武闘家さんの昔話

「師父、修行したまま、寝ないで」

「ははっ! すまんな! 疲れておったのだ!」

「せめて、体は拭いて。臭い」

「なにぃ!? わしは臭うか!?」

「うん」

「むぅ……!」


 師父は、本当に馬鹿な武道家だった。

 起きては拳を振るい、食べては拳を振るい、寝て起きてはまた拳を振るう。


「お前は本当に小さいな、ムム! もっと飯を食え!」

「昔から、食べてる」

「量が足りないのだ!」

「でも、わたし……ずっと、大きくならない」


 歳を取らない。

 5年ほど暮らして、ついに師父はムムの体の異常……『魔法』に気がついた。気づくのが遅すぎてあまりにも鈍いと思ったが、もしかしたら彼はわざと気づかないふりをしていたのかもしれない。


「ふん! ならば、わしが治してやる!」

「え?」


 病の一種だと、思ったのだろう。あれほど強くなることに執着していた男が、修行を投げ捨てて、医者を訪ねるようになった。武道大会に出ては賞金を得て、戦争に兵士として参加しては地位は望まず金だけを望んだ。そうして得た資産の全てをムムに注ぎ込み、治療に当てた。

 医者は匙を投げた。

 魔導師は首を振った。

 あやしげな呪詛師は絶対に治ると言いながら高額な治療代を請求してきたので、師父が殴り飛ばした。

 また10年くらい時間が過ぎて、あれだけ若々しく、精力に満ち溢れていた男の髪に、白いものが目立つようになった。


「すまない、ムム……わしは」

「いい。大丈夫。自分の体。自分が、一番よくわかってる」

「だが、だが……わしは、お前の嫁入り姿を、楽しみにしていたのだぞっ!」

「……は?」


 師父は、やはり馬鹿だった。


「お前が良い男に嫁ぎ、良き幸せを掴み、子どもを育み……そしてあわよくば、お前によく似たかわいい孫に我が流派を継いでもらおうと! わしはそれだけを楽しみにしていたというのに!」

