第15話:聖堂騎士
「何……一体、何を、言ってるんだ。ソフィアさん」
「……思ったより血の巡りが悪いのね、日野くんって」
夜風と比べても、なお冷たい声。
同級生であるはずの少女、ソフィア=アグリッピナ。
彼女の言葉に、容赦というものは欠片も含まれていなかった。
その傍らに立って、オロバスはクスリと笑う。
「そう無茶を言うものではないよ、マスター。
彼にとって、君は単なる『クラスに咲いた高嶺の花』だったはず。
それがいきなりこんな場所で出くわせば、誰でも言葉ぐらいは失うさ」
「黙りなさい、オロバス」
「おっと、これは失礼を」
不機嫌さを隠しもしないソフィア。
それに対してオロバスは、芝居がかった仕草で一礼をした。
……この二日で、十分過ぎるぐらいに非現実を味わったつもりだった。
しかしコレは、今までで一番の衝撃だ。
クラスメイトと思っていた相手に、正面から敵意を向けられるのは。
「カナデ、君はもう少し下がって」
「っ……戦うのか、ミサキ」
「相手がやる気満々だからね、私たちに選択の余地はないよ」
「そちらの悪魔の言う通り」
ミサキの言葉に、ソフィアは淡々と続ける。
相変わらず、テウルギアの入ったスマホを手にする様子もない。
もう疑う余地もなく、彼女は肉眼で悪魔が見えているんだ。
けど、一体どういう理屈で……。
「――天に主はいませり。地よ、その御前に沈黙せよ」
歌うように紡がれる言葉。
それはつい聞き惚れてしまいそうなぐらい美しく、清浄で。
街灯に照らされるだけの薄闇にも、微かに光が満ちた気がした。
錯覚と呼ぶには、余りに具体的なイメージ。
ソフィアはただの一声で、場の空気を完全に塗り替えてしまう。
「これで邪魔は入らない。
逃げても良いけど、面倒だからそのスマートフォンは置いていってね」
「……嫌だって、言ったら?」
「警告は一度だけだと言ったわよね、私」
ソフィアは一歩踏み出し、踵が地面を叩く。
たったそれだけの動作なのに、俺は少し気圧されてしまった。
鋭い眼光に射抜かれて、心臓が跳ねる。
彼女はどこまでも本気だった。
昨日のチンピラなんかとは、文字通り格が違う。
「……まさか、とは思ったけど。今ので確信したよ」
俺を背に庇いながら、ミサキは油断なく相手を睨む。
口元には笑みを浮かべているけど、それは半分強がりだ。
偽りの余裕で取り繕う必要がある程、ソフィアたちを脅威と感じてる。
その状態でも、ミサキは言葉で相手に切り込む。
「君は悪魔契約者じゃないな?」
「ホント、察しが良いわね。
もしくは前のご主人様から話ぐらいは聞いてた?」
それは、さっきまでとは別の意味で衝撃的は発言だった。
悪魔契約者じゃない?
いやでも、ソフィアの傍らにはオロバスがいる。
テウルギアの悪魔。ソロモン王の七十二柱に含まれる魔神。
そんな馬鹿げた存在を従えてるのに、悪魔契約者じゃないなんてあり得るのか?
ちらりと、ソフィアがまた俺を見た。
「そこの悪魔が言う通り。私はテウルギアのアプリを使ってない。
一部の術式は利用してるけどね」
「説明してあげるマスターは優しいなぁ」
「黙ってなさい。
どうせ巻き込まれただけの素人なんだから、これぐらいは必要よ」
「……テウルギアを使ってないなら、どうやって?」
俺の疑問に対して、ソフィアは右手を掲げる。
見えるよう向けられた手の甲。白い手袋に描かれているのは赤い十字架。
「名乗るわ、私は
日野くんの学校に通ってたのは、騎士団員の職務を行うための偽装。
私は、テウルギアによる悪魔災害を『祓う』ために此処にいる」
「聖堂騎士……?」
昨日の悪魔云々以上に、理解が追いつかない。
ミサキは、その名乗りを軽く笑い飛ばす。
「悪魔が起こした厄介事を片付けるための掃除夫。
確か以前、誠司が言ってたよ。
そういう連中がいて、人手不足らしいから協力してやってたとか」
「……
秘密主義者で契約悪魔の情報もロクに晒さなかったけど。
まさかこんな頭の悪そうな奴だなんてね」
火花が散った。
ソフィアとミサキの視線がバチバチとぶつかり合っている。
錯覚だと分かっていても、かなり恐ろしい。
「……日野くん。
私はテウルギアで安易に悪魔と契約した連中とは違う。
厳しい訓練と信仰によって、独力で悪魔を契約の下に従えてる。
だから物理的には見えない悪魔も視認できる。
聖なる言葉で、この場を『外』から見えなくもしたわ」
「…………」
「『そんな事が本当にできるのか?』って、顔に書いてあるけど。
そうとは口にしないのは、貴方も分かってるからよね。
私の言ってる事が、全て真実だって」
ソフィアの語る内容はあまりに荒唐無稽で、まともな神経では信じがたい。
聖堂騎士団の騎士長だとか。
自力で悪魔と契約して、聖なる言葉が使えるとか。
どれも創作の世界でしか聞いた事がない。
だけど、現実に悪魔はいる。
そして彼女が不可思議な力を使っているのも事実だ。
強さにしても精神面にしても、昨日のチンピラなんか比較にならない。
勝ち目がない事を、本能が察してしまった。
「……日野くん。馬鹿な貴方のために、特別にもう一回だけ言ってあげる」
呆れ混じりだが、むしろ優しげにソフィアは語りかけてくる。
頭の悪い子供に大人が諭す時の声で。
「そのスマートフォンを、早く此方に――」
「もうカナデは『嫌だ』と言ったろう?」
被せる形で、ミサキは強い拒絶を口にした。
