6.宰相の苛立ち

 紙の上を滑っていたペン先が、机と紙の間にあった何かにつまづいて、本来向かうべきだった軌跡を大きく崩した。老いた男はその無様な線を黙って何秒か見つめた後に、失敗をもみ消そうとするかのように紙を両手で握りつぶした。真新しいインクがその手の皺の中へと染み込み、薄暗い痕を残す。


「馬鹿王が……!」


 苛立ちの原因を口にしながら、バルトロスは自身が腰掛けていた革張りの椅子の背に体重をかける。そこは城内の一角にある、宰相のための個室だった。歴代の宰相の肖像画が、日の光が直接当たらない場所に並べてある。バルトロスの物はまだ作られていないが、近いうちにそこに加えられる予定だった。

 この地位もこの部屋も、バルトロスが若い頃から欲して止まなかったものである。今は亡き祖父や、その伯父たちが肖像画の中から自分を見ている。王など国の飾りに過ぎない。真に国を動かしてきたのは我々である。そんな自信が絵から感じられた。そしてバルトロスも、そのつもりで長らくその座に在り続けた。


「儂に断りもなく、税率を下げおって。何も知らない愚か者のくせに!」


 誰もいない部屋に憤りだけが響く。国家事業としての街道の整備、それに伴う増税が発表されたのは昨日のことだった。アルケイルが作成したという公布文書を、バルトロスは全く目を通さなかった。それよりもすべきことがあったからである。不祥事により当主とその夫人が不在となったオスカー侯爵家。遺されたハイリットの夫となる相手を、自分の息が掛かった貴族たちの中から探すという大仕事がバルトロスにはあった。それに気を取られている間に増税の公布は行われ、気付いた時にはもはや撤回のしようがなかった。


「ハイリットもハイリットだ。父親と継母が死んだぐらいでうじうじと。あんな暗い顔では、唯一価値のある美しさを台無しにするだけではないか。これだから成り上がり者は……」


 そう毒づいた時に、銀髪の若い男の姿が脳裏を過った。十年ぶりに見た元侯爵は、その父親の面影が強く残っていた。平民となっても隠しようのない品の良さ。思えばあれから誤算が始まっているのではないか。バルトロスはそんなことを考える。ロスター侯爵家が廃絶となった時、前王はゾーイの処分については消極的だった。長らく王族の護衛を務め、地方の領地全てを統括する異境候だった家である。その遺児に対する同情やら思い入れがあるのはバルトロスにも理解出来た。だからこそ、処刑の口実を作ろうと手を回した。

 しかし、ゾーイは生き延びた。生き延びただけならまだしも、シンクロスト家の使用人の座に収まってしまった。消し損ねたその存在を見るたびに、バルトロスは自分の詰めの甘さを詰られているような気がしていた。


「陛下がリアンを相談役に認めたのは、あの男がいたからだ。元護衛と王妃を手に入れて、偉くなったつもりか。何も出来ない馬鹿の分際で」


 バルトロスは書類の横に重ねてあった吸い取り紙を何枚かまとめて掴み上げ、それを力任せに破いた。無惨に引き裂かれた薄紙が机や床に落ちていく。しかしバルトロスにはそんなことは関係がない。落としたゴミは自分でない誰かが片付ける。それがメイドだろうと誰だろうと知ったことではなかった。


「邪魔だな」


 小さく呟けば、目の前に落ちていた紙の切れ端が少し動いた。こんな風に、不要なものを排除出来ればどんなにか楽だろうか。バルトロスは紙を摘み上げて机の下へと払い除けた。


 アルケイルのことは幼い頃から知っていた。人の顔色を伺ってばかりで、自分では何もしようとしない王子。従わせるのは簡単だと思っていた。だからこそ、前王を早い退位に追い込んだのである。前王は自分の体調不良を過去の戦での古傷が原因だと思っているようだが、それは違う。金を握らせた料理人が、王だけの特別な料理に仕込んだ、特別な「調味料」のためである。


 何も出来ない王を支える宰相。それがバルトロスの夢見た未来だった。だがアルケイルの行動は、その予想を大きく外れてしまっている。増税に賛成したような素振りをみせながら、直前でそれを覆す。これが自分より身分が低い人間がしたことなら、迷わずに叱責して財産も命も剥ぎ取るところだが、国王ではそうはいかない。


「しかも、なんだあのお触れは。街道にはその土地の領主の名前を付けるだと? 儂やリアンがいつそんなことを言った。あんなことを言えば、街道の工事を進めないわけにはいかないではないか!」


 貴族たちにとって、自分の名前がついた建築物や場所は重要なものである。新しく作られる街道に自分の名前が付くとなれば、工事が進むのを心待ちにして納税を行うだろう。もしどこか一つでも工事が遅れることがあれば、それはすぐに王家や宰相への批判に繋がる。


「どうせアリセの入れ知恵だろう。あの娘はそういったことには気が回る。馬鹿王の首に手でも回して、「ミルレージュ家の名がついた道が欲しい」とでも言ったのだろうな。そして馬鹿王はそれを飲み込んだ!」


 バルトロスは今度こそ苛立ちを爆発させた。書類が、ペンが、インク壺が、大きな音を立てて床にばら撒かれる。盛大な音がしたにも関わらず、外に立っている使用人たちが入ってくることはなかった。バルトロスは執務中に自分以外の人間の出入りを禁じていた。

 しかし、もし此処にアリセがいたならば、今の言葉を聞いて拍手をしたに違いなかった。バルトロスの想像は、概ね当たっている。違うのはそれを唆したのがリアンである点だった。


「どいつもこいつも、儂の邪魔をしおって。国を動かすのはお前らではない。この儂だ。マグレット一族だ」


 椅子から立ち上がったバルトロスは、大きく何度か息を吸っては吐くことを繰り返した後に、口元を歪に吊り上げた。


「まぁいい。増税以外にも私腹を肥やす術はいくらでもある。いつまで好き勝手させると思うでないぞ、有象無象どもが」

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