第25話:逃げるなよ
キバガミは強い。ソフィアも、全力で戦っているはずだ。
思い出すのはあの夜の光景。
テウルギアの画面では、全てが大聖堂の景色に置き換わっていた。
展開された《領界》は現実の世界を上塗りする。
ただしそのように見えるのはテウルギアの画面越しにだけ。
本当に現実そのものが改変されるわけじゃない。
悪魔の視点で見た時だけ、虚構の世界は現実とすり替わって観測される。
逆に言えば、その視点では現実が視えなくなる。
キバガミはスマホのカメラも使わずに、悪魔であるミサキを認識していた。
多分、あのサングラスが俺と同じくARグラスなのだろう。
つまりアレを付けてる限り、アイツの視界にはオロバスの《領界》しか映らない。
現実側の変化は視認できず、対応は遅れるはずだ。
その前提で、俺たちは行動した。
「ミサキ」
「了解。カナデも足元には注意して」
頷くと、ミサキは真下の床に右手を触れさせた。
――校舎内の雑魚を片付けた後。
俺たちが来たのは人気のない廊下のど真ん中だ。
そこは丁度、キバガミと接触した廊下のすぐ真上。
向こうの立ち位置も、接近した事でミサキが割り出してくれた。
「行くよ――!」
ミサキの声と、直後に響く轟音。
彼女の右手が厚い校舎の床を食い破った音だ。
相手から見た天井部分をブチ抜くと同時に、ミサキは左手を下にかざす。
そっちの口からは真っ白い煙が勢い良く噴き出した。
《
吐き出された白煙は、あっという間に階下を白く染め上げた。
「ッ、なんだこりゃあ……!?」
驚く男の声は、間違いなくキバガミのものだ。
《領界》は現実の景色は塗り潰すが、ミサキの魔力が染みた煙はそのまま。
視界がゼロの中、俺は躊躇わずに飛び込んだ。
条件は同じのようで少し違う。
おじさんの残したARグラスには温度感知機能が備わっていた。
煙で視界が遮られていても、温度の色分けで相手の姿を確認できる。
着地したすぐ近くに立っている背の高い男。
混乱しているその隙に、俺は警棒を思い切り叩きつけた。
「ガッ!?」
顔面狙いは幸いにもクリーンヒット。
何か細かいモノを砕く感触は、サングラスが割れた手応えか。
高圧電流を流した上でもう一発。
ちゃんと見えないが、キバガミは何かを落としたようだった。
「これで……!」
それよりも、今は目の前のキバガミだ。
電流付きで顔面に二発。煙の中で、男はまだ耐えている。
なら倒れるまで殴ろうと、もう一度振り上げて――。
「カナデ!」
ミサキの警告が耳に届く。反射的に、俺はその場から飛び退いた。
間を置かず、何か鋭いモノが鼻先を掠めていく。
「離れて、私の後ろに」
「っ、分かった……!」
一体、今のは何だ?
キバガミの悪魔は一緒に飛び降りたミサキが警戒していたはずだ。
「無事ぃ?」
「糞っ、テメェどこ見てやがった……!?」
「あっちのお嬢ちゃんの方に決まってるじゃん。
お互い油断し過ぎたねぇ」
笑う声は相手の悪魔のもの。
キバガミは忌々しげに吐き捨て、白煙の一部を腕で払った。
肌の色が青黒く染まり、爪が異様に伸びた腕で。
明らかに人間のモノではなく、思わず息を呑んでしまった。
俺を背に庇いながら、ミサキは「なるほど」と呟く。
「マモンのショップで人体改造済みか。
悪魔が見えていたのは、単純に『見えるよう』眼球に手を加えていたと」
「あぁ、御名答だよクソッタレめ」
まるで獣の唸り声だ。
煙は少しずつ晴れ、互いの姿もハッキリと見えてくる。
片腕を変形させ、人間のままの手で顔面を抑えるキバガミと。
そのすぐ傍に立つ、真っ黒い両目を開く悪魔。
そしてこの場にはもう一組。
「――ありがとう、日野くん。助かったわ」
ソフィアとその契約悪魔オロバス。
彼女たちも無事なようだ。
オロバスは剣を振り、見覚えのない悪魔を一匹斬り伏せる。
どうやら多数に囲まれていたらしい。
俺たちの奇襲を予め「見た」事で、見事に蹴散らしたようだ。
「こちらも一段落。いや、援軍に心から感謝するよ」
ソフィアも、オロバスも。
どちらも素直に礼を言ってくるものだから、酷く気恥ずかしい。
「……良い度胸じゃねぇか、クソガキどもめ」
案の定と言うべきか、キバガミは完全にキレていた。
サングラスを失った顔は、さながら悪鬼羅刹だ。
臆さずに睨み返すと、キバガミはますます苛立った様子で。
「ちょいと窮地を脱したぐらいでもう勝った気か!?
