4.葡萄酒と薔薇と王子

「王子殿下は相変わらずだな」


 リアンの内心を察したわけではないだろうが、父親が小さく呟いた。似たようなことを考えているのは明らかだった。

 デストラ四世の第一王子、アルケイル・シンドラ・ファリティーニ。彼こそが次の国王であり、そしてリアンが処刑すべき人間だった。


「何を話そうと言うのだ」

「結果次第では父上に良いお話を持ち帰れるかと」

「……期待せずに待っておこう」


 そこに給仕係の男が近づき、二人に乾杯用のグラスを勧めた。銀盆の上に整列したそれらから、二人はそれぞれ近くにあったものを手に取る。グラスの中には深紅色に近い葡萄酒が注がれていて、シャンデリアの光を浴びて輝いていた。リアンは手首を緩く回して中の液体が揺らめくのを眺める。酒は正直なところ、そんなに好きなわけではない。貴族の嗜みとして口にはするが、父親みたいに毎晩飲みたいとも思わなければ、サロンに集まって品評会をしたいとも思わない。

 ただ、それはそれである。苦手だからと言って、乾杯用のグラスを打ち捨てるわけにもいかない。


「今日は、我が王子アルケイルの二十三才の誕生日となる」


 まるで空気に滲ませるようにロインが話を続ける。グラスを手に取った客たちは、その声を一つとて聞き洩らさんとするように黙り込んでいた。

 デストラ四世は今でこそ病床に臥すことが増えたが、若い頃は千の兵士を自ら率いて、オースバンの河を先導した勇猛な王だった。それと同時に、国政においても優秀な手腕を発揮した。そのため、貴族たちからの信頼は厚い。リアンの父親も、王には親愛と敬愛を惜しみなく向けている。


「あの幼かった王子も、此処まで成長した。これも皆が見守り、そして育んできてくれたからだろう。皆に感謝を。そして女神アーシャルの名において祝福を。今宵は皆、心満ちるまで宴を楽しんで欲しい」


 誰ともなく感嘆の声が漏れた。此処にいる貴族の殆どは、贅を尽くしたパーティには慣れている。此処に並んでいる高級な酒や料理も見たことがあるに違いない。それでも、「国王によるふるまい」であることが価値を持つ。同じグラスの葡萄酒一杯とて、家で飲むのと王城で飲むのは別物だと、皆感じているに違いなかった。

 王が黄金の杯を右手に持ち、胸の前へと掲げる。左手の甲を招待客に見せるようにその横に添えると、目を閉じて天井を仰いだ。


「神よ、巡りたまえ」


 この国における、宴の開幕を告げる合図。リアンは周りと同じようにポーズを取りながら、内心で少し微笑んだ。今まで、なぜこんな変わった言葉を使うのかと不思議に思っていた。隣の国のように「祝杯をあげよ」のほうが遥かにわかりやすいのに、と。だが、流転の泉を司る女神、アーシャルへの賛美と感謝だと考えれば腑に落ちる。


 葡萄酒を一口だけ飲んだリアンは、やはりあまり好きにはなれない味を噛み締めるように胃の奥へと押し込んだ。中身がまだ半分以上入っているグラスを持ったまま、父親の元を離れて広間の中心へと移動を始める。宴が始まったばかりだというのに、既に広間の中には華やかな雰囲気が迸っていた。着飾った令嬢や貴婦人たち、そしてそれをエスコートする男性たちが身に着けた装飾品のためである。特に、アリセの周りには若い男たちがだらしない顔をして集まっていた。まるでそこに美しい大輪の薔薇が咲き誇っているように見える。


 しかし、その薔薇は四方に愛想を振りまきながらも、隙あらば檀上の方へ目を向けていた。見ているのは、銀の杯を持って立ち尽くしているアルケイルだろう。どうにかしてそちらに近づきたいと、態度が語っていた。他にも数名、同じような動きをしている若い女が見られる。いずれもその美貌や教養を持て囃されている令嬢ばかりだった。


「ご苦労なことだな。まぁ王子に見初められずとも、称号持ちの伯爵ぐらいにはすり寄れるといったところか」


 リアンは純粋な感想を口にしながら、その場で立ち止まった。そこは檀上までを一直線に結び、背後を壁にした一角だった。食事を提供する台も、給仕する者もいない。給仕たちが最初に控えていた場所である。そのため宴が始まってすぐには、此処に殆ど人がいないことを、リアンは最初に来た時に見抜いていた。

 一人、そこに立ち、黒い扇子を広げる。見据えるは檀上。王の横にいるアルケイルだけだった。


 壇上に近づいて祝辞を述べる来客を相手に、アルケイルはお仕着せの笑顔を浮かべて対応していた。しかし、どこか身が入っていない。王の方を見たと思えば、自分の足元を見たり、天井を仰いでは眉を寄せている姿が伺えた。王族としての威厳など塵ほども感じられない。リアンはアルケイルを処刑した時のことを何となく思い出す。怯えて逃げ回った挙句に捕まったアルケイルは、壇上に引きずり出される最後の最後まで情けなかった。目隠しをして腕を縛り上げた辺りで大人しくなったが、あれは諦めと流転の泉に対する期待だったのだろう。

 記憶の中のアルケイルの目と、現実のアルケイルの眼差しが重なる。こちらを見たことがわかると、リアンは微笑んだ。

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