8.王妃の部屋

 アルケイルは薔薇の香りがする紅茶を一口飲むと、その芳醇な香りに微笑んだ。


「流石はミルレージュ男爵家自慢の薔薇で作ったお茶だ。とても美味しいよ」

「ありがとうございます、陛下」


 賛辞を受け止めたアリセは、相手の前に皿に載せた焼き菓子を差し出した。薔薇のジャムをたっぷり使ったスコーンは、少し冷めてしまっているが、それゆえに香りが上品に漂う。


「突然いらっしゃるので驚きました」

「此処が一番、人目を避けられる」


 そう言うアルケイルの傍らで、ゾーイは同じテーブルに腰を下ろしながらも、どこか落ち着きなく部屋の中を見回していた。

 その部屋の存在自体は知っていた。何のための部屋かも。しかし、中に入ることは許されていなかった。


「安心しなよ、ゾーイ」


 そんな様子を見たアルケイルが紅茶を片手に笑う。


「王妃の部屋は、例え宰相でも手出し出来ない」


 かつてアルケイルの母、つまりは前王の妃が使っていた部屋は、今はアリセのものになっていた。

 本来は婚姻を済ませるまで使うことは出来ないが、アリセの父親である男爵が掛け合ったことにより例外的に許可されている。男爵の言い分としては、娘が城の生活に慣れるように礼儀作法を仕込んでもらいたい、ということだったが、城にいる誰一人とてそれを鵜呑みにはしていないだろう。


「しかし、陛下はともかくとして俺は入ることを許されないのでは?」

「リィがアリセに用事があったことにすればいい。急用で来れなくなったことを伝えに来た、とかさ」

「なるほど」

「それに、幼馴染に裏切られて傷心の王が駆け込む先としては最適だ」


 それを聞いて反応を示したのは、ゾーイではなくアリセだった。


「リアン様が宰相様に陥れられた、と仰いましたね」

「うん」

「助け出すために、陛下はゾー……、失礼、リアン様の従者とこちらに来たと」


 アリセは美しい琥珀色の目でゾーイを見た。敬称を付けるかどうか悩み、結局当たり障りのない表現に留めたようだった。


「そのような話を私に聞かせてよろしいのですか?」

「うーん……そうだねぇ。本当はあまり良い手ではないかもしれないけど」


 あっさりと認めながら、アルケイルはカップをテーブルに置く。


「この城で、僕が味方に出来る人間はアリセしかいないんだ」

「それは、私に手を貸せということでしょうか」


 不安そうに、というよりは驚いた顔でアリセが尋ねる。アルケイルはそれに即座に肯定を返した。

 思いもよらぬ言葉に、アリセは目と口を同時に大きく開いたが、慌てて口元だけは手で隠した。


「頭と手の数は多いほうがいい。僕とゾーイだけじゃ、宰相には及ばないだろうから」

「失敗したらどうするのですか?」


 アリセが語気を強めて問う。


「リアン様を助けるという志は結構ですわ。でも失敗したら、陛下のお立場はなくなり、私の生家であるミルレージュ家にも影響が及びます」

「嫌なの?」

「嫌とか、そんな子供じみた話ではありません。リアン様一人の命と陛下の立場、どちらが大事かなど比べ物にもならないでしょう」


 少し言葉が過ぎた事に気付いたのか、アリセは美しい顔を少し歪めるようにして口を閉ざす。気まずい沈黙の中を薔薇の香りが満たしていく。

 アルケイルは紅茶をまた一口飲んでから、スコーンを手に取って口へ運んだ。


「そう言うと思った」


 スコーンの表面に歯を立てて、少し乱暴に食いちぎる。アルケイルの意識は今、自分の頭の中に向いてしまっていて、そのために多少の礼儀作法というものは指の先から抜け落ちてしまっているようだった。


「確かに僕の立場は大事だよ。でもその立場って何? 王家に生まれた第一王子が、成長の過程で得た立場のこと?」

「それは勿論……」

「つまり僕じゃなくてもいいってことだよね」


 零れたスコーンの欠片を払うこともせずに、アルケイルは続けた。


「僕はシンドラ三世として、僕にしか出来ないことをする。それが本当の意味で立場を守るということだ」

「……失敗を恐れないということですか」

「失敗は怖いよ。でもそうならないためにアリセに頼んでいるんだ」


 紅茶の湯気が揺れる。アリセが溜息をついたためだった。薔薇の香りに満たされた中で、アリセの憂いを帯びた表情はあまりに美しかった。


「私が手伝わなくても、陛下は止める気はないのですね」

「うん」

「そうなれば失敗する確率は大きくなる。そうならないためには私が手伝うしかない」

「そういうことだね」

「まるでリアン様の手口ですわ」


 その的確な評価にアルケイルは可笑しそうに笑った。


「幼馴染だからね。似てしまうところはあるさ」

「……陛下は変わりました」

「今までの方がよかった?」

「いいえ」


 アリセは諦めたように言って、大きなため息を吐いた。

 それを補うように紅茶を一口飲み、少しの間黙り込む。その表情は美しさを振りまく薔薇の花弁ではなく、その身を守る鋭い棘のようだった。


「リアン様は仰いました。陛下を支える王妃に相応しいのは私であると。ならばそれに応えるべきでしょう」

「ありがとう」

「正直、私はリアン様が苦手です。こうして私が陛下に協力することすら、あの方は想定しているかもしれない。あるいは断った先ですらも」


 テーブルにカップを置いたアリセは、対する二人を交互に見た。


「リアン様を助け出すには、その嫌疑を晴らす必要があります。要するに、陛下の命を狙ったという疑いのことです」

「うん。考え付くのは誰かにその罪を着せることだろうけど、該当しそうな人間はゾーイか伯爵ぐらいだ。リィはどちらも良しとしない」

「えぇ、ですから疑いそのものが捏造であると、それを証明すればいいのです。そうすれば今度は誰がその捏造をしたのか、ということになります」


 カップの表面を撫でながら、アリセは言葉を続ける。視線はその水面に注がれ、そこに何か映し出されるのを見ているかのようだった。


「私は賢くはございません。しかし、殿方との駆け引きについては少々自信がございます。相手の求める物を、少し足らない形で提示する。これが駆け引きの要です」

「少し足らない、ですか」


 ゾーイが聞き返すと、アリセは形の良い顎を引いた。

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