4.切り捨てるべき一つ
「何をしにだと? それは私の台詞だ、この馬鹿娘が」
不機嫌を隠しもせず、冷たい声でリヴァンスが返す。部屋の空気が更に冷たくなっていく気がして、リアンは扇を口元に寄せた。
「シンクロスト伯爵、どうして此処に」
アルケイルが驚いた声を出した。視線はバルトロスの方を向いているが、いつもより首を上に傾けているのは、立っているリヴァンスに視線を合わせるためだろうとリアンは考える。
「ご無沙汰しております、我が王。本来、此処に入るべき身分ではありませんが、宰相のお許しにより参上いたしました。何より、これ以上身内の恥をさらすわけにはいきません」
「それは、リィのこと?」
「恥ずかしながら。宰相殿に聞かされた時には眩暈がいたしました。ゾーイの爵位を取り返すために陛下の命を脅かすなど、あってはならぬことです」
「リィが本当にそんなことを? でも」
アルケイルの視線が段々と動いていき、やがて木の陰から父親が姿を現した。その表情はいつもより硬く、親子の情のようなものは伺うことが出来ない。
リアンは自分の悪い予感が、悉く的中していることに嘆く。
幽霊騒動がリアンの仕業だと、バルトロスはある方法で知った。衛兵騎士まで駆り出すような大掛かりな仕掛けを、まさか単なるいたずらとは考えなかっただろう。何かしらの思惑があると考えたバルトロスは、リアンを問い詰めるよりも有効な手段を思いついた。すなわち、シンクロスト家を脅すことである。
「御機嫌よう、父上」
「此処に至ってその不遜は、褒めてやらんでもない。陛下の相談役という大役を仰せつかって、何をするかと思えば」
「父上は実の娘よりも宰相殿を信用なさるのですね」
リヴァンスの右のこめかみが引きつった。
「当然だ。宰相殿から伺った時に、お前ならやりかねないと思った。十年前にもゾーイを救い出すために、小賢しく立ち回ったぐらいだからな」
「大人が何もしませんので、私が動いたまでです」
ロスター侯爵家の二の舞は御免だ。あの日の父親の言葉が蘇る。バルトロスはきっと、リヴァンスにシンクロスト家の断絶を仄めかしたに違いない。
リアンは逃げ道がないか考え、しかし僅か数秒で結論を出した。単騎で挑むには、バルトロスには手駒が多すぎる。恐らく父親を言いくるめたところで、今度は扉の外にいるユーリが引きずり出されるだけだろう。ユーリは誠実な男である。恐らく何を言われても口を閉ざすだけの覚悟と度胸はあるだろうが、バルトロスには通用しない。
「旦那様、お嬢様は」
ゾーイが何か言いかける。しかしリヴァンスは即座に怒声を上げた。
「お前は黙っていろ! 主人の顔に泥を塗る真似をしおって」
「ゾーイは父上の使用人ではございません」
いつものようにリアンは父親の誤りを訂正した。椅子から立ち上がり、父親の方へと一歩近づく。
そこには親子の情はない。そもそも、リヴァンスとリアンの間にあるのは「血筋」だけである。シンクロスト家を担う父親にとっては、娘ですらも家の存続に関わる因子でしかない。リアンはそれを十分理解していたし、その姿勢を崩さない父親のことを尊敬すらしていた。
「私のものです」
「そうだな。十年前に否定しておくべきだった」
「いいえ、私はゾーイのためなら三日でも十日でも父上と話し合う覚悟も準備も出来ておりました」
物事には大小が存在する。大きなもののために小さいものは切り捨てられる。なぜならば、どちらが切り捨てられたとて損害は出るが、小さいものの方の損害はより小さいからである。損害が生まれることが避けられない以上は、損害は出来るだけ小さいほうが良い。この場にあるいくつかの選択肢のうち、どれが一番損害が少なく済むのか。リアンは考え、そしてすぐに答えを出した。
「だから今回もそうしたのです」
座ったままのアルケイルが大きく目を見開いた。そして背後にいるゾーイが小さい声で「何を」と呟くのが聞こえた。
しかし、リアンはそのどちらにも構うことなく言葉を続ける。
「細工は全て揃っておりました。幽霊騒ぎを起こし、陛下を怯えさせるまでは十分だった。私の誤算はゾーイを陛下の傍に置いてしまったことです」
この中で最も、失われても損害が少ないのはリアン自身だった。バルトロスを陥落させるには手駒が足らない。リヴァンスは自分の父親である以上、下手すれば二人揃って罰せられる。ユーリが捕まれば、衛兵騎士団の信用は地に落ち、王への忠誠も失われる。アルケイルは幽霊騒ぎの標的だとわかっており、巻き込むのはあまりに不自然である。そしてバルトロスがリアンの行動を「ゾーイの爵位を取り戻すため」と仮定している以上は、ゾーイを犠牲にしてもリアンへの罰は避けられない。
つまり、リアン自身が犠牲になるのが一番損害が少ない。
リアンにとっての救いは、バルトロスが幽霊騒ぎの目的を取り違えていることである。否、彼の中で最もわかりやすく情報操作がしやすい「動機」を考えたにすぎないかもしれないが、それでもリアンの本当の目的と違っている。
「本当にお前にはがっかりしたぞ、ゾーイ。陛下の傍にいるだけで良かったものを、幽霊に立ち向かえと激励してしまうとは」
振り返りもせずに言えば、ゾーイが何か言おうとする気配が伝わってきた。だがリアンは何も言わせずに、再び話し相手を父親に戻す。
「父上がゾーイの……、いえ、あれほどお世話になったロスター侯爵家の名誉を回復しないのを、私はずっと不満に思っておりました」
「伯爵家には伯爵家の責務がある。既に没落した侯爵家の、その名誉を回復するのは私の仕事ではない」
