第13話:予兆
「おはよう、日野くん」
「あぁ――うん、おはよう」
学校へ行くのは、俺が考えていたこと以上に難事だった。
校門を潜り、下駄箱で靴を履き替える。
時折、見知ったクラスメイトと軽く挨拶を交わす。
そこまで親しいわけでもないが、顔を合わせれば話ぐらいはする。
昨日までと何も変わらない。
変わった事があるとすれば、それは俺自身だ。
「学校の中までは、私もちゃんとは見た事なかったけど」
人もまばらな廊下を歩く。
聞こえるのは、ポケットに入れたスマホから流れてくる声。
俺以外には誰にも聞こえない悪魔の声。
「思った以上に食い散らかされているね。
君ももう気付いてるだろ、カナデ?」
……俺は何も言えなかった。
昨日、ミサキと契約した事で俺は
そのせいで、悪魔によって欠けてしまった事が分かってしまう。
生徒が少ない。俺の感覚が正しければ、この学校にはもう少し生徒がいたはずだ。
欠けていたのだ、少しずつ。
「何なら、全校生徒の名簿でも調べてみるかい?」
「……それ、どういう意味があるんだ?」
文字通りの悪魔の囁きに、思わず聞き返してしまった。
独り言を喋る怪しい奴だと思われないよう、可能な限り声は抑えて。
「認識はされなくとも、痕跡はあるんだよ」
「痕跡……?」
「この学校だけで、一体どれだけの人間がテウルギアに関わって『消えた』のか。
――そういうのも確かめられるって事だよ」
思わず、叫び出しそうになった。
テウルギアに――悪魔に関わるというのは、そういう事だと。
昨夜の経験を経て、頭では理解しているつもりだった。
しかし、改めて目にした現実はあまりにも無惨だ。
……この学校に通う殆どの人間が、昨日までの俺と同じなんだ。
世界が変わり果ててしまった事。
悪魔と、それと契約した人間がいる事。
そいつらの争いによって、隣にいた誰かが欠けていく事。
何も知らなくとも、世界は回って行く。
「大丈夫かい、カナデ?」
「言った奴が聞く事じゃないだろ……」
「悪いね。私は悪魔だから、つい意地悪したくなってしまうんだ。
別に悪気はないんだよ?」
「悪気がないなら猶更タチが悪い……」
文句を言っても仕方がない。
ミサキは悪魔だけど、俺と契約してるし味方なのは間違いないけど。
やっぱり微妙に感性とかがズレてるのも事実で。
そこはもう、そういうものだと受け入れるしかなかった。
「…………」
「? どうしたんだい、キョロキョロ見回したりして」
「……ちょっと、今のは声が大きかった気がするから」
再び、意識して声を抑える。
急ぎ足にならない程度に、廊下を進みながら。
独り言を聞かれて、変な奴だと思われるのは流石に困る。
幸い、始業前の生徒たちは内輪の会話に夢中なようだった。
偶に見かける知った相手には、軽く挨拶を交わして……。
「……あ」
教室に入ったところで足が止まった。
間もなく朝礼が始まる。クラスメイトたちは、思い思いに雑談をしていた。
大半の人間は、教師以外で教室に入った人間に注意は払わない。
だから「目が合った」という事実に、俺は驚いてしまった。
ソフィア=アグリッピナ。
日本人離れ――どころか、人間離れした金髪の美少女。
彼女は自分の席に座っていた。
普段は人の輪の中にいるソフィアだが、今日は珍しく一人だ。
表情に温度はなく、教室に入ったばかりの俺を見ている。
……彼女と目が合うのは、一日限定のレアイベントのはずだ。
朝から起こるなんて事は、これまでに一度もなかった。
「……あー、おはよう?」
挨拶そのものは、別に珍しい事じゃない。
ただキチンと目を合わせた上で挨拶したのは、初めてかもしれない。
いつものソフィアなら、人当たりの良い笑顔で応えてくれる。
視線だけは合わせないままで。
「……ええ、おはよう。日野くん」
その点も、今日の彼女は違っていた。
目を合わせたままで、淡々と挨拶を返してくる。
誰にでも明るく穏やかに接してくれる、クラスの人気者。
そんな顔は、この瞬間には何処にもなかった。
「今日はお休みすると思ってたわ」
「え?」
「……いいえ、こっちの話」
二言以上の会話。これも多分、初めてなんじゃないか。
驚いている俺とは対照的に、ソフィアの表情は冷たい。
話はもう十分だと、そう言わんばかりに視線を逸らされた。
あるいは、今の表情こそが本当の彼女の顔なのかもしれない。
そんな事を考えてしまった。
「……カナデ?」
と、耳元でミサキが囁いて来る。
こっちもこっちで、声の温度がさっきまでとは明らかに違う。
微かに漂うのは、敵意に似た刺々しさだ。
「ミサキ、どうした?」
「あの女は誰?」
声を潜め、とりあえず自分の席に移動する。
鞄を置いてから、椅子に座って一息。
ソフィアはもう俺の方を見てはいなかった。
「あの女って……ソフィアさんか?」
「そうだよ。ソフィアっていう名前なんだ。外国人?」
「らしいね。いや、俺も詳しく知らないけど。
一応日本人の血も入ってるから、ハーフって奴なのかな?」
「……そう」
「??」
ミサキの態度には、何故か妙な緊張感があった。
……もしかして、ソフィアの事を警戒してるのか?
「ミサキ?」
「……一応、注意はしておくべきだよ。カナデ。
君も十分に実感しただろう?
