第11話:夜が明けて


 その日は、赤い夢は見なかった。

 身体は酷く疲れていたようで、眠りが相応に深かったのもある。

 それでも覚醒は、いつも決まった時間に訪れた。

 朝、目覚ましが鳴り出す五分前に目が覚める。

 意識はまだハッキリしないが、夢を見なかったという自覚だけはあった。

 頬が涙に濡れていない朝は、一体何時ぶりだろう。

 

「……俺は……」


 何かを呟こうとして、それは言葉にならなかった。

 寝て起きたのに、身体の芯にはまだ疲労が残っている。

 そもそも、いつ眠ったのかが思い出せない。

 俺は確か、昨日――。

 

「おはよう、カナデ」

「うわっ!?」


 本当に、心底ビックリした。

 この寝室には、俺しかいないはずなのに。

 軽い音を立てて、スマホは設定された時間の訪れを告げる。

 声が聞こえたのはもう一つのスマホ。

 使い込まれて古びた、女性が使っていたようなそれ。

 思わず胸を抑える俺を、スマホの声はクスクスと笑ってみせた。


「流石に驚き過ぎだよ、カナデ」

「あー……いや、その」

「……まさか私を忘れた、なんて言わないだろうね?  流石にそれは傷つくな」

 

 冗談っぽくは言っているけれど。

 それが割と本気な言葉だと直感して、俺は慌てて首を横に振った。


「大丈夫、覚えてる。

 というか、あんな事があったばかりで忘れるわけがないだろ?」

「分からないよ、記憶なんてのは曖昧で不確かだ。

 あんなのは悪い夢だって、そう思い込んで都合よく忘れてしまうかもしれない」


 なかなか反論が難しいことを言われてしまった。

 ……確かに、昨夜の出来事を「実は悪い夢だったんだよ」と。

 そう思い込んでしまっても、それはそれで不思議な話じゃない。

 それぐらいに現実から乖離した夜ではあった。


「……忘れない、忘れてないよ。ミサキ。

 生活費の一年分が飛んだ事は、できれば夢にしたいけど」

「残念ながらそれも現実だよ」

「爽やかな目覚めで泣けて来るな」


 起き抜けに一体何の話をしているやら。

 俺もミサキも、堪え切れずに吹き出してしまった。


「はー……おはよう、ミサキ」

「あぁ、いつ言ってくれるのかとドキドキしていたよ」

「悪かったよ。寝起きはあまりよろしくないんだ」


 言葉を交わしながら、枕元のスマホを手に取る。

 自分のではなく、テウルギアの入っている方のスマホだ。

 声は聞こえても、こっちのカメラを通さないとミサキの姿は見えない。

 やっぱり不便だなと思いつつ、画面を見て――。


「ぶっ」

 

 今度は別の意味で吹き出した。

 画面の中ではミサキがニヤニヤと笑っている。


「おや、どうしたのかな?」

「どうしたって……!?」


 慌ててカメラを逸らすが、さっき見た光景が頭から離れない。

 ミサキはすぐ傍にいた――なんなら、半ば毛布の中に潜り込んでいた。

 そこまではまだ良い、いや良くはないけど。

 問題は、毛布に入り込んだ挙句に服を脱いでいた事だ。


「なんで脱いでんの!?」

「あの服装のままじゃ寝にくいだろう?

  まぁ悪魔の私に睡眠は必要ないんだけど」

「じゃあなんで脱いでんの!?」

 

