6.薔薇の令嬢

 薔薇で出来たアーチを馬車が潜ると、その花の匂いがリアンの鼻先にまで届いた。少々土の匂いを感じるのは、薔薇が植えられた地面の肥沃さによるものと思われた。リアンは香水の類は血の匂いを消すことぐらいにしか用いないが、この匂いは嫌いではなかった。

 見事なまでの薔薇園は、ミルレージュ男爵家の象徴だった。屋敷自体は決して大きいとは言えないが、男爵家としては妥当なものである。だがそれを彩る薔薇が、その家の価値を一つ、二つ押し上げることに成功している。屋敷の前にも薔薇の茂みが並んでいて、塀の代わりのようになっていた。


「どう、どう。落ち着いて」


 薔薇の匂いに興奮したのか、二頭の馬が足踏みをする。ゾーイがそれを宥めていると、茂みの中から不意に甲高い声がした。


「薔薇を踏まないように気を付けてくださいまし」


 続けて、茂みの後ろから声の主が姿を見せた。リアンは、それがアリセだと判断するのに少し時間がかかった。美しい顔と美しい髪は常と変わりない。だがその身にまとっているのは、町の娘が好んで着るような木綿の服だった。顔に泥でもつけて、大きな籠でも持たせたら、そのあたりの野菜売りと変わりない。しかし髪を束ねた赤いリボンだけは絹で出来た上等なもので、恐らくそれが唯一の洒落っ気だった。

 アリセはいつものように高慢ともいえる足取りで馬車の前までやってくると、馬の足元を見た。そこに薔薇の苗の一本もないことを確認すると、大きく安堵の息を吐く。それから、漸く気が付いたように馬車の中のリアンを見た。


「リアン様、こんなところに何か御用でしょうか」

「散歩には見えないだろう?」

「えぇ。父と何かお約束が?」

「いや、貴女と話に来た。少し時間を取れるか」


 アリセはその美しい顔に一瞬だけ諮詢を浮かべた。拒絶と興味が綯い交ぜになった表情のまま、リアンの方を真っすぐに見据える。


「内容によりますわ」

「やはり貴女は賢い。愚鈍に拒絶をし、盲目に肯定をするような人間ではない」


 リアンは自ら馬車の扉に手をかけて、外へと押し開いた。その音に気が付いたゾーイが慌てて御者台から降りようとしたが、それを待たずにリアンは地面へと足をつける。土の匂いが足元からせり上がって来るのを感じながら、笑みを頬に浮かべた。


「話は至極簡単だ。王妃という肩書に興味はあるか?」

「王妃」


 アリセが大きな瞳を、それこそ零れ落ちんばかりに見開く。だが、その眼の奥には冷静な光が宿っていた。一度、瞬きをしてからアリセは周囲を見回す。自分たち以外に誰もいないことを確認すると、自分が今しがた出てきたばかりの茂みの向こう側へと足を向ける。


「棘を引っ掻けないようにお気を付けくださいませ。こちらでお話を伺います」

「素敵な密談場所だ。聞き耳を立てれば耳に傷がつく」


 リアンはドレスの裾が薔薇の棘に絡まないように注意しながら、アリセの後に続く。だが茂みに入る前に振り替えると、まだ馬の機嫌を取っている最中のゾーイに声を掛けた。


「馬にはこの匂いは良くないらしい。辺りを走って来い」

「しかし、お嬢様」

「何度も言わせるな。そうだな、王城までもう一往復ぐらいで良い。その間に話を済ませておく」

「お嬢様を一人にするなと旦那様から言われています」

「アリセ嬢が一緒だ。文句はあるまい?」


 さぁ、とリアンが扇子を持った手で追い払う真似をすると、ゾーイは渋々と言った表情で馬の背を叩く。二頭の馬は、此処から逃げられると思ったのか、嬉しそうに嘶きながら方向を変え始めた。


「お嬢様、勝手にどこかに行ったりしないでくださいよ。私が叱られるんですから」

「お前を置いて何処かに行くわけがないだろう。お前こそ、私を忘れて帰ったりするなよ」

「忘れるほうが難しいですよ……」


 いつもより早足な馬のために、ゾーイのぼやきの後半は聞こえなかった。ゾーイの気持ちを代弁するかのように、騒がしい音を立てながら馬車が門の方へと向かう。リアンはそれを途中まで眺めてから、茂みの中へと体を隠した。


「次からは裏門から入っていただくのが良いと思いますわ」


 アリセが門の方を見ながら呟いた。といっても、茂みが邪魔して殆ど何も見えない。リアンもそちらを形だけ一瞥してから口を開いた。


「そうしよう。次があれば」

「陛下の相談役の来訪を拒む理由はございません。それよりも本題ですわ。王妃とはどういう意味ですの?」

「そのままだ。いや、もう少し親切に言おうか。陛下は王妃をご所望だ。明日には国中に御触れが出るが、王妃選びのパーティが近々催される」

「パーティ?」


 怪訝な表情でアリセがその単語を繰り返した。


「王妃のお披露目パーティでしょうか?」

「違う。王妃を選ぶパーティだ。貴族であれば身分は不問。陛下を支え、愛する王妃を見つけるための宴だ」


 アリセの頬が、薔薇よりも赤く染まった。それはアルケイルのような恥じらいや緊張によるものではなく、高揚によるものだった。


「身分不問……。私でも王妃になれる可能性が」

「その通り。頭の回転が速くて助かる。この際だから下手に包み隠すのは無しにしよう。貴女は陛下の愛妾の座を狙っていた。そうではないか?」


 遠慮も何もないリアンの言葉に、アリセは頷くべきかどうか悩んでいるようだった。

 それを見て、リアンは少し切り口を変える。


「だが、男爵は貴女を別の男のところに差し出するつもりだ」


 アリセの顔色が、今度は蒼白になった。その反応から、既に父親から話を聞かされていたことは明らかだった。

 前の人生でアリセがバルトロスの養女になったのは、数十日先の話である。実質には愛人でも、養女として迎え入れるとなれば、それなりの準備が必要になる。アリセが既に話を知っていなくてはおかしい。リアンの推測は見事に当たった。


「どうしてそれをご存じですの?」

「噂はどこからでも漏れる。一応聞いておくが、宰相の愛人と陛下の妃なら、どちらが良い」

「当然、後者ですわ」

「それを聞いて安心した。明日になれば貴族や大商人どもがこぞってドレスや宝飾品を買いあさるはずだ。そうなれば仕立て屋も宝石屋も自分たちの商品を高く売るために値札を挿げ替えるだろう。だが今なら、いつもと変わらない値段で手に入るはずだ。男爵家としては喜ばしい知らせだろう?」


 アリセの目に様々な感情が浮かんでは消えていく。リアンはその頭の中を覗き見たい衝動にかられたが、無理だとわかっているため、すぐに諦めた。リアンは推測はするが、特定はしない。誰かの考えを正しく読み取ることなど不可能だと知っているからだった。今までこの手で裁いてきた罪人の一人として、リアンは正しく理解出来たことはない。理解出来るというのはあくまでも希望的観測に過ぎない。


「リアン様、どうして私にそんな話を?」

「私は貴女が王妃に相応しいと思っている。貴方がそう思っているのと同じぐらいには」

「それは私がリアン様よりも身分が低いから、扱いやすいということでしょうか?」

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