9.王城に出ずる幽霊

 数日後、城を訪れたリアンを待ち構えていたのは疲れ切った顔をした衛兵騎士団だった。赤い帯までも疲労しているように見える、やや首を傾げた状態で立っていたユーリは、しかしそれでもリアンを見ると背筋を伸ばした。


「おはようございます、シンクロスト様」

「あぁ、おはよう」


 銀糸の刺繍で袖口や裾を縁取った黒いドレスを着たリアンは、優雅に階段を上がる。天気は生憎曇りで、今にも雨が降りそうだった。


「顔色が優れぬようだが、何かあったか?」

「いえ」


 即座に答えたユーリだったが、その視線が一瞬だけリアンの後ろへ注がれる。そこにはゾーイがいつものように涼しい顔で立っていた。


「見れば、いずれも似たような顔だ。もしや陛下に何かあったのか」

「そういうわけではございませんが……」

「王城のことならば、私はなるべく耳に入れておきたい。それが陛下のためでもある。どんな些細なことでも構わないから、教えてくれないだろうか」


 リアンが懇願するような眼差しで言うと、相手は慌てた声を出した。


「おやめ下さい、シンクロスト様。陛下の御相談役ともあろう方が、自分に頼み事など」

「貴方だからこそ、こうしてお願いしている。誠実な答えを返していただけると信じてるからな」

「しかし……」


 ユーリは再びゾーイの方を見る。他の衛兵たちは、特に何か口を出すわけでもなく二人のやり取りを見守っていた。やがてユーリが根負けしたように溜息を吐く。


「ここでは少し。こちらにおいでいただけますか」

「どこへなりとも」


 リアンがそう答えると、ユーリは小さく頷いてから歩き出した。といってもそれは長い道のりではなかった。門を潜り抜けて、その大きな扉の影へと隠れるように入り込む。門扉の後ろには背もたれのない椅子がいくつかと、作業用の台が置かれており、衛兵騎士団の休憩所として使われていると推測された。


「なるほど、ここなら気付かれないな」

「えぇ。分厚い扉のおかげで声も漏れにくいのです。我々は休憩したり食事をしているところを他者に見られてはならないという決まりがありますので」

「大変なことだ。しかし、それに耐えうるだけの精神力と体力を持っている貴方がたが、どうしてそのような疲れた顔を?」

「はい。どうかその、無礼と思わずに聞いていただきたいのですが」


 ユーリの額に汗がにじみ出る。それでも表情は毅然としていて、衛兵騎士の隊長である誇りを伺わせた。


「幽霊が出ると、城内で騒ぎになっておりまして」

「幽霊?」


 リアンは口元を少し吊り上げ、それを隠すように扇を広げた。


「また面白い話だな。しかし城に幽霊が出るなんて話は昔からまことしやかに囁かれているではないか。百年前に悲劇的な死を遂げた王女の霊やら、無実の罪で焼き殺された使用人やら、子供の頃に何度か脅かされたものだ。まさか彼らが一堂に会して宴でも始めたか?」

