第12話:悪鬼
駅前にほど近い場所にある雑居ビル。
寂れている――というには、あまりに不自然に人は少ない。
けれど、それを誰もおかしいとは思わない。
五階建てのビルは、看板だけは掲げられていてもどの階ももぬけの殻で。
ただ一つ、最上階にだけは人の気配があった。
いや……それを「人の気配」と表するのは、果たして正しいのか。
「――おい、もういっぺん言ってみろよ」
「牙噛金融」という看板が掲げられた事務所。
フロアの半分近くを専有する社長室にて。
その主である男は、獣の唸り声に似た低い声を漏らした。
その男――
胸元を開いた赤と金に彩られた薄手のシャツ。
ズボンには銀色のチェーンをじゃらじゃらとぶら下げている。
よく観察すれば、鎖には宝石があしらわれている事に気付くだろう。
逆立った髪も金に染め上げ、目元は黒いサングラスで覆っていた。
全ての指に複数の指輪を嵌め、首に下げられているのは純金のネックレスだ。
そこらのチンピラの方がまだ、品性を感じられる格好をしているだろう。
「き、キバさん……俺は、その」
「耳が腐ってんのか、テメェ。俺はもう一度言ってみろって言ったんだぞ」
尊大な態度でソファーに身を沈める牙噛。
それに対して、正面の床に座らされた男は静かに震えていた。
昨夜、カナデとミサキに悪魔を始末されたチンピラだ。
そいつはまともに顔を上げる事も、声を出す事もロクにできない有様だ。
同じ応接室にいる、牙噛の舎弟である黒服の男が二人。
彼らも沈黙したまま、死相の浮かんだチンピラに同情の視線を向けていた。
これから屠殺される豚肉に、一体どれほどの価値があるのか。
「――まぁまぁ、そんなに脅かす事はないだろう?
見なよ、彼もすっかり怯えてしまって。これじゃ話すのもまともに話せないよ」
場違いにも程がある、朗らかで明るい少女の声。
それは牙噛の背後から聞こえてきた。
「テメェは黙ってろよ、オレが話してンだろ」
「だけど君に任せてたら、恫喝ばかりで話が進まないだろう?」
笑う声は本当に楽しげで、舌打ちをしてから牙噛は後ろに視線を向けた。
可憐な少女だった――少なくとも見た目だけは。
外見の年齢は十六歳ほど。短めのスカートに派手な色合いの服。
髪の色は基本的には黒だが、角度によって金と銀に変化する。
両目は固く閉じているが、それで問題なく「見えている」ようだった。
「ワタシの意見に誤りはあるかな? キバガミ?」
「……チッ、まぁ間違っちゃいないか」
にこやかに語る少女に、牙噛はため息と共に頷く。
黒服二人は何も言わない。視線を向ける事さえしなかった。
そもそも彼らには、少女の姿は見えていない。
「さて、名前は――何だったかな?
まぁいいや。ほら、スマホを出してテウルギアを起動してみるといい」
「は、はいっ!!」
牙噛が契約している悪魔。チンピラはその詳細は何も知らない。
何も知らないが、恐ろしい怪物である事は知っていた。
震える手でスマホを操作しながら、視線を巡らせる。
無駄に広い室内に飾られた幾つかの立像。
それは全て、裸の女のものだった。
キラキラと輝く金色の像。まるで生きているみたいに精巧な――。
「……そんなに怖がらなくても大丈夫」
耳元で囁く声。チンピラは自分の心臓が跳ね上がる音を聞いた。
テウルギアが起動したスマホの画面。
そこには、満面の笑みを見せる悪魔の顔があった。
「君をあんな金ピカの像に変えようなんて思っていないからね!