テウルギアは――悪魔は、考える以上に身近に潜んでる」
それについては、反論も何もなかった。
こうして教室の中を見渡しても、三分の一ぐらいは空席がある。
前に詰める事もなく、虫食いのように空いた席。
きっと、そこには誰かがいたんだ。
誰かがいたはずだけど、それが誰かを思い出せない。
そんな強烈な違和感が腹の中でグルグルと回り続けている。
……その誰かと俺は、友人だったかもしれないんだ。
「表向きのテウルギアは単なるゲームアプリだからね。
何かのきっかけがあれば簡単に手を出せてしまう。
そして気付かぬ内に自分の悪魔を育てて、いずれは契約に至る。
そうなってしまえば、もう後戻りはできない」
「……あの、空いた席に座っていたはずの生徒も?」
「テウルギアに手を出して、悪魔契約者となって死んだのか。
あるいは、もっとその前の段階かもしれない」
「前の段階……?」
「一部の契約者は『雑魚狩り』なんて呼んでるけどね。
契約に至る前の段階でも、テウルギアにはそれなりの『価値』が貯まってる。
それを狙って、契約する前の相手を狩るんだよ。
――多分、この中にもいるんじゃないかな?
昨日のチンピラとか、典型的な雑魚狩り狙いの契約者だったからね」
「…………何だよ、それ」
嫌悪や恐怖を通り越して、怒りが滲んで来た。
ここまで身勝手な話が他にあるだろうか。
脳裏に浮かぶのは、殺されてそのまま野晒しにされていた男の死体。
……俺が知っている、知っていたはずのクラスメイト。
この場にもういない彼らも、アレと同じ目に遭っているのか。
「……昨日みたいな奴は、他にもいるのか?」
「あんなのはそう珍しくないよ。
また夜の散歩をしたら、見かけるかもしれない程度にはね」
「マジかよ……」
「昨夜も言ったと思うけど。
この街は、かなりタチの悪い悪魔契約者が縄張りにしてる。
あのチンピラも、多分その部下か何かじゃないかな」
「……おじさんがケリを付ける予定だった、とか。
確か、そんなこと言ってたよな」
「あぁ。誠司は私と共に、これまで何人も悪魔契約者を仕留めて来た。
この街の奴も最近やり口が酷くなって来たからね。
始末する予定だったんだけど……」
現在のおじさんは、病院の一室で植物状態だ。
悪魔と戦ってたなんて、全然知らなかった。
「ミサキ、おじさんはどうして……」
「無茶をし過ぎたから――かな。
比喩でも何でもなく、身を削りながら戦って来たからね。
せめて最後にもう一仕事ぐらいは終わらせたかったけど、限界だったんだ」
本当に残念だと、ミサキはため息を吐く。
「誠司自身、自分が危うい事は自覚していた。
だから万が一があった場合、君の身を守れるように。
私の契約をカナデに譲渡する手筈を整えていたんだよ」
「……おじさん」
「そう――私が誠司から託されているのは、君を守る事だけだ」
ほんの少しだけ、その声に笑みが混じった。
俺はポケットの中から、おじさんのスマホを取り出す。
画面を付けて、机の正面辺りにカメラを向ける。
そこには微笑むミサキの顔があった。
「君はどうしたい、カナデ。今の私は君と契約したテウルギアの悪魔だ。
君の望みが私の望み。君が命じるなら、私はなんだってしてあげよう」
それはまさに悪魔の囁きだった。
触れる許可は出していないのに、指先に熱を感じる。
きっと今、ミサキは俺の手を握っているんだ。
こちらが何を選ぶのか。
自分は分かっていると、言葉にせずに伝えてくる。
……恐怖はある。嫌悪も同じぐらいに。
何も見なかった事にして、盲目の日々に戻れたなら。
もしかしたら、それが一番の救いかもしれない。
けど、それは無理だ。もう俺の世界は変わってしまった。
後戻りはできない。悪魔の手を取るしかないんだ。
目の前にある理不尽全ての、怒りを覚えてしまったから。
おじさんも、俺と同じ気持ちだったのだろうか。
「……今夜も、外に出よう」
「カナデ。その意味は分かってる?」
「分かってる。分かってる、つもりだ。
あの馬耳の悪魔、オロバスだってまだいるんだ。
もしかしたら、アイツがミサキの言う契約者の悪魔かもしれない」
「その可能性は十分あるだろうね」
「……俺に出来る事があるなら、やりたいんだ。
もう目を瞑って、忘れて、その事を後悔したりはしたくない」
安易で軽率な判断だと、そう思う部分もある。
いや、間違いなくそうだろう。
けれど、このまま身を引こうにもオロバスが狙って来る可能性はある。
結局、「もう後戻りはできない」という結論しかない。
「――良いよ、カナデ。私は君の望む通りに」
「……ありがとう、ミサキ」
優しく微笑む悪魔に、俺も少しだけ笑い返す。
その辺りで、教室の扉が音を立てて開いた。
「よーし、皆いるかー? 朝礼始めるから全員席に着けよー」
いつも通りの時間。担任の教師がお決まりの言葉を口にする。
俺はスマホの画面を閉じて、ポケットの奥に捻じ込んだ。
とりあえず、後は学校が終わってからだ。
そう考え、先ずは普段通りの日常へと意識を向ける。
……だから俺は気付かなかった。
ソフィアがまた、俺の方を見ていた事に。
「……何て、馬鹿な奴なの」
その時の俺は、そんな彼女の呟きは聞こえていなかった。
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