「師父、そんなこと考えてたの?」

「そんなこととはなんだ!? お前はせっかくそんなにきれいな顔をしているというのに、いつまでもちんちくりんな体では、嫁の貰い手が来ないではないか!?」

「うるさい」

「脛を殴るな!?」


 馬鹿親父の足を、習った武術でげしげしと殴ってから、ムムは言った。


「いい。わたしはどこにも行かない」

「なに?」

「師父がいれば、それで良い」

「ムム……!」


 そうして、また20年ほどを2人だけで過ごして。


 あっという間に、師父の寿命がきた。

 ムムは、彼の布団の横に座って、硬くゴツゴツとした手を、ずっと握っていた。何日も何日も、ずっと握っていた。


「すまないな、ムム。先に逝くぞ」

「気にしなくていい。師父、とっても長生きだった。わたしが、へんなだけ」


 そう。これが普通なのだ、と。ムムは思った。

 生まれて、生きて、老いて、人は死ぬ。

 自分が、おかしいだけなのだ。


「変、か。己を卑下するな。お前は立派に、わしの隣で武の道に励み続けた。わしはそれが、なによりも誇らしい」

「でも、わたし。まだ師父より弱い」


 事実を言うと、死にかけの男は何故か嬉しそうに笑った。


「くくっ……ははっ! そうだな、お前はまだ、わしより弱い!」

「うん」

「だが、

「うん」

「故に……ムムよ。お前は、その拳を磨き続けろ」

「師父が死んでも?」

「ああ。わしが死んでも、だ」


 その笑顔は、死に際の老人とはとても思えないほどに、強く温かな輝きに満ち満ちていた。


「お前の体は小さく、お前の体は弱い。だが、だからこそ……お前には、どこまでも許された時間がある」


 それはどんな武道家が望んでも叶わない、最上の願いなのだと、師父は語った。


「でも、師父が死んだら、わたしは、師父より強くなったかわからない」

「……」

「師父が死んだら、わたしはさびしい」


 死にかけの男は、最後の力を振り絞って体を起こした。左手は、ムムと手を繋いでいる。だから彼は、布団の中から右手を出して、持ち上げた。


「すまない」


 その腕を見る。

 自分は全然変わらないのに。あの頃と比べると、随分と肉が落ちて、細くなった。

 その手を見る。

 武の頂きを極めるために。あれだけ堅く握り締められていた男の拳が、やさしく花開いた。

 72年間。一緒に生きてきて、はじめて頭を撫でられた瞬間だった。


「ムム」

「なに?」

「愛している」


 師父から贈られた最期の言葉は、武道家の言葉ではなかった。


 ムムは、師父の手を離した。師父は、ムムから手を離した。


 そうして、ムムを愛してくれた男は死んだ。


 また一人になった。

 愛している、というその言葉の意味を、彼が生きている間に知りたかった。

 魔法の力で、涙は止まらなかった。

 泣いて、泣いて、泣き続けて。

 ただ、自分の頭を撫でてくれた彼の拳は、絶対に継がなければならないと思った。


 ムムの、次の100年が始まる。


 拳を振るう。

 研鑽を積み重ねる。

 拳を振るう。

 研鑽を積み重ねる。

 拳を振るう。

 研鑽を積み重ねる。


 また100年。さらに100年。続けて100年。


 自分の体は変わらない。絶対に年を取らず、成長しない。だから、技を磨き続けるしかない。否、技を磨き続けることを、ムムは師父に望まれた。

 あの拳に追いつくために、ただ拳を振るい続ける。

 磨いて、磨いて、ただひたすらに、磨き続けて。


 その拳が洗練されていく度に、ムム・ルセッタの心は、少しずつ擦り切れていった。


 技を磨くのは良い。自分の武が前に進んでいることは、疑いようもない。そこに、疑念はない。

 ただ、純粋な恐怖が在った。

 このまま拳を握り続けて、強くなって、彼が目指した武の頂きに、辿り着いたとして。


 一体、その先には何があるのだろう? 

 誰が、自分を認めてくれるのだろう? 


 違法な武闘会に参加するようになった。何でもいい。ただ、強さの証明が欲しかった。

 相手を倒せば、少しだけ心が満たされた。相手を殴り倒せば、少しだけ心が軽くなった。


 そうやって、戦って、戦って、戦って。


「すごいですね。あなたの拳」


 ある日。


「おれに、教えてくれませんか?」


 ムム・ルセッタは、勇者と呼ばれることになる少年に出会った。





 おれは、深く息を吐いた。


「やっぱりいたなぁ……それも、うじゃうじゃと」


 予想通りというべきか。本当はこういう予想は当たってほしくなかったのだが……戻る途中に、やはりかち合ってしまった。

 ゴーレムが、ざっと数えて10体。明らかにおれたちを探すように、群れで移動していた。サイズは人間より少し大きいくらいの小ぶりな感じで、師匠が倒したヤツよりも弱そうに見えるが……それぞれの魔力量は、あのバカデカいやつよりも、大きい。


「師匠の魔法を見極めて、小型に切り替えた……切り替えて、差し向けたヤツがいる、ってことだよな」


 さっきは、本当に不覚をとった。

 師匠が助けてくれなければ、赤髪ちゃんは危なかった。おれのミスだ。バカでアホな、おれの油断だ。師匠に怒られてしまう。


 世界を救ったのに、女の子一人を助けられないなんて、勇者失格だからだ。


「よし、やるか」


 ここまで走ってきたので、汗をかいた髪をかきあげる。何本か、髪が指にまきついた。そういえば、最近髪を切っていなかった。この面倒事が片付いたら、ぜひとも散髪に行きたいところだ。女の子の長い髪はきれいだけど、男が長くても気色悪いだけだし。


「そういや、髪の手入れを怠るとハゲるって、賢者ちゃんも言ってたなぁ……」


 おれは絶対にハゲたくない。

 指に絡みついた、赤髪ちゃんとは似ても似つかない、を地面に捨てる。


 拳を、握り締める。


 勘を取り戻すには、ちょうどいい相手だ。ひさびさに、本気でやろう。

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