「いえ、この度の騒動は……その……、ロスター侯爵の幽霊だと」


 言いづらそうにユーリが呟くと、ゾーイが「へぇ」と声を出した。その双眸には愉快そうな色が浮かんでいる。


「それは父の霊ということでしょうか?」

「は、はぁ。その通りです。も、勿論正確には前侯爵というのが正しいと知ってはおりますが、あの」

「それは別に気にしなくてもいいですよ。俺が侯爵だったのはたった一日でしたから」


 にこやかに答えるゾーイに対して、ユーリは少し安心したように息を吐いた。


「それより、父の幽霊だなんて聞き捨てなりませんね。お嬢様もそう思うでしょう?」

「全くだ。我がシンクロスト家は侯爵家には随分と世話になったし、私もゾーイの父上のことは尊敬していた。あの方の幽霊が出たなど、冗談や戯言では済まないぞ」

「仰る通りです。しかし、使用人たちの間で語られている程度であれば、我々でもどうとでもなるのですが、幽霊の存在を殊更に信じていらっしゃるのが陛下ともなると……」

「陛下が幽霊を信じていると?」


 リアンは声を立てて笑った。


「あり得そうな話だな。陛下は昔から人一倍感受性が高く、物事に慎重な性質だ」


 臆病、という言葉を二重三重に隠してごまかす。しかしリアンが何を言いたいのか、ユーリには伝わったらしい。笑いを堪えた目元が小さく震えるのが見えた。


「しかし、それだけで衛兵騎士団が疲労する原因にはなるまい。陛下から何かご命令が?」

「命令と申しますか、幽霊が実在しないことを突き止めろと」

「それはまた難儀だな。いることの証明以上に難しい」

「はい。我々もどうしたものかと頭を悩ませたのですが、今のところ夜通しで城を巡回するしか手がなく」


 この有様です、とユーリは首を左右に振った。よく見れば白目の部分が少し充血している。あまり寝ていないことは明白だった。


「しかし陛下も噂話だけで騎士団を悩ませることはないだろう。何か幽霊の存在を信じる理由があるのでは?」

「それが話すと少し長くなるのですが」

「構わない」

「ありがとうございます。実は、事の発端は他愛もない噂話でした」


 ユーリは未だにゾーイの方を気にしながらも説明を始めた。隊長を務めているだけあり、その声は抑えているにも関わらず明瞭に聞き取れ、また余計な脇道に逸れることもなく二人の耳へと届く。


「一人の若いメイドが調理場からごみを捨てるために外に出た際に、百合の匂いを嗅いだそうです。しかし、そこには魚や野菜くずが入った大きな穴があるだけで、百合などどこにもありません。メイドは不思議に思って、仲の良い使用人の男にそれを話しました」

「百合の匂いは強烈だからな。ゴミ捨て場であってもすぐに気が付く」

「はい。しかしその時はそれだけで済みました。済まなくなったのは同じような話がいくつも出てきたことです。庭師は高い場所にある木の剪定をしている時にその匂いを嗅ぎました。庭師ですから、城内に百合が植えていないことなど百も承知です。そして洗濯係はよく乾いたシーツを取り込む際に匂いを。それらの証言は同じ日に起きていました」

「確かにそれは奇妙だな。しかし、確かに百合はロスター侯爵家の象徴とも言える花だが、それだけで侯爵の幽霊とは思わないだろう」


 リアンの冷静な指摘に対して、ユーリは何度か頷いた。


「えぇ。若いメイドなどはロスター侯爵家のことは殆ど知りませんし、庭師や洗濯係にいたっては侯爵家の紋章すらも知っているかどうか怪しいものです。ですが、一度にそれだけ話が集えば、執事頭しつじがしらの方にも当然話は行くわけでして」


 城に仕える人間は多いが、彼らを取りまとめるための役職が存在する。それが執事頭と呼ばれる人間で、大抵は男爵か子爵の出身で、二十年以上城に仕え、そして大勢の人間を管理するだけの手腕を持っていることが条件とされる。執事頭の存在は城外では殆ど知られていないが、従える者の多さと職務の内容から「ある意味で王よりも強い権力を持つ」とすら言われていた。


「執事頭のマクガレイ子爵は、百合の花の匂いと聞いて、まず侯爵家のことを考えたそうです。子爵のことは?」

「個人的な付き合いはないが、優秀な方と伺っている。しかし、少々占いに凝りすぎているとも」

「それだけご存じであれば十分です。子爵は匂いの正体を突き止めようと、メイドたちが匂いを嗅いだところを順番に回りました。しかしその時には既に匂いはどこにもなく、やはり風のいたずらだろうかと思われた時、子爵は中庭である物を見たのです」

「幽霊か」

「いいえ、ミスト閣下です」


 急に話に登場した猫の名前に、リアンは目を瞬かせてみせた。その反応を見て、今まで緊張状態だったユーリが漸く表情を緩める。


「閣下がいても別に不思議はないだろう」

「えぇ、しかしその時中庭には百合の匂いが満ちていて、閣下は何もいない中空を見上げたまま鳴いていたそうです。子爵曰く、そこに侯爵がいたに違いないと」

「父はミスト閣下を可愛がっていましたからねぇ、それこそ中庭のベンチを特等席にして」


 懐かしむようにゾーイが言うと、ユーリはそちらに顔を向けた。


「子爵も同じことを思い出されたようでした。そして、そのことを陛下に伝えてしまったのです」

「それで陛下が怯えてしまったと。なるほどね」

「ゾーイ殿はどう思われますか」

「幽霊なんていないと思いますよ。だって変じゃないですか。なんでこの城に、十年も経ってから現れるんです。出てくるなら俺の前に出てくるべきですよ」

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