5.薔薇の忠告

 声と香りは次第に強くなっていき、やがてその持ち主が中庭の扉に手をかけた。真っ白な細い手にドレスの赤がよく映える。袖口から微かに覗く細い金のブレスレットは、男爵家が持つ者にしては金の純度が高い。かといってアルケイルが贈ったにしては少々趣味が良すぎる。要するにそれは、アリセがアルケイルにねだって贈ってもらったものに違いなかった。


「あら」


 中庭の先客に気が付いたアリセは、少し驚いたような声を出しながら笑顔を作った。


「ご機嫌麗しく、リアン様」

「王妃になる方に敬称を付けられると、こそばゆいものがあるな」

「すぐに変えられるものではありませんわ。それに、まだ正式に婚姻関係になったわけではありませんもの」


 口元に緩く弧を描いたアリセは、外見こそ変わらないが、その立ち振る舞いは大人びたものに変わっていた。それは王妃の座を手に入れたからというよりは、夫となる存在を得たからのように見えた。どうにかして、一人の男の寵愛を手に入れようと足掻いていた娘の姿はそこにはない。

 アリセは女神像の下で寝そべっている白猫を見つけると、そちらに近づいて手を差し伸べる。猫は鼻先に突き出された華奢な手を嗅ぐと、小さく欠伸をして顔を背けた。撫でるなら勝手に撫でろ、とその背中が語っている。アリセは嬉しそうに白い毛皮を毛並みに沿って撫でた。


「猫はお好きか」


 リアンが問うと、アリセは少し考えこむ。


「普段はそれほど。薔薇園を荒らしますから」

「此処なら良いのか」

「えぇ。此処にはミルレージュの薔薇園はありませんもの」


 猫を撫でるアリセの手つきは優しい。老猫は目を閉じたまま撫でられるに任せている。


「実に合理的だな。しかし、ミストが貴女の薔薇を荒らしたらどうする?」

「それはその時に考えることだと思いますわ」

「その通りだ。下らない質問をしてしまった。戯言と思って聞き流してくれ」


 しかしアリセは、それを聞いて表情を少し歪めた。対面する者がよほど気を付けていなければわからないほどに。

 魅惑的な琥珀色の瞳が揺れて、リアンを、ゾーイを、そして猫を見る。


「……先ほど、そちらの従者の方がミスト閣下を抱き上げて、どこかに運んでいくのが見えました。私はそれを探して、此処に辿り着きました」

「猫を追いかける趣味が?」

「そういうわけではありませんわ。閣下は陛下も大事にしている猫ですし……それに」


 アリセは再びゾーイを見て、何か言おうとする。だが、言うべきことがまとまらないのか、あるいはそのまま口にするのを避けたのか、恐らくはどちらかの理由で言葉を飲み込んだ。

 だが、リアンはそれを見過ごしはしない。バルトロスのように権力を持つわけでもなければ、アリセのように美貌を持つわけでもない彼女にとって、武器となるのは自分の頭と、そして周囲から得る情報である。


「陛下がいらっしゃると思った。そうだろう」


 アリセが息を飲む。そのわずかな音が、リアンの言葉が核心をついたことを示していた。


「貴女はこのところ、毎日のように陛下に会いに来ている。これまで知らなかった城の内部のことも、そして陛下の思い出話も沢山聞き出したことだろう。そのうちいくつかの情報は、貴女の父親に渡ったかもしれないが」

「誤解です。私は」

「早とちりするな。別に咎めていない」


 大体、とリアンは語尾に少し笑みを混ぜた。


「私とて、王城で手に入れた話を貴女に持ち込んだのだ。お互い様だろう」


 アリセは肯定も否定も返さなかった。リアンの次の言葉を待ち構えるかのように口を結んでいる。赤いドレスと同じ色に塗られた唇に、その仕草は不釣り合いに見えた。


「貴女にせがまれれば、陛下は何でも話してしまうだろうな。ゾーイのことも、ミスト閣下のことも。ミスト閣下は前陛下の猫でもあるが、陛下にとっても大事な存在だ。その大事な存在である猫を、陛下のお気に入りだったゾーイが抱いて運び去った。貴女としては気になって仕方なかっただろう」

