その少女、記憶喪失
森に入れば、逃げ切れるかもしれない。
少女は、そんな自分の考えが甘いものであったことを痛感していた。乗りなれない馬に、相手は複数。視界の開けた荒野で、逃げ切れるわけがない。
体を預ける馬の息遣いが、少しずつ。けれど確実に、荒くなっていくのがわかる。
「ごめん、ごめんね……でも、お願い。もう少しだけ、がんばって」
か細い声に、ここまで駆けてくれた雄馬は任せろと言わんばかりに鼻息を震わせたが、限界が近い事実は変わらなかった。
スピードが落ちたところに、左右を挟まれる。三人の追手の内、一人は弓を構え、二人は剣を引き抜いた。もはや彼らに自分を捕まえようとする気は欠片もなく、ただ命を奪おうとしていることは武器を構えるその動作で明白だった。
手綱を握る手が震える。
唇が、自然に言葉を発した。
「……死にたく、ない」
少女は、自分の命を奪おうとしている相手に、それを言ったわけではない。
最初から、返事は期待していなかった。ただ、言わずにはいられなかった。
「わかった」
だから、不意に降ってきた返答は、幻のようで。
まず最初に、真後ろで弓を構えていた一人が、吹き飛んだ。
「は?」
間抜けな声は、少女ではなく、追手のもの。
無理もない。突然、隣を並走していた仲間が、跨っていた馬を残して消えたのだ。驚くな、という方が無理な話である。
せめて、何か意味のある言葉を発しようとした二人目の覆面は、しかし何も言うことができなかった。口を動かす前に、その顔面に拳が叩き込まれたからだ。
また落馬する仲間を、ぽかんと眺めて。そこでようやく、最後の一人は追う側である自分達が、何者かの襲撃を受けていることを認識した。
馬の上に、人が立っている。
地味な色のかざらないシャツに、動きやすそうな麻のズボン。騎士ではない。魔術士でもない。ただの村人にしか見えないその服装を見て、最後の一人は警戒心をより一層強めた。
仲間を馬上から引きずり下ろした、異常な挙動。尋常ならざる膂力。殺さなければ、こちらの命に関わる。
何者だ、と。問いかけることすらせずに、彼は剣を振り上げた。
一撃で、確実に首を落とせるように。背後から斬撃を浴びせた。
最後の一人の対応は、全て正確で正解だった。その結果、白銀の剣は真っ二つに叩き折られ、錐揉みするように回転しながら、彼は仲間と同じ末路を辿った。
「え……?」
ようやく、少女は声を発した。
「大丈夫?」
優しいその声に安心して、緊張で張り詰めていた意識の糸が、ぷつんと切れた。
女の子を拾ってしまった。さて、どうしよう。
「美人さんだ〜」
「きれいな人だね」
うむ。たしかにかわいい。子ども達から見たら美人のお姉さんなんだろうけど、あどけない顔立ちは美人というよりもかわいいと言ったほうがしっくりくる。
そのわりに、胸が結構大きい。けしからんサイズ……ではなく、グッドなサイズだ。
しかし、なによりも目を惹くのは炎のように鮮やかな色の赤髪だろう。背中まである長髪は逃避行で汚れていたが、それでも燃える炎のような気品を漂わせていた。
「ん……」
あ、起きた。
瞳も髪と同じ色なんだな。つくづくめずらしい。
「あれ、わたし……」
「お姉ちゃん、起きた!」
「おはよう! お姉ちゃん!」
「え、えっと……?」
「お姉ちゃん、勇者さまが助けてくれたんだよ!」
子ども達にわちゃわちゃと絡まれて、困惑した視線がこちらに向く。本当に、綺麗な朱色の瞳である。
「追手はおれが倒したよ。安心して」
「じゃあ、あなたがわたしを、助けてくださったんですか……?」
「そういうことになるかな」
「あ、ありがとうございます!」
「いいよいいよ。そんなかしこまらないで。はい、お水飲んで」
「あ、はい」
「ほい、手拭いどうぞ。顔拭ける?」
「は、はい!」
お水を飲んで、顔を拭いて、赤髪ちゃんはようやく落ち着いたらしい。ふう、と息を吐くと、少し頬に色が戻ってきた。
「気がついたばかりで悪いんだけど、あんな物騒なヤツらに追われていた事情を聞かせてもらってもいいかな? 騎士団の詰め所に連れて行くにしても、おれも事情を把握しておいた方がいいだろうし」
「それが……わたし、なにも覚えていないんです」
へ?
「なにも覚えていないっていうのは、つまり……?」
「はい。ここがどこなのか。今が何日の何年なのか。自分が誰なのか。そういうことを、まったく覚えていないんです」
マジか、と。言いそうになったのを、ぐっと堪える。
「ということはもしかして、自分が追われてた理由もわからないってことかな?」
「ご、ごめんなさい。わたし、気がついたら捕まっていて……なんとか馬を奪って逃げ出してきたんです。もちろん、わたしが逃げたから、あの人たちは追ってきたんだと思うんですけど」
いや、まいったな。
どうやらおれは、想像以上になにやらわけありな女の子を拾ってしまったらしい。
しばらく俯いていた彼女は、けれど急に何かを思い出したように、顔をあげた。
「あ、でも、まってください! わたし、名前だけは! 自分の名前だけは覚えてます!」
ああ、うん。こまった。
名前だけは、覚えている。
それは……ますます最悪だ。
「わたしの名前は『 』です!」
おれは、それを聞き取ることができない。
「ダメだよお姉ちゃん!」
「勇者様に名前を言ってもわからないよ!」
「え?」
本当に、最悪だ。
「だって勇者様、自分の名前も人の名前も、聞こえないし、言えないもん!」
「そういう呪いにかかってるんだって!」
子ども達に言われて、少女の顔が固まった。
「……名前が、聞こえない?」
「いや、なんというか、この子たちが言った通りの意味なんだけど。おれ、きみの名前を聞き取ることができないし、自分の名前も言うことができないんだよね」
ええ、まぁ、はい。そういうことなんです。
子ども達の言う通り、おれは人の名前を認識できない呪いにかかっている。魔王を倒した時に、ヤツから置き土産として浴びてしまった。
それは、一緒に冒険してきた大切な仲間を……役職でしか呼べなくなるほどに強力なもので。
だから今のおれは、そこそこ付き合いが長くて、仲の良いこの子ども達の名前すら口にすることができない。ついでに、自分の名前も覚えていないし、発音することすらできないのだ。
少女の顔が、愕然と冷たくなる。
無理もない。広い世界にたった一人で放り出されて、ただ一つ。覚えているものが自分の名前だったのに、よりにもよってそれを聞くことすらできない男に助けられたのだから。
「……そんなわけで、おれはきみの名前も自分の名前もわからないんだけど」
極めて情けない自己申告をしながら。
それでも、目の前で座り込んで、困りきった表情のまま俯いている女の子を放っておくことはできない。
まず、彼女に立ち上がってもらうために、おれは手を差し伸べた。
「だからとりあえず、おれのことは『勇者』って呼んでほしい」
自分の名前しか覚えていない、記憶喪失の少女が一人。
魔王が遺した呪いにかかった、言語障害の勇者が一人。
彼女が覚えているのは自分の名前だけで、それが唯一の手がかり。
……うん。
これ、普通に詰んだのでは?
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