だからそう、何一つ怖がることなんて無いんだよ?」
少女の形をした悪魔は笑う。
この部屋に飾られている金の立像。
それらは全て、元々は生きた人間だった。
方法は不明だが、この悪魔の少女の仕業なのは間違いない。
チンピラが契約していた悪魔とは、比較にならないほどの上級悪魔。
牙噛の命令一つで、チンピラの人生は呆気なく終わるだろう。
「オイ、注意した奴がもっとビビらせてどうすんだよお前」
「おやおや? 別に脅かしたつもりはないんだけどねぇ」
「どうだかな」
わざとらしい少女の態度に、牙噛はため息を吐いた。
サングラスに隠れた眼で、跪くチンピラを見る。
手元のスマホでは、確かにテウルギアが起動しているが……。
「もう一度確認するが、お前の悪魔はどうした?」
「で、ですから、殺されちまったんですよ……!!」
「殺されたって、誰にやられた?」
「こ、高校生ぐらいの男のガキで、そいつが連れてた黒い女の悪魔に」
「……悪魔を殺す、黒い女の悪魔か」
チンピラの言葉を、牙噛は小さく繰り返す。
「おい、テウルギアの悪魔は殺せば死ぬんだったか?」
「普通は死なないね。
仮に悪魔同士で戦って負けたとしても、実体が砕かれるだけ。
復活には相応の時間が掛かるけどね」
「なら、これは復活に時間が掛かってんのか?」
「……いや、違うな」
少女はチンピラの持つスマホに顔を近づける。
それから匂いを嗅ぐように、何度か鼻先を鳴らした。
「テウルギアから、契約した悪魔の気配が消えてる。
殺されたっていうのは、多分事実かな」
自らの契約悪魔の言葉に、牙噛は沈黙した。
空気そのものが粘つく水に変わったような重圧。
黒服たちもチンピラも、口を閉ざしている事しかできなかった。
「……《
ぽつりと、牙噛はその名を口にした。
その意味を正しく知っているのは、この場では契約している悪魔のみ。
「黒い女の悪魔に、普通は死ぬはずのないテウルギアの悪魔の殺害。
特徴としては大分クリティカルに合致してるね?」
「仲間内じゃ有名な話だ。正体不明の悪魔殺し。
上級悪魔と契約してた奴が何人もやられてやがる。
なのにそれをやった奴が何者なのか、顔を見た奴すら一人もいない。
まったくふざけた野郎だ」
忌々しげに牙噛は語る。
けれどその口元には、獰猛な笑みが刻まれていた。
「言動と表情が一致してませんなぁマスター?」
「……奴らしき相手が、暫く前からオレのシマを荒らすようになった。
尻尾も掴めない内に鳴りを潜めちまったがな。
それから今まで、雑魚どもを餌代わりにばら撒いて待ってたんだよ」
やっと獲物らしき相手が引っ掛かったと、牙嚙は喜色満面の様子だ。
――《
その脅威に晒された者たちが語る「噂話」からついた渾名だった。
曰く、スモーカーは決して敵に姿を見せない。
大抵は大量の煙幕など、執拗なまでの目眩ましと共に現れる。
狙われた契約者は、例外なく手持ちの悪魔を殺された。
手段は不明、スモーカー自身は誰も見た事がない。
辛うじて、黒い服を来た悪魔らしき女が目撃された程度だ。
いつしか、姿の見えない殺し屋は《
今や契約者たちの間では、《燻し屋》の名は死神の代名詞だ。
そんな大物が、とうとう自分の縄張りに現れた。
好戦的で野心家な牙噛は、当然の如く猛った。
しかし闇雲に襲い掛かるほど、この男も愚かではない。
煙の中に潜む敵を捕えようと網を張り続け――そして今に至る。
「随分と掛かったが、努力がようやく実るってわけだ。ここまで焦らされたぜ」
「おめでとう、で良いのかな? けどちょっとばかり妙じゃないかい?」
「……ま、そうだな」
悪魔の言葉を否定せず、牙噛は小さく唸る。
黙っているチンピラをぎろりと睨んで。
「おい」
「は、はいっ!!」
「女の悪魔と一緒にいたのは、間違いなく男のガキだったんだな?」
「は、はいっ。た、多分、高校生ぐらいじゃないかと……」
しどろもどろに答えるチンピラ。
その哀れな様を睨みつけたまま、牙噛は再び考え込む。
思考を見透かしたように、少女の形をした悪魔は笑った。
「伝説の殺し屋の正体が、実は男子高校生だった――なんて。
流石に俄に信じがたい?」
「今の今まで、姿すらまともに確認できてない相手だ。
それがここに来て、雑魚相手にくだらないミスをするか?
罠じゃないかと疑いたくもなるだろ」
「人間誰しも間違いはあるからねぇ」
ケラケラと笑う少女に、牙噛はまた舌打ちを一つ。
「――とはいえ、死なない悪魔を殺す悪魔なんて。そう滅多にいるとも思えない」
「それに関しちゃ同感だな。
特徴からしても、その女は十中八九はスモーカーの契約悪魔だ」
「謎はあるけれど、マスターの標的なのは間違いなさそうかな?」
「やっと捕まえた尻尾だ。絶対に引き摺り出してやる」
戦意を猛らせる契約者の様を、悪魔は満足そうに眺める。
そうしてから、ふと思い出した体で足元に顔を向けた。
未だに跪いたままのチンピラ。悪魔の閉じた両眼がその姿を見ていた。
「で、キバガミ。気分良さそうなとこ悪いけど、彼の処遇はどうするの?」
「ひっ……!」
「あー、そうだったな。忘れてたわ」
本気で忘れていた様子の牙噛は、面倒そうな顔でチンピラを見る。
出来ればそのまま忘れていて欲しかった――などと考えても、全て手遅れだ。
震える男に、牙噛はため息を一つ。
「ま、どうでも良いっちゃどうでも良いしなぁ」
「えっ……」
心底興味もなさそうに言い捨てる牙噛。
チンピラの方は、逆に希望に満ちた様子で顔を上げる。
この地獄の窯から生きて脱出できる。それ以外に望むことなど何もないと――。
「あぁ、でも一つ聞いておかないとな。
確か言ったと思うんだよなぁ、契約者を見つけても手出しすンなって」
「ぁ――そ、それは……」
「お前とか、雑魚が突っかかって返り討ちじゃあ色々無駄だろ?
そう思ったからわざわざ言っておいたのによ。
今回、お前は偶々生きて帰って来たが、そうでなかったらどうなる?
