2.違う空気

 城の雰囲気は、僅かな期間で随分と変わっていた。アルケイルの就任当時は、衛兵騎士も使用人たちも前王の面影を追って、そしてそれをアルケイルに求めているだけだった。要するに、アルケイルという個人ではなくて、「前王の代わり」のように接していた。だが、今は違う。皆、アルケイルを自分が仕えるべき王として認識していた。


「おはようございます。シンクロスト様」


 衛兵騎士団の隊長であるユーリが、丁寧な挨拶をする。晴れ渡った空に昇る朝日を浴びて、その笑顔は清々しい。他の部下たちも笑いこそしていないが、誇りを持って仕事をしている気迫が伝わってくる。リアンは広げた扇を前後に動かしながら、その様子を見て微笑んだ。


「朝から仕事に励まれて結構なことだな」

「当然のことです」


 ユーリはそう答えると、自然な所作でリアンを城の中へと導いた。ずっと前からそう決められてたかのような何の迷いもない行動に、部下たちは呼び止めすらしなかった。城の中に入ると、ユーリは先頭を歩きながら静かに話し始める。


「あの一件より、部下たちの士気は高まっています」

「それはよかった。皆、王に仕えることを喜びとしているのが伝わってきた」

「これもシンクロスト様の助言のおかげです」

「私は小賢しい案を出したのみ。一番の功労者は貴方だ」


 間違えぬよう、とリアンが言うとユーリは小さく笑う。


「わかっております。他言無用、ということですね」

「別に釘をさすつもりはない。事を露呈したところで、得することはないだろうからな。私が言っているのは」


 すぐ近くをメイドが通る。リアンは口を閉ざし、相手が通り過ぎるのを待ってから言葉を続けた。


「誰かにこのことを問いただされた時に、上手く立ち回っていただきたい。それだけだ」

「上手くとは……シンクロスト様のことを口にしないように、ということですか」

「それは貴方の解釈に任せる。私の名前を出して衛兵騎士団の面子が保たれるのならそれでも構わない」


 ユーリの足が止まる。数秒そのまま立ち尽くした後に再び歩き出した。歩幅も足音も一切乱れてはいない。少なくとも後ろ姿からユーリの表情を想像することは難しかった。


「一つ、お耳に入れたいことがあります」

「そうだろうな。まさか私と散歩をしたいためにこうして先導しているわけではあるまい」

「それも魅力的な話ではありますが……従者の方に睨まれる真似はいたしません」


 リアンは後ろを振り返る。いつもと同じように後ろをついてくるゾーイは、それに気が付いて眉を少し持ち上げた。

 整った口唇が、声もなく何度か上下する。聞き返すまでもなく、リアンはその口が何を伝えようとしているか理解出来た。「前を」とそれだけ。声にするのであれば、きっとゾーイは「お嬢様、前を見て歩いてください」とまで伝えるはずだが、それを極限まで簡略化していた。偶に見せる、ゾーイのリアンに対するぞんざいな扱い。リアンは決して嫌いではなかった。

 言われた通りに前を向き直ったところで、ユーリの言葉が耳に入ってくる。


「宰相殿と男爵のことは」

「あぁ、それなら私の耳にも入ってくる。ついでに目にも」

「議会は宰相派と男爵派に分断されつつあります。これまでならば、あり得なかった構図です」

「アリセ嬢が王妃になるからだろう?」

「それは勿論。しかし、まだ正式に王妃になったわけではない。あからさまな肩入れは宰相派の反発を買うと考える方もいるでしょう。……これまでならば」


 意味ありげな言葉は、しかし執事が通りかかったこともあって語尾がかき消される。

 ユーリもリアンも、自分たちの会話が誰かに聞かれるのを極力避けていた。


「これまでなら。なかなか思わせぶりなことを言う」

「お許しください。何しろ慎重にならざるを得ない話ですから。このところ、宰相よりだった貴族の方々が離れつつあるのです」

「それは何故? 男爵の方が魅力的だからか」

「それについては差し控えさせていただきますが、貴族の間では「宰相は王から信用されていない」と噂が流れております」


 リアンは少し目を見開いた。それについては初耳だった。

 貴族議会には各家の当主やそれに準ずる者が列席する。シンクロスト家の当主であるリヴァンスも当然出席している。だがリアンは父親からそのような話を聞いた覚えがなかった。

 それを考えた時に、不意にリアンは違和感を覚える。話を聞く以前に、最近父親と殆ど顔を合わせていなかった。アルケイルの相談役になったばかりの頃は、父親と何度か話すこともあった。それは親子の間の他愛ない会話などではなく、互いが持つ情報を交換するためのものだった。リアンの持つ情報は父親にとっても有義なものである筈で、それを聞いてこなくなったのは不自然である。


「陛下は即位されてから、数々の素晴らしい政策を実施されています。それが宰相殿の意向に沿っていないのではないか。皆さんはそう考えているようです」


 ユーリの言葉に相槌を打ちながら、リアンは頭の中で今起きていることを考える。

 シンクロスト家は中立を掲げている。処刑において誰かに加担する、あるいは敵視することは許されていないからである。

 父親は幼い頃からリアンに何度もそれを説いてきた。特に煩かったのは十年前、ゾーイを従者にした時である。確かあの時父親は「ゾーイが国家にとって害となるならば、迷わずお前が首を斬りおとせ」と言った。思い出したくもない言葉に、リアンの喉奥が少し苦くなる。


「王からの信用が低い宰相殿、王から愛されている次期王妃の父親。この二つを天秤にかけ、男爵に擦り寄る者が増えているらしいのです」

「……それは、宰相殿にとっては面白くないだろうな」

「えぇ。しかし宰相殿は……」


 またメイドが通り過ぎる。ユーリは口を閉ざしてやり過ごした後に、苦笑交じりの声を出した。


「申し訳ございません。扉の裏で話すほうが都合がいいのですが、執務室の門番が一人風邪をこじらせておりまして。代理をするように命じられたものですから」

「私は構わない。続きを」

「はい。宰相殿は当初は随分と憤っていたようです。しかし、それが最近は鳴りを潜めているとか」


 気になりませんか、と問いかけられたリアンは再び状況を整理する。

 バルトロスは強欲な男である。前の人生では王という傀儡を使い、富と名誉を手に入れようとした。革命が起きて宰相の座を追われても醜く生にしがみつき、若く美しい愛人を身代わりに逃げ出した。そんな男が、議会での影響力が弱まった程度で引き下がるとは思えない。


「シンクロスト様。用心されたほうが良いかと」

「……そうだな」


 執務室が近付いてくる。リアンはその扉を見据えながら広げていた扇を畳んだ。既にその頭の中に疑問符はない。リアンは数少ない情報から、今の状況を正しく理解していた。


「貴方も気を付けるがいい。宰相殿は殺しても死なないような男だからな」


 脳裏に浮かぶのは、オスカー侯爵と夫人の首だった。斬りおとされてなお、彼らはバルトロスを信じていた。そうさせるだけの力がバルトロスにはある。リアンは十分にわかった上で接してきたが、それでは不十分だったのかもしれないと考えていた。

 執務室の前にユーリが立ち、扉を開く。いつもと同じ執務室が、リアンにはどこか冷え切っているように思えた。

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