 悪戯にしても度が過ぎる。

 いやでも、スマホのカメラを止めたらミサキの姿は見えなくなる。

 白い肌とか、思いっきり頭の中に残ってるけど、それでこれ以上の被害は……。


「あぁ。今、君の背中の方にくっついてるよ。

 許可してくれるなら触れるんだけどな?」


 ベッドから派手に転げ落ちた。

 いやもう、ホントに勘弁して下さい。

 健全な男子高校生にやって良い仕打ちじゃない。


「カナデ、大丈夫?」

「大丈夫なんでちゃんと服を着て貰えませんかね……!?」

「うん、悪かった。反応が楽しくて、ついね。謝るから、許して欲しい」


 ぶつけた頭を抑えつつ、とりあえずベッドに這い上がった。

 流石にミサキも反省したか、ちょっと申し訳なさそうな声が聞こえてくる。

 言ってることは殊勝だけども。


「ホントに? ちゃんと服着てるか?」

「うん、着てる着てる」

「着てるけど下着だけとか言わない?」

「言わないって。……しかし、私の身体はそんなに見たくなかったかな?」

「答え分かり切っててそんな事聞くのはマジで勘弁して下さい」


 本当に心底困るから。

 クスクスと、また楽しげな声。


「冗談だよ、すまないね。――ほら、もう大丈夫だから」

「…………なら」


 もう一度スマホを手に取り操作する。

 カメラを起動して、改めてミサキを画面の中に収めた。

 そこには見慣れた――というのも、少しばかりおかしいけれど。

 兎も角、昨日と同じセーラー服姿の彼女がいた。


「朝からなかなか面白かったよ。ありがとう、カナデ」

「今みたいなのはできれば一回だけでお願いします……」

「分かったよ、二度はやらない」

 

