その賢者、メスガキ

 王国の中枢には、魔術の全てを解き明かした賢者がいる。

 魔王討伐からたった半年で、そんな噂が辺境の地まで届くようになったことが、彼女の才能を何よりも雄弁に証明していた。


 魔術分野における、万能の天才。


 勇者パーティーの一員であった彼女は冒険が終わった後、宮廷魔導師として王に直接仕えることを望んだ。本来、宮廷魔導師という存在は、魔術の道を志した者が自身の一生を賭けて得ることを望む称号である。しかし、若き賢者はたった17年という時間で、魔王討伐という実績を引っ提げて、その頂きに手をかけた。


 天才が、それに相応しい地位と権力を得た。ならば、あとは駆け上がるだけである。


 これまで魔王討伐に向けられていた彼女の情熱は、魔術の関連学問の発展と後進の育成に注ぎ込まれ……その結果、魔術の歴史は彼女の存在だけで10年の発展を遂げたと言われるまでに至った。

 王城に宮廷魔導師として籍を置く彼女の名目上の役職は相談役だったが、実際は首都の学院に赴いて、教鞭を取る機会の方が圧倒的に多かった。当初はその特殊な出自も相まって、貴族や騎士達から警戒の目で見られていたものの、後進の育成に心血を注ぐ彼女の姿と実績に、それらの非難の声はすぐにかき消えた。


 もちろん、理由はある。


「まだご自分の立場が理解できていないようですね、騎士団長」


 若き賢者は、宮廷内の政争にも、全力で臨んでいたからだ。


「くっ……殺せ」


 人目につかない暗い部屋の中で、甲冑を纏った大の男が、這いつくばって床を舐めていた。白銀の鎧にあしらわれたぎらついた金の装飾と、きらびやかな勲章の数々が、彼が王国内で高い地位についていることを物語っている。事実、彼は王国の主力を担う長の一人、騎士団長であった。


「殺しませんよ。あなたを殺したところで、私に何の得があるというんです?」


 その頭を、踵で踏みつけにしている少女がいた。

 部屋の闇に溶け込むような黒のローブには、騎士団長と同じく金の刺繍がなされていたが、彼女が纏うそれには不思議な気品がある。フードを目深に被っているせいで、顔の大半は隠れていた。しかし、こぼれ出る銀の長髪は、ろうそくの光を受けて怪しく輝いている。

 おそろしいほどの美貌を、フードの中に隠して。少女はあやしく笑いながら、騎士団長の頭をなおも踏みつけにした。


「古臭い純血派の騎士団が魔術学院を目の敵にしている、というのは王国に来る前から知識として知っていましたが……しかしよくもまぁ、飽きもせずにかわいらしい嫌がらせを繰り返せたものです」

「……シャナ・グランプレ」


 苦々しげに、騎士団長は声を吐き出した。

 それが、賢者と呼ばれる少女の名である。


「何が、何が賢者だ……忌々しい、この魔女め!」

「やだ、魔女だなんて……そんなに褒めないでください。胸がむず痒くなります」

「ほざけ! 私は貴様の本性を、既に見抜いているぞ!」

「私の、本性?」

「ああ、そうだ! 言ってみろ! その腹の中に隠したどす黒い本性を! 曝け出してみろ! お前は、王国に相応しくない!」

「ふぅん? では、正直に言わせてもらいますね」


 賢者、シャナは開いた手のひらを口元に当て、その白い肌とはどこまでも対称的な朱色の唇で三日月を描いた。




「ざぁーこ♡」




 騎士団長は、絶句した。


「ふふっ……ねぇねぇ。王国を守護する騎士様が、貴族に唆されて、慣れない駆け引きをして、それをすぐに看破されて、年端もいかない少女に踏み躙られて……今、どんな気持ち? どんな気持ちで、その口は言葉を吐いているんですか? 一つ、若輩者な私に教えてくださいな?」

「きっ……貴様ッ……!」

「だから教えてくださいよ」

「ぐぎっ……?」


 みしり、と。既に指一本すら動かせない騎士団長の身体に、重圧がかかる。

 シャナは表情を変えぬまま、机の上に置いてあった紙に手を取った。


「まあ、証拠はいくらでもあります。というか、証拠がなければいくらわたしでも、王国に五人しかいない騎士団長さまを、こんな風に足蹴にはできませんし」


 彼が裏で行ってきた不正の数々。せめて、証拠を記したその紙を奪い取ろうと、騎士団長は必死で手を伸ばす。


「ぐっ」

「へえ。意外と根性はありますね。いや、単細胞な分、腕力だけはある、というべきでしょうか?」


 遂に、床に貼り付いていた右腕が動いた。意地と根性で動いたその手に免じてか、シャナは奪い取られた紙をあっさりと手放した。


「貴様なんぞに……貴様なんぞに、私が積み上げてきた誇りを奪われてたまるかっ!」


 ぐしゃり、と。紙が握り潰される音が鳴る。

 だが、シャナはやはり表情を変えなかった。むしろ、さらに嗜虐的な笑みを濃くして、手のひらを広げた。


「……積み上げてきたぁ? こんな感じに、ですか?」


 白い、紙吹雪だった。

 騎士団長は唖然として、室内に舞い散るそれを見る。自分がたった今、奪い取ったものとまったく同じ内容を記したものが、部屋の中を埋め尽くすように広がった。ローブの中に隠していたわけではない。空間転移で、手元に引き寄せたわけでもない。本当に唐突に、目の前で紙が増えたのだ。


「なん……っ」

「よかったですね。これだけあれば、王国内にバラ撒くのに困りませんよ」

「やめっ……やめてくれ。そ、それだけは……なんでも、なんでもするから、だから……」


 彼女のやろうとしていることを理解して、騎士団長は遂に自ら頭を床に擦りつけた。

 殺されるだけなら、いい。だが、曲がりなりにも王国を守護する騎士団の中で、トップの一人に位置する地位を得た彼にとって、殺されずに罪を暴かれ、全てを奪われることは何よりも屈辱だった。


 生きて、辱められる。


 その恐怖は、死よりも重い。







「おっす! 賢者ちゃん、ひさしぶり! 元気してたか!?」


 扉が、開いた。

 それはもう、唐突に。


「……」

「……」


 世界を救った勇者は。

 ひさしぶりに会うパーティーの頭脳担当が、大の大人の頭を踏みつけ、ニコニコと楽しそうに笑っている様子を、じっくりと眺めた。


「……」

「……」

「あの、勇者さん? どうかしました?」

「だめだ。まだ純粋なきみはこれを見てはいけない」


 背後から響いた少女の声に毅然とした声でそう告げてから、世界を救った男は、シャナと騎士団長をさらにじっくりと観察し……ようやく納得がいった様子で、手のひらを叩いた。

 やたら生温かい目で、こちらを見詰めて。


「……ごめんな。そういう特殊なプレイの途中だったんだな。邪魔してすまん。また後で来る」

「あっ、ちょっとま……」


 扉が閉まる。

 沈黙と紙の束が、室内に残った。



「……ふ、ふぅぅう……」



 ぷるぷる、と小柄な体が震える。

 賢者と呼ばれた少女の目に。

 騎士を弄ぶ魔女の碧色の瞳に。

 大粒の涙が浮かび上がった。



「……勇者さんに、勘違いされた」

「え」

「……あなたのせいで」

「おい、ちょっとまて。それは冤罪……」


 3秒くらい遅れて、騎士団長の絶叫が響き渡った。

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