「お気に入り、ねぇ」


 背後でゾーイが独り言を呟いた。リアンの言い方に棘があることに気が付いたのだろう。だがリアンはそれを無視して続けた。


「普通に考えて、城の召使でもないゾーイが、ミスト閣下を連れ出す理由はない。理由はないからこそ、貴女は考えた」

「……リアン様の言葉は難しいですわ」

「では簡潔に。貴女はそれを陛下の指示だと推測した。だから猫探しを装って、陛下に会いに行こうとした。違うか?」

「お話を作るのが上手ですこと」


 アリセはわざとらしい賞賛と共に微笑む。


「私もお話をしたくなりました。よろしいですか?」

「どうぞ」

「私がミスト閣下を探し回るのに、城内は広すぎる。他の方々と違い、内部にはさほど詳しくない。猫を連れて行くのに都合がよく、そして他から遮断された場所。その条件に合致するのは」


 口を閉じたアリセは、人差し指を地面に向けた。リアンの顔を真っすぐに見つめて、可憐に首を傾げて見せる。


「ここです」

「なるほど、私の目的を読んだ上で来ていただいたとは。ご足労をお掛けした」

「あら、ただのお話ですわ。私はリアン様と違い、賢くありませんもの」


 二人は顔を見合わせたまま、令嬢らしい笑い声を出す。もし此処にアルケイルがいたならば、二人の間に漂う好戦的でも挑発的でもない、どこか親しみを持った空気に混乱するに違いなかった。

 ひとしきり笑った後、リアンは話を続ける合図として扇子を閉じる。中庭の壁にその音が少しだけ反響した。


「お呼びしたのは他でもない。私の失態の後始末をお願いしようと思ったまでだ」

「失態と申しますと?」

「実は先ほど、増税の話になった」


 リアンは執務室の中で決まったことと、その時のやり取りについて簡単に説明をした。アリセは少し難しそうな顔をしながらも、どうにか理解は出来たのか、話が終わると浅く頷いた。


「街道ですか。規模が大きすぎてよくわかりませんが……、それのどこが失態なのでしょう?」

「税金を上げすぎた」


 リアンは白々しい口調で返した。当然のことながら、アリセは琥珀色の瞳を見開く。


「はい?」

「計算を間違えてしまったらしい。これでは陛下のことを笑えないな」

「ですが、三割増税ということで話はまとまったのではないですか」

「まだ公布はされていない。しかし私が「やはり二割五分が妥当だと思います」と言えば、やはり女には計算が出来ないのだと馬鹿にされるだろう。だから、貴女から陛下に進言していただけないか?」

「そんなことは無理です」


 アリセははっきりとした否定を返した。その声が少し大きかったためか、猫が驚いたように尻尾を跳ねる。


「リアン様が仰らないことを、どうして私が陛下に申し上げられるというのですか」

「そんなに難しいことではない。いつものように陛下に可愛らしく執務室の中でのことを聞き出し、三割の増税に驚いた顔をすればいい。陛下も随分と驚いていたからな。アリセ嬢が同じ気持ちだとわかれば嬉しいだろう」

「そういうものでしょうか」

「陛下はアリセ嬢に夢中だ。まず間違いはないだろう」


 襟を乱した姿で執務室に入ってきたアルケイルを思い出しながら、リアンは言葉を続ける。


「三割だと困ってしまう。でも陛下の決定であれば仕方がない。そう言えば、陛下も思い直していただける」

「三割だと多すぎる……」


 少し視線を右上に逸らし、アリセは今言われたことを小声で反芻する。その言葉の中に含まれた意味を、噛み砕いて曝け出そうとするかのように。

 儀式めいたその行動は数秒で終わり、アリセの視線が再びリアンに戻った。


「わかりました。リアン様には恩義がございますし、三割の増税で困るのは事実です」

「私の不始末で申し訳ないな。そのうち家に遊びに来てくれ。美味しい紅茶を用意しよう」

「怖いのでやめておきますわ」


 猫が一声鳴いたと思うと、アリセの手を逃れるように女神像から飛び降りた。老いてなおしなやかな体と美しい毛並みを人間に見せびらかすように、その場で三周ほど回った後に中庭から出て行く。アリセはそれを見送ることもせず、その代わりのように大きく息を吐いた。


「リアン様は、私や陛下を思い通りに動かしたいのですね」

「そんなことはない。私はただ、より良き国にするために努力を惜しまないだけだ」

「そういうことにしておきますわ。でも賢いリアン様に一つだけ忠告を」


 美しい顔を少し近づけて、アリセは口角を少しだけ持ち上げた。


「人はそうそうに思い通りにはなりませんわよ」

「……あぁ、その通りだな」


 平然と返したリアンだったが、その眼はアリセを見ていなかった。何か別の、既に過ぎ去ってしまった過去を見ていた。

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