 それはつまり、「今度は別の手を考える」という悪魔の宣言だった。

 起きたばかりなのに頭が痛くなってくる。

 ……よし、話題を変えよう。

 というか、いい加減に支度を始めないと。


「ん、もう起きるのかな?」

「平日で学校あるしね」


 おじさんの金で通わせて貰ってる身だ。

 勉学に熱心ってわけじゃないな、おじさんの厚意を無駄にしたくはない。


「……思ったより凄い奴かもね、君は」

「??」


 よく分からない事を言われてしまった。

 画面の中では、ミサキが呆れたように笑っている。


「あんな目に遭って、昨日の今日で『学校があるから』なんて。

 なかなかまともに言えることじゃないよ?」

「……そうかな」

「そうだよ」


 言われてみれば、確かにあまりまともな話じゃないかもしれない。

 夢を見ていたような気分だから、というのはある。

 現実だと理解はしていても、感覚が追いついていないというか。

 何故か、「それはそれ」として無意識に受け入れている自分もいた。


「……俺は、頭がおかしくなってると思う?」

「なら私は、君という狂人が見ている白昼夢かな?」

「違うと断言するには、昨日色々と見すぎたな」


 悪魔なんて、狂人の夢と言われたら反論できない。

 果たして俺は正気なのか、イカレてるのか。

 ただ、間違いなく言える事は。


「カナデ」

「ん?」

「触れても良いかな」

「……あぁ、良いよ」


 すぐに、見えない熱が片手を包む。

 テウルギアの画面で見れば、ミサキが俺の手を握っていた。

 その手に、恐ろしい牙の並んだ口がある事を知っている。

 今は黒い手袋に隠れているけど。


「……私のことが恐ろしいかな?」

「少しだけ」

「正直な奴だね、君は」


 クスクスと笑うミサキに、こちらも釣られて笑ってしまう。

 此処にはいないのに、此処にいる彼女。

 目には見えず、あり得ない力を持つ悪魔の少女。

 恐ろしくないわけがない。


「少しだけだよ。本当に、少しだけ」

「……ホントに正直な奴だよ、君は」


 笑いながら、画面の中でミサキが手を伸ばす。

 頬を指先で撫でられた感触。

 ……そういえば、こんな距離感で誰かに触られたのは久しぶりだ。

 この家ではずっと一人で、学校の友人とはここまで近くで接したりはしない。

 気付くと、ちょっとだけ泣きたくなった。


「……カナデ?」

「や、何でもない。

 ……それより、朝ごはんにしようか。用意するけど、ミサキも食べる?」

「私が作らなくても良いのかい?」

「昨日の夕飯をご馳走して貰ったばかりだし」


 一応、今ここの家主は俺なわけだし。

 それが世話されてばかりというのは格好が付かない。


「ん……そうか、そういう事なら頂こうかな?」

「大したもの出せないから、そこら期待しないで欲しい」

「君の手料理ってだけで私には値千金だよ?」


 流石にその比喩は大げさ過ぎる。

 お互いに笑って、やっとベッドの上から抜け出した。

 手には彼女の熱が、まだ触れている。

 見えない手を握り返す、というのは思いの外難しかった。

 彼女がまた笑った気がするけど、それは気にしないでおく。


『――続いてのニュースです。

 県警は指定暴力団「牙噛組」に対し、事務所の家宅捜索に踏み切りました。

 これは麻薬取締法違反を含め、幾つもの不法行為に関連した疑いがあり……』


 今日の朝食のメニューは、いつもと変わらずトーストと目玉焼き。

 違うのは一人前ではなく二人前である事。

 普段使っていない皿に盛りつけ、マグカップも二つ分出しておく。

 適当に付けたテレビと、そこから流れてくる地元のニュース。

 昨日は派手に暴れた気がするけど、特に何の騒ぎにもなっていないようだ。


「悪魔同士の争いだからね。普通の人間には何も感じ取れないよ」

「……やっぱり、そういうものなのか」


 誰にも知られず、誰にも気付かれる事もなく。

 こんな事がこれまでも起こっていたのか。

 テーブルの上に朝食を並べながら、一つ息を吐く。

 見た目は誰も座っていない椅子。

 その向かい側に腰を下ろしてから、スマホのカメラを向ける。

 画面の中で、椅子に腰を下ろしたミサキが微笑んでいた。


「どうぞ、大したものじゃないけど」

「そんな事はないよ。それじゃあ、ありがたく頂きます」


 手を合わせてから、彼女はトーストを手に取る。

 それだけ見ればただの人間と変わらない。

 現実では何もないのに、トーストや目玉焼きが消えて行く怪奇現象だ。

 こちらも座ってから手を合わせる。

 誰かと共に朝を過ごす、というのも久しぶりだ。

 いつ以来なのか思い出せないぐらいに。


「……普通に食べてるけど、悪魔も腹は減るのか?」

「さぁ。少なくとも私は物理的に空腹を感じたりはしないよ。

 これも『価値』だから、摂取する意味はあるけどね」

「『価値』か」


 悪魔が必要とするモノ。

 昨夜、生活費一年分を課金で突っ込んだのを思い出す。

 必要な事とはいえ、アレはやっぱり痛かったな。

 偶にニュースで見る、凄い額をソシャゲに使ってしまった話をもう笑えない。


「この世のあらゆるモノには『価値』がある。

 だから極論、悪魔はどんなものでも『価値』として消費できる。

 けど、当然なんでもかんでも食べられるわけじゃない」

「制限があると?」

「その通り。説明した通り、悪魔はこの世界の『理』から外れた存在だ。

 だから悪魔の方から物理的な干渉を行う事はできない。

 契約者の命令がなければ私たちは無力な存在だ」


 ミサキに、あの馬耳の悪魔――オロバス。

 どっちも人間なんて目じゃないぐらい恐ろしく、強大な存在だった。

 しかしどちらも悪魔な以上、契約者の命令がなければ何もする事ができない。

 それが大前提なようだ。


「だから悪魔が『価値』を得る方法は主に二つ。

 契約者が、契約者自身の所有する『価値』を悪魔に捧げるか。

 或いは、契約者に命じられた上で『価値』を悪魔が奪い取るか」

「前者は分かりやすいよな。課金とか、その朝食とか」


 契約者の同意があれば、契約者が持っている物は悪魔に与える事ができる。

 なら、後者の「奪い取る」というのは……。


「例えば、悪魔を使っての強盗や殺人。悪魔が行った事は、常人には認識できない。

 お金や宝石、そして殺した相手の魂。

 そうしたものも『奪った』なら、契約者が『所有した』という扱いになる。

 これを悪魔に『価値』として食わせる事も可能なんだよ」

 

 一気に、腹の底が冷たくなった気がした。

 ……誰にも認識されない喪失。

 あれはつまり、そういう事なのだろう。

 綺麗に朝食を食べ終えて、ミサキは両手を合わせる。


「……ただ、『奪う』という方法は手軽な分だけデメリットもある。

 強引に奪い取った物というのは本来より『価値』が低くなってしまう」

「そうなのか?」

「あぁ。だから無暗に奪い取るのは逆に効率が悪いんだよ。

 悪目立ちして、他の契約者に目を付けられるリスクもある」

「成る程……」


 まぁ、確かに。

 それが一番効率的なら、それこそ悪魔による大量虐殺が横行してしまう。

 そうなっていないのには理由があるわけか。


「ま、非効率でもやる奴はやるだろうけどね。

 実際に、この街にはその手の悪魔契約者がいるはずだ」

 

 昨日遭遇したチンピラや、まだ見ぬオロバスの契約者。

 夢の中のような出来事だけど、あれはすべて現実だ。

 俺もまた、ミサキと契約を交わした悪魔契約者テウルギスト

 ……おじさんも、倒れる前はこの理不尽な現実の中にいたのか?


「――ほら。話したい事や、聞きたい事はまだまだあるだろうけど。

 学校に行くんだろう? そろそろ準備しないと拙くないかい?」

「っ、そうだった……!」


 ついボーっと話し込んでしまった。

 そう慌てる時間ではないにしても、のんびりもしていられない。

 