかったんだ。だからぼくはがんばって、素敵な出会いをお膳立てしてあげたんだよ? でもきみはそうやって、勇者に対する余計な感情ばっかり育てちゃってさ」


 手の中のキューブを玩びながら、悪魔は心底がっかりした目で、少女を見ていた。


「やってられないよ。きみはいつになったら、ぼくたちの魔王様になってくれるのかな?」


 膝をついて、少女は崩れ落ちる。


「やっぱり、ぼくが強引に魔王様にしてあげるしかないのかな?」


 小さな手が、無邪気に少女に伸びて、そして……


「え」


 何かが、割れる音がした。


 悪魔が手を組んだ女に特別に用意させたその箱は、封印魔術が刻印された一種の監獄。小さな箱の中に作られた異空間に、対象を封じ込める……はずだった。


 男が、立っていた。


「お、お前……うそだ、どうやって」

「どうやって?」


 窮屈、だったのだろう。

 固くなった身体をほぐすように。世界を救った男は、首を鳴らして言った。


「ひたすら殴って、壊して出てきた」

「は?」

「だから、ひたすら殴って、壊して出てきた」


 手の皮が剥がれ落ち、血だらけになった拳を、勇者はそれでもなお、強く握りしめる。


 泣いている女の子がいる。笑っている悪魔がいる。

 そういう光景を、勇者はこれまで、飽きるほど見てきた。世界を救う過程で、数え切れないほど目に焼きつけてきた。


「おい、悪魔。お前、さっき一発殴ったよな?」


 そういう絶望を、勇者はこれまで飽きるほど壊してきた。

 だから、手の皮が剥がれ落ち、血だらけになった拳を、勇者はそれでもなお、強く強く握りしめる。


「まずは、一発だ」


 これからも、壊し続けるために。

 少年の姿をしたバケモノの顔面に、拳が突き刺さった。

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