「えぇ、それはわかっております。しかし、私は」
私、という言葉をリアンは強調した。これはシンクロスト家ではなく、リアン本人の意思であると全員に伝えるためだった。
「私は、それでは我慢出来なかったのです。あの時、父上は私に問いましたね。相談役になったのは、ゾーイの爵位のためではないかと」
「そしてお前は否定した。親を謀った」
「当たり前でしょう。そう言わなければ、父上は私が相談役になることを認めず、陛下に嘆願したでしょうから」
リヴァンスが眼帯に覆われた方の眉を苦々しげに歪める。
リアンの思い上がりでないとすれば、父親は娘であるリアンをそれなりに評価していた筈だった。そうでなければ、とっくにどこかの貴族にでも嫁がされていただろう。社交界にも顔を出さずに元婚約者を従者にして過ごす娘のことを、敢えて放っておく程度の愛情がリヴァンスにはあった。その複雑な思いが眉の動きに込められている。今すぐに娘を怒鳴りつけたい気持ちと、何らかの弁解を待ちたい気持ち。リアンはしかし、父親のその愛情に甘える真似はしたくなかった。
「前陛下に嘆願することは敵いませんでした。しかし、陛下にならば私の声を届かせることは出来る筈。私はそう考え、相談役となりました」
「……そのためだけにか」
「えぇ、そうです。多少は家のためにもなると思ったためですが。しかし、陛下の傍には宰相殿がいた。私は陛下とゆっくり話す時間がなかった」
そこで初めて、リアンはアルケイルを直視した。紫色の瞳にリアンが映っている。映し出された口元が自然な笑みを描けているのを確認すると、リアンは満足して目を細めた。
「ですので、陛下と「話し合い」をしようと思いました」
「それで幽霊話を……?」
信じられない、とアルケイルが呟いた。
「そんなことしなくても、僕はゾーイのためなら」
「それでは周囲が納得しないでしょう。ゾーイが陛下のお気に入りであることは誰もが知っている。陛下のお情けで爵位を頂いたところで、またどこかの誰かに狙われるとも限りませんから」
揶揄するような言葉に、しかし反応を示す者はいない。それをするのが致命的であると、誰もが知っていた。
「そのために用意したのが、カルトンおじ様の幽霊です。ロスター侯爵家の呪いだ、とでも言えばその霊を慰めるために忘れ形見のゾーイに爵位を与えることは出来るでしょう。何も侯爵でなくてもいい。男爵程度でも十分です」
「でも」
アルケイルは納得がいかない顔をしていた。
あの雷雨の夜のことを、ただの茶番だと認めることが出来ないのだろう、とリアンは解釈した。それほどまでに、あの夜の演出は完璧だった。白い影さえなければ。
「あの幽霊が作り物だったってこと?」
「幽霊などこの世にいるわけがないでしょう。だからこそ、宰相殿も紛い物を用意した。そうですね?」
木の隙間から見えるバルトロスの頭が少し動き、鋭い眼差しがリアンへと向けられる。
「一度城を出てから戻ってきたのは、幽霊騒ぎに終止符を打つためでしょう。宰相殿は陛下のためを思い、ある者を用意したのです」
「ある者って?」
「ハイリット嬢ですよ」
バルトロスが小さく、しかし確かに悪態をついたのが聞こえた。リアンは自分の予想が当たったことに内心で満足する。
「白き令嬢、ハイリット・カーディン・オスカー。宰相殿は彼女を幽霊の正体として、陛下を安心させようとしたのです」
「どういう意味?」
「恐らく筋書きはこういうことです。幽霊に怯えて寝室にこもる陛下。そこに白き令嬢が現れる。今まで目撃されていた幽霊は全て、陛下恋しさに城に来ていた自分であると告白させる。安心した陛下は目の前にいる令嬢を抱きしめる」
口に出してしまえば、どこかの三流喜劇のような筋書きだった。だが、誰もが考え付くような展開こそが心を打つのを、リアンもバルトロスも知っている。
恐らくハイリットは可能な限り着飾り、そして自分に一番似合うドレスを身に着けてやってきた。ゾーイが見た白い影は、そのドレスの色である。
そしてハイリットは不自然な場所にいるリアンを見つけ、そのことをバルトロスに告げた。
「素敵なお話ですね、宰相殿?」
「……黙れ、謀反者が」
悔しさを隠した声でバルトロスが言った。リアンはそれで満足だった。
口角をわざとらしく吊り上げて挑発的な眼差しで見てやれば、バルトロスはそれに応じるように立ち上がる。
「陛下、本人の口から供述は取れました。今すぐこの謀反者を牢に放り込むべきです!」
「でも結局リィは何も」
「陛下」
自分を庇おうとするアルケイルに、リアンは冷たい声で制した。
「爵位をいただけないのであれば、もう用はありません」
アルケイルの顔が強張る。
その時、扉が開いて衛兵騎士たちが中へと入ってきた。バルトロスはまるで自分がこの部屋の主であるように、つまりは最初の頃と同じように堂々と声を張り上げる。
「そこにいる謀反者を捕らえ、牢に入れろ! 陛下の命を狙った大反逆者だ!」
騎士たちがリアンをあっという間に取り囲む。しかしリアンは抵抗をするわけではなく、ただ静かに告げた。
「牢にでもどこにでも行ってやろう。だから私の体に触るな、無礼者。これでも嫁入り前だ」
騎士の中にはユーリもいた。嘘をつくのに慣れていないユーリは、心配そうな顔をしている。リアンはそれが誰かの目に止まらないことを祈りながら、部屋の外に向かって歩き出した。
ゾーイの顔は、結局最後まで見ることは無かった。
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