14.答えなき問い
屋上へと続く階段の踊り場で、ナイトドレスに身を包んだリアンは老猫を腕に抱いて窓から外を見ていた。恐らく明け方までは続くであろう豪雨が、心地よい音を耳に届けている。階下から微かに聞こえていたアルケイルの声が途切れて、随分と時間が立っていた。しかし、衛兵騎士が動き回る音も一緒に途絶えたところから察するに、「幽霊」はその役目を終えたようだった。
「お嬢様」
螺旋を描く階段を昇って、ゾーイが姿を現した。前髪と服の一部が雨で濡れている。
「上手くいったか」
「えぇ。騎士達はすっかり陛下のことを見直したようです」
「それは良い。どんな優れた詩も、愚かな戯言も、肉声を伴ってこそ真価を発揮するものだ。壁に書かれた悪口など痛くも痒くもないが、面と向かって告げられれば心に刻み込まれるのと同じだな」
「陛下は前王と声が似ておりますから、説得力もあったかと」
ゾーイはリアンの腕の中にいる猫に目を向けた。尻尾を揺らしながら、満足そうな表情を浮かべている。
「閣下のご機嫌は直りましたか」
「あぁ、丁重に謝罪の上で上等な肉を献上した。流石に尻尾は触らせてくれなかったがな」
城の者達を惑わした「幽霊」の正体は、老猫であるミストだった。それを知るのはリアンとゾーイのみである。仕掛けは至って簡単だった。ミストの尻尾に百合の香りをつけて、自由に動き回らせただけ。ミストは食べ物を漁るためにゴミ捨て場に向かい、眠るために中庭を訪れ、何かを追いかけて木の上へと登った。それにより百合の匂いが撒かれ、迷信深い執事頭に「ロスター侯爵の幽霊」を信じ込ませることに成功した。
昼間にアルケイルが口にしたミストの不機嫌は、言うまでもなく望まない香りを尻尾に付けられたことによるものである。リアンは今の今まで、ミストに非礼を詫びて機嫌を取ることに注力していた。
「ユーリの方もよくやったようだ。後で労っておくべきだろうな。この時期の雨は体を冷やす」
「彼も、若い騎士達が王に忠誠を誓うことを望んでいましたからね。利害の一致は良い結果をもたらす。お嬢様の言った通りです」
「カルトン殿の教えに従ったのみだ」
涼しい表情でリアンは言い切ると、ゾーイの方に一歩近付いた。
「やはり窓を開けるのを合図にしたせいか。随分と濡れたな」
「ユーリ殿に比べれば大したことはございません」
「しかし、顔色が悪い」
リアンの指摘に、ゾーイは右手で自分の頬を撫でた。勿論それで顔色が戻るわけではない。寧ろ手が影を作って、一層暗くしただけだった。
「大したことはありません。その、妙なものを見ただけで」
「妙なもの、だと?」
ゾーイの体調を案ずる眼差しが、鋭いものへ変化する。
「あぁ、いえ。きっと見間違いです」
「いや、話せ。私はたった一つの情報でも見落とすわけにはいかない」
剣呑な空気に気付いたのか、あるいは腕の中で大人しくするのに飽きたのか、ミストが短く鳴いて床の上へと降りる。リアンはそれに目もくれずにゾーイを真っ直ぐに見た。
「話せ。命令だ」
「……笑わないでくださいね」
ゾーイはそう前置きしてから、階下で目にした「白い影」のことを口にした。しかし、話しながら自分の言っていることの荒唐無稽さに気付き、段々と苦笑いが混じった話し方となる。話し終える頃には頬に笑みが貼りついていた。
「まぁ、その。それだけなんですけど」
「白い影か」
「最初はお嬢様が用意した仕掛けの一つかと思ったのですが、現れた場所が妙だったので」
「そうだな。階段の方に陛下を導くことは考えていなかった」
「雷の見過ぎですかね」
「わからないぞ。カルトン殿の霊かもしれない」
面白がるようなリアンの言葉に、ゾーイは少しだけ不機嫌な顔になった。
「お前も、そう思ったのではないか?」
「……少し考えたのは確かです。ですが、あまりに馬鹿げている」
「何故? カルトン殿が彷徨い出る筈はないからか」
「もし父の幽霊でなければ見間違いですし、父の幽霊であれば出る場所がおかしいというだけです。父が陛下にご挨拶もせずに通り過ぎるわけがない」
その答えにリアンは口元に手を当てて軽く笑った。ミストを撫でているときについた白い毛が指先で躍る。
「確かにお前の言う通りだ。まぁこれ以上考えても仕方がない。この件については忘れろ」
「はい」
素直に従ったゾーイだったが、ふと何かを思い出したような表情になるとリアンと視線を合わせるように姿勢を少し傾斜した。
「お嬢様、一つだけ確認させてください」
「何だ?」
「陛下は良い国王になれたのでしょうか?」
リアンはそれを聞くと口角を吊り上げた。窓の外に稲妻が走り、その姿を背中から照らす。そのため、ゾーイの位置からはリアンの笑みがどういった性質のものか判断出来なかった。
「前の人生でも、お前は私に同じ質問をしたぞ」
「お嬢様はその時、なんと答えたのですか」
「何も」
静かにリアンは言った。
「あの時のお前に、もう何を言っても無駄だったからな」
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