それは言葉だけでなく、行動として示す。
さっきの俺の一言を、「
クラスメイトと戦いたいわけがないが、流れはもう止められなかった。
疾風の如く踏み込むミサキ。
黒い手袋は外して、両手の牙は既に晒されている。
ソフィアは動かない。ミサキの右手の一撃は、そのまま――。
「まったく、油断も隙もないお嬢さんだな」
当たる直前に、オロバスが手にした剣で阻んだ。
手のひらの牙は刀身を容赦なく削り、へし折るより早く。
「ぐっ……!?」
オロバスが放つ中段蹴り、そのつま先がミサキの胴を捉えた。
衝撃に呻きながら、ミサキは後方へ軽く跳ね飛ばされる。
だけど、そのまま転がったりはしなかった。
さながら猫に似た身のこなしで、鮮やかに両足から着地してみせた。
「ミサキ!」
「カナデ、話は後にしよう。今は敵に対処するのが先だよ」
ミサキの言う通り、戦いはもう始まってしまった。
言葉を交わしている暇は何処にもない。
「――聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」
再度、ソフィアの美しい声が響く。
綺麗ではあるけど力強く、頭上から降る雷に似た言葉。
それをミサキは遮ろうと動くけど。
「当然、邪魔はさせないよ?」
「っ、オロバス……!」
ソフィアの契約悪魔、オロバスが逆に妨害して来た。
未来視の能力は、こういう場合では特に厄介だ。
「かつて在り、今に在り。
遥かに来たりし全能なる父たる主よ。
御国より来たりて、全ての悪と罪を赦したもう」
聖なる言葉。ソフィアは確かそう言っていた。
まるで呪文のように唱えて、彼女は懐から何かを取り出す。
一つは白い錠剤のようなモノ。もう一つは、赤い液体の入った小瓶。
錠剤(?)を口にして、それから小瓶の液体を呑んだ。
そこにどんな意味があるのか、理解できないままソフィアは淡々と手を進める。
「オロバス、《
「ハハハハッ、完全に本気じゃないかマスター!!」
《
ただ、かなり拙いモノである事は想像が付く。
その正しさを示すように、ミサキはオロバスに対する攻め手を強める。
「ハハハ、焦ってるねミサキちゃん!」
「気安く呼ばないで欲しいね……!」
「だが残念、手遅れだよ。さぁ、昨日の夜は見せられなかったモノだ」
オロバスは酷く楽しげに笑いながら、ミサキの牙を剣で受け流す。
そして。
「――ようこそ。ボクの《領界》へ」
何かが変わった。肌がざわりと粟立つ感覚。
けれど、見た目上の変化は何も――いや。
視覚的――肉眼で見る限りでは、特に何も変わっていない。
変化は、テウルギアの画面上で確認できた。
暗く寂しい夜の住宅街。カメラによって映し出されるのは、その景色のはず。
しかし、画面に見えるのは……。
「なんだ、これ」
そこは、建物の中だった。宗教的な印象を抱かせる内装。
並ぶ無数の長椅子に、複雑な構図が描かれている大きなステンドグラス。
奥には祭壇と、壁に固定された大きなパイプオルガン。
空間は広く、夜中のはずなのに窓からは眩い光が差し込んでいる。
テレビの番組で見た覚えのある海外の大聖堂。
概ねそんな雰囲気の場所に、俺たちは立っていた。
あくまでテウルギアの画面の中では、だけど。
「《領界》だよ、少年。
上級悪魔が持つのは固有の異能である《
悪魔が定めた理を敷く偽の世界――《
聖堂の中心に佇む馬耳の悪魔オロバス。
その背後には契約者であるソフィアの姿もあった。
……現実での距離関係は変わっていない。
俺たちは変わらず、人気のない住宅地の道に立っている。
現実と虚構の境界は酷く曖昧で頭が痛くなりそうだ。
「初心者への親切な解説は以上だ。
最後に、《領界》には最低でも一つ以上の『
私の《領界》の理は――当然、教えてあげないよ?」
「オロバス」
「はいはい、そろそろ真面目にやりますよ?」
氷点下に至ったソフィアの声に、オロバスは軽い調子で応じる。
色々言ってたが、要するに相手が有利な戦場に引き摺り込まれたのか。
「……大丈夫だよ、カナデ」
動揺する俺に向けて、ミサキは落ち着いた声で語り掛ける。
視線は正面、オロバスとソフィアを捉えたままで。
「私が君を守る。だから君は、何も心配しなくて良い。
ただ、そこで見ていてくれるだけで構わない」
「っ……いや、それじゃあ……!」
ダメだ、と。
一人で戦う気のミサキに、そう言い切るよりも早く。
ソフィアがまた、その手に何か細いモノを取り出していた。
釘。一本の太く長い釘。
真新しいその先端を、ソフィアは躊躇いなく、自分の手のひらに。
「――貴方の判断で、好きなだけ使いなさい。オロバス」
「仰せの侭に、我が主」
主人の言葉に応じて、オロバスは恭しく一礼をする。
その直後に、姿が消えた。
殆ど間を置かずに、ミサキに対して何かが激突した。
強烈な力に耐え切れず、勢い良く地面に転がる。
「ミサキ……!?」
今、ミサキに何が起こったのか。
地を這う彼女も、目を離さなかったはずの俺も理解できない。
そんな俺たちが次に見たものは――。
「さて――そろそろ、昨日のリベンジマッチと行こうじゃないか」
たった今、ミサキを蹴り飛ばした右足を揺らして。
一瞬で間合いを詰めて来たオロバスが、心底楽しそうに笑っていた。
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