貴重な情報を抱えたまま死なれたら、命令したオレが間抜けみたいだろ」
牙噛の言葉に、チンピラはまた顔を下に向けて俯いた。
悪魔の少女はニヤニヤと笑うばかり。
「お前はどういう流れで、そのガキと女悪魔とヤり合う羽目になったんだ?
まさかオレの言いつけを破って――なんて、馬鹿なことは言わないよなぁ」
「き、キバさん、俺は……」
「おっと、待てよ。まぁ待て。
今からオレはお前に大事なことを言わなきゃならないんだ。
答える前に良く聞いておけよ、兄弟」
さっきまでとは一転して、優しく宥める声。
震えるチンピラに、牙噛は噛んで含めるように続ける。
「相手を騙すのは良い。何故なら騙される方が間抜けだからだ。
けど嘘はダメだ。嘘ってのは吐いた相手を舐めてるって事だからな。
“適当に言えば丸め込めちまう間抜け野郎”だって侮ってるのと同じだ。
ソイツは良くない、お前だって気分が悪いだろ?」
「そ、それは、ハイっ」
「よしよし。繰り返すが、嘘はダメだ。じゃあ改めて聞くぞ。
お前は何で、手持ちの悪魔を殺される羽目になっちまったんだ?」
正直に答えて、命令を都合良く無視したと認めるか。
それとも嘘を吐いてこの場を凌ぐか。
問われた一瞬で、チンピラは大いに悩み抜いた。
或いは男の人生において、最も苦悩した瞬間かもしれない。
「あ――アイツらの方から、突っかかって来たんですよ。
俺は仕方なく応戦して……」
「そうか。まぁ、相手が本当にスモーカーだったら契約者を見逃さないだろうしな」
「そ、そうですよ。だから――」
だから、と。
何かを言おうとしたチンピラだったが、その機会は永遠に訪れなかった。
ギシリと、男は自分の身体が軋む音を聞いた。
「……オレは忠告したのになぁ。嘘はダメだってよ」
呆れた顔で、牙噛は息を吐いた。
チンピラは自らに何が起こったのか、理解する暇もなかったろう。
理解する前に、その身体はゴトリと床を転がった。
さっきまでは生きて喋っていた男。
それが今や、肌の色を鈍い黒に染めて動かなくなっていた。
全てを見ていた黒服二人は戦慄に身を震わせた。
倒れたチンピラは、身体の全てが鉛の塊に変貌していたのだ。
「私の《
こうして嘘吐きの『価値』に見合った鉱物になっちゃうんだよ?
あぁ、もう聞こえてないか!」
無様に横たわる鉛を見下ろして、悪魔はケラケラと笑った。
牙噛はつまらなそうに一瞥するだけ。
「まったく、退屈な見世物だったな。おい、お前ら」
「は、ハイ!」
「サツのガサ入れだが、後始末はお前らで済ませとけ。
オレは獲物を追う。手ェ煩わせんなよ」
「了解です!」
「ったく、ちょっと稼いだだけですぐに嗅ぎつけて来やがる。
何もかも悪魔頼りってわけにもいかねェしなぁ」
「ねぇねぇ、マスター? コレ、食べてしまっても構わないかな?」
そう言って悪魔の少女が指差すのは、足下に転がった鉛の男だ。
食べるというのは、比喩でもなんでもない。
彼女は鉱物に変化した犠牲者を、その言葉通りに「食べる」事を好んでいた。
「別に良いが、急げよ。ベール」
「勿論さ! すぐに済ませるからちょっと待っていて!」
嬉しそうに笑う悪魔の少女――ベールは、その眼を開いていた。
瞼の下には眼球はなく、ただ黒々とした闇だけがある。
己が異形を晒して、ベールはおもむろに鉛の腕をもぎ取った。
それを大きく開けた口で、バリバリと齧り取る。
地獄のような光景を見ても、牙噛は眉一つ動かすことはない。
「いやはや、マスターの器が広くてワタシは大助かりだよ。
普通の契約者なら、ここまで許してくれないだろうしねェ」
「ふん、煽てても何も出ねェぞ」
「常から自慢してる『ソロモン王の再来!』とかでもダメ?」
「オレにとっちゃ、それは当たり前の事だからな。誉め言葉にはならねぇよ」
冗談めかした悪魔に、牙噛は自尊心をたっぷりと含んだ笑みで応える。
ソロモン王――かつて七十二柱の悪魔を従えた偉大な王。
牙噛は、自分こそがソロモンの器だと自負していた。
その正しさを示すように、牙噛の背後には幾つもの異形の影が揺れている。
「まだ七十二柱とは行かないがな。だからこそ、もっと力をつけなきゃならねぇ。
そのためにも、デカい獲物を狩る必要がある」
サングラスに隠れた眼は、まだ見ぬ標的に狙いを定めていた。
契約者たちを震え上がらせる伝説。
死神を狩り殺す喜びに、牙噛みは打ち震える。
「必ず見つけ出して、その『価値』をこの手で残らず奪い取ってやる。
覚悟しろよ、《
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