その賢者、最強

 夜。

 宿に帰る勇者を見送ってから、シャナは光が落ち始めた街の中を、一人で歩いていた。

 あの赤髪の少女に必要なものは、一通り用立てたつもりだし、魔導陣の用意も完璧だ。なにもなければ、明日の朝には出発できるだろう。


 そう、なにもなければ。


 わざと人気のない路地に入り、立ち止まる。


「さて、そろそろ出てきてくれませんか?」


 空間へ向けた問いかけに、返答があった。

 夜の闇に溶け込んだ影の中から、音もなく。シャナの二倍はあろうかという体躯が浮上する。

 狭苦しい道を全て塞いでしまいそうなサイズの、漆黒の翼。赤褐色の、鋭い爪。総じて、明らかに人ではない、人外の威容。


「いつから気づいていた?」


 牙を生やした口から発せられる、驚くほど滑らかな人の言葉。


「悪魔ですか。それも、上級の。ひさしぶりにみましたよ」


 モンスター、と呼ばれる人に害を成す存在の多くは、この世界の生態系に組み込まれた生き物だが……いくつかの例外は存在する。

 人語を理解し、巧みに人間を誘惑し、闇の中に落とす魔の眷属。

 これを、人は『悪魔』と呼ぶ。


「質問に答えてもらおう」

「もちろん、最初から気づいていましたよ。わたしを誰だと思っているんですか?」

「世界を救ったあの勇者と肩を並べた賢者、と聞き及んでいる」

「それだけですか。まあ、いいですけど」


 異形の悪魔に向けて、にこり、と。シャナは気安い笑みを向けた。


「あの記憶喪失の女の子について、何かご存知だったりします?」

「知っていても、貴様に教える義理はない」

「そうですか。じゃあ、さよなら」


 モンスターならば、調教してペットにできる。そもそも、偶然出会ったところで牙を剥いてこないのなら、無理に殺す必要はない。

 だが、悪魔は最初から、人の敵。害にしかならない存在だ。

 言葉とは、相手とコミュニケーションを取るためのもの。コミュニケーションを取る必要のない存在と、言葉を交わす必要はない。


 故に、速やかに殺す。


 最速、最短。悪魔の足元に展開された攻撃用の魔導陣は、眩い光を放ち、


「え」


 止まった。

 魔術を撃ち放つための魔導陣が、作動しない。

 賢者は、己の影を見た。そこにあったのは、深い闇に紛れて貼り付けられた、見たことのない紋様の呪符。


(まさか、魔術封じのっ……!?)


 高いヒールが、石畳を蹴る。華奢な身体が、後ろに向かって飛び退る。

 判断の早い、回避行動。

 しかし、それはどこまでいっても、近接戦の不得手な、魔導師の動きでしかない。


「遅い」


 悪魔は、人間と契約し、闇の中にその存在を落とすために、言葉を学ぶ。

 だが、人間はそもそも悪魔の餌。格下の、塵芥のような存在だ。

 最初から殺すことを決めていたゴミと、言葉を交わす必要はない。


「……ぁ」


 原始的な爪が華奢な身体を貫き通し、そのまま二つに裂いた。





 それは昔の話。賢者が、まだ何も知らない少女であった頃の話。

 生きているだけで、この世界は地獄だった。

 人との間に生まれたというだけで、シャナはエルフの村で迫害された。苗字はない。元より、エルフという種族には名前以外に家名を戴く文化はなかったが、人間の父親に認知されなかったシャナは、自分の苗字すら知らぬまま育った。

 名前だけではない。母親は、シャナを生んですぐに死んだ。どんな人かも知らなかった。せめて、どんな女性であったか知ることができたなら、恨みようもあったのかもしれない。しかし、顔も性格も知らない母を、恨むことはできなかった。

 シャナの耳はエルフの特徴をたしかに受け継いでいたが、それ以外は人間の身体そのものと言っていいほどに、彼女の身体はエルフ族の中で平凡だった。羽根はなく、空を飛べず、同族に馴染めない少女を、エルフの里は容赦なく排斥した。

 シャナが母親をなくした『ただのエルフ』であったなら、里の人間はその境遇に同情し、優しく教え導いただろう。


 しかし、シャナは特別なハーフエルフだった。


 自分とは違う存在に、共感はできない。同情もない。ただ、理解できない存在は気持ち悪いだけだ。

 だから、村に訪れたその少年は、シャナにとってはじめて出会う、自分に近しい存在だった。


「きみは、エルフじゃないのか……」


 面と向かって、少年は言った。


「この村は、好きか?」


 面と向かって、シャナは首を横に振った。


「じゃあ、一緒に行こう」


 それ以上は何も聞かずに、少年はシャナに手を差し伸べた。

 理由はない。事情もない。たった一つの質問と答えだけで、少年はシャナを連れ出すことを選択した。


「あー、でもちょっとお願いがあるんだ」


 少年は、少しだけ悩む素振りを見せて、シャナに言った。


「おれ、これから世界を救うために魔王を倒しに行くんだけど……手伝ってくれる?」


 シャナには、そもそも世界が何かわからなかった。

 シャナには、魔王がどれほどおそろしい存在なのか理解できなかった。

 しかし、目の前の少年が救いたいものは救いたいと思ったし、倒したいと思ったものは、倒さなければならないと確信した。

 シャナにとって、手を差し伸べてくれた少年が、はじめて知る世界の全てだった。


 だから、


「あの、私……いっこだけ、特別な魔法が使えます」


 気持ち悪い自分の力も、役に立てるかもしれないと思った。







「魔術を封じられた魔導師ほど、脆いものはないな」


 目の前の死体を見て、悪魔は嘲笑う。

 これが騎士であれば、魔術を封じられても剣で立ち向かうという選択肢もあっただろう。悪魔が切り札として用意しておいた『魔術封じの呪符』は、あくまでも魔力の放出と特性を封じるもので、魔力そのものを封じるものではない。つまり、魔導師殺しに特化した代物だった。

 魔力による身体強化を基本とする騎士ならば、あるいは肉弾戦で、悪魔に一矢報いることもできたかもしれない。

 とはいえ、死体を前に可能性を考えることは、ただの時間の無駄だ。


「なにが最強。なにが無敗のパーティーか。王国最強の賢者がこの程度の実力なら、勇者も底が知れるな」



「────そう言われても、魔術が封じられたら私は非力な女の子なんですよねぇ」


 声が、背後から聞こえた。

 ほとんど反射で、悪魔はその場から飛び退いた。瞬時に翼を広げ、爪を構えて、振り返る。


「オマエ……これは、どういうことだ」

「どうもこうも、見ての通りですが?」


 悪魔は、死体を確認した。ソレは、たしかに死んでいる。

 悪魔は、前方を確認した。そこには、たしかに王国最強と呼ばれる賢者がいた。

 物言わぬ死体となった少女と、悠然と言葉を紡ぐ賢者。今、悪魔の前には、2人の賢者がいる。

 ありえない。そんなことは、絶対にありえるはずがないのに。


「私は、世界を救った賢者ですよ。一度殺した程度で、死ぬわけがないでしょう?」


 賢者は。シャナ・グランプレは、笑顔だった。

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