生憎と、この程度の逆境だったら何回だって経験してるんだよ!!」
「その割には余裕が無さそうだけど?」
「ベールの呪いを受けてる奴が、舐めた口を利くんじゃねぇよ!!」
軽い挑発にも、今のキバガミは怒り任せに吠え立てる。
……待て、ベールの呪い?
「キバガミの言う通り。ソフィアは呪いを受けてるね」
そう言ったミサキの視線が、ちらりとソフィアの右手を見た。
できれば隠しておきたかったのか。
ソフィアは一瞬左手で右の手を覆い、またすぐに離した。
……確かに、指先が白くキラキラとした鉱物に変化していた。
「不覚を取ったわ。けど抵抗はできてるから、すぐ全身に回る事は無い。
解呪も、そこの悪魔をぶっ飛ばせば良いだけ」
「実に分かりやすいだろう?
さぁ、雑魚は片付けた。後はボスの首を頂戴しょうじゃないか」
オロバスはいつも通りに見えて、内心はかなりキレてるようだ。
キバガミとその悪魔を睨む眼には、強い怒りと敵意が宿っている。
同じとは言わないが、俺も似た気持ちだ。
ソフィアの呪いを解くためにも、一刻も早くキバガミをぶちのめさないと。
「……チッ、確かに不利か。だけどガキども、ちょっと耳を澄ませてみろよ」
「また戯言? 悪いけど聞く気は」
「……待って、ソフィア」
聞こえた音に、俺は反射的にソフィアを制止してしまった。
まだ距離は遠く、けれど確実に近付いてくる。
それはサイレンの音だった。
「っ、警察……!!」
「そりゃ先公辺りは通報するよなぁ。
お前らがオレの部下はブチのめしたみてぇだしよ」
「……面倒だね」
ほんの少しだけ、ミサキは顔を顰めて呟く。
警察が来たこと自体は良い。まだ校舎のあちこちに怪我人もいる。
けど、この状況では。
「やるなら相手になってやるよ。けどな、どんぐらい巻き添えの被害が出るかな?
良い子ちゃんだったら簡単に想像できるよなぁ」
「この下種野郎……っ!」
「アッハッハ! 褒められちゃったねェ」
罵るソフィアに、ベールはケラケラと笑う。
俺は何も言わずに、黙ったまま。
キバガミは自分の有利と見たか、態度にまた余裕が混じる。
「なぁ、悩む必要なんざないだろ?
オレはこのままやっても良いが、お前らはそれじゃ困る。
こっちもこの状況で確実にお前らをブチ殺せるとは言えねェ」
「何が言いたいんだ?」
「仕切り直そうぜって話だよ」
俺の一言に、キバガミは満面の笑みで応えた。
仰々しく両手を広げ、勢いに乗った様子で更に続ける。
「そっちのお嬢ちゃんの呪いを解きたいんだろ?
安心しろよ、オレだって今更お前らを見逃す気はサラサラねぇ。
どっちが死ぬかの白黒は、時と場所を改めようぜ」
「……そう言って、この場から都合よく逃げたいだけでしょ?」
「解釈はどうとでも。ただ逃げるつもりはねぇさ。
お前らを見逃す気はねぇと言ったばかりだろうがよ。
嘘を許さないベールの《領界》は、オレ自身も例外じゃねぇとは言っておくぜ?」
この場は退くしかない。ソフィアもそれは理解してるはずだ。
パトカーのサイレンが校庭に入ってくる。
もう一刻の猶予もなく、俺たちはキバガミを見逃すしかなかった。
卑しく笑う男と、その傍らでニヤつく悪魔。
……怒りはあった。
ここまで勝手をしておいて、笑いながら立ち去ろうとするコイツらが。
その激情に反して、意外なほど頭の中は冷えている。
怒りが過ぎて、逆に冷静になったのか。
「大丈夫だよ、カナデ」
耳元で囁く声。優しいけれど、悪魔らしい嗜虐心を含んだ声だ。
「君の思う通りに。私はそれに従うよ」
「……ありがとう、ミサキ」
笑って囁き返せば、悪魔の少女は微笑んだ。
このまま見送るだけでは、全てキバガミの思うまま。
だから俺は言葉で釘を打ち込む。
「キバガミ」
「あん?」
「逃げるなよ」
一言。内容自体は、先ほどのソフィアと変わらないように聞こえる。
そのように切り捨てるのは簡単だ。
けれどキバガミは馬鹿じゃない。
今の言葉の裏に含まれた意図を、コイツは理解した。
理解してしまった以上は無視できない。
「……なんだと?」
「逃げるなって言ったんだよ、臆病者。
この場での話じゃない、お前がここから退いた後の話だ」
「日野くん? 何を……」
「キバガミは仕切り直しとは言ったけど、それ以外は何も明確にしてない。
ソフィア、コイツは君が呪いで動けなくなるまで戦わないつもりだ」
あくまでそれは、俺の予想に過ぎない。
キバガミは狡猾な男である事は、短いやり取りでも十分理解できた。
そんな奴が仕切り直して正々堂々なんて、どう考えてもあり得ないだろう。
根拠に乏しく、我ながら邪推だとは思ったけど。
僅かにキバガミが表情を歪めたのを、俺は見逃さなかった。
「逃げないとは言ったけど、隠れないとは一言も言ってないしな。
……臆病者な上に卑怯者とか最悪だけど。
お前がそうするならこっちにはどうしようもない。
ガキと舐めた相手に尻尾を巻いて、好きなだけ逃げ隠れすれば良いさ」
「……あぁ、クソガキが。内心ビビってる分際でよく舌が回るなぁオイ」
牙を見せる獣の顔で男は笑う。キバガミは馬鹿じゃない。
挑発された怒りだけで、確実に勝てる手段を放棄したりはしないだろう。
だから必要なのは、もうひと押し。
「……もし。
もしお前が逃げないんだったら、お前とは俺とミサキだけで戦ってやる」
「なんだと?」
「ちょっと、日野くん!?」
「どうするんだ、キバガミ。警察が来るまでそう時間もない。
臆病者と認めて立ち去るか、逃げ回らずに俺と戦うか。今すぐ選んでみろよ」
沈黙はほんの数秒ほど。
憤怒と敵意に彩られたキバガミの眼を、俺は真っ向から睨み返す。
「名乗れよ、ガキ」
「日野カナデ。……呼ぶんだったら、《
「ハッ!! ほざきやがった、良いだろう!!」
おじさんが名乗っていた異名。
キバガミも目標としていた名前を口にする。
「日野カナデ、お前に《
時刻は今夜の0時。詳細は自分のテウルギアを確認しろよ」
「分かった」
《魔宴》という単語は初めて聞いたけど、どういうものかは大体想像がつく。
ゲームで言うならば対戦の申込みだ。
キバガミが俺の名前を聞いたのはそのためだろう。
「行くぞベール、いつまで笑ってやがる」
「アハハハハ! いやぁ、楽しみだねぇ《魔宴》!! いっぱい遊ぼうぜ少年!」
キンキン響く笑い声の余韻だけを残して。
キバガミとベールは、最初に割られた窓から外へ飛び出す。
風のような速さで立ち去り、僅かな痕跡も残さない。
……一先ず、何とかなった。
ホッと安堵の息を吐いたら、後頭部を軽く叩かれてしまった。
ソフィアだ。
呪いで硬くなってる手で叩くのは勘弁して欲しい。
「コラ、カナデにいきなり何をするんだ」
「何するって、それはこっちのセリフでしょうが。
貴方ホント、勝手なこと言って……!」
「とはいえ、カナデ少年の判断は正しい。
ああ言わなければ間違いなく、あの男はひたすら逃げ回っただろうね」
怒れるソフィアの肩を抱いて、オロバスがこちらのフォローをしてくれた。
ミサキもちょっと怒りながら、俺の傍に引っ付いてくる。
「オロバスの言う通り、ちょっとは感謝したらどう?」
「無茶無謀をやからして何を褒めろって言うのよ……!」
「まぁまぁ」
確かに無茶無謀ではあるけど、アレ以外に手もなかった。
「後で幾らでも謝るし、罰があるなら甘んじて受ける。それより今は」
「警察の対応と、その他の被害の確認やフォローは私がやるわ。
呪いは進行中だけど、動けなくなるのは当分先」
下げようとした頭を、ソフィアの手で抑えられた。
生身の左手で、そのまま髪を軽くかき回される。
またミサキがピリピリし出したけど、お願いだから落ち着いて欲しい。
ソフィアの方は気にせず、敢えて明るい笑みを見せる。
「日野くんはこっちは気にせず、あの男をぶちのめす事にだけ集中して。
言うまでもないでしょうけど、アイツは強いわ」
「分かってる。ありがとう、ソフィア」
「……私も流石に、生きたまま宝石にはなりたくないしね」
だからお願いね、と。
そう言って、ソフィアはその場を離れる。
やってくる警察とかの相手は、彼女に任せるしかない。
「ミサキ」
「なに? カナデ」
「準備をしよう。戦う――いや、勝つための準備を」
自らを鼓舞する意味でも、敢えて強い言葉を吐いた。
退路を断ったのはお互い様。あとはやるべき事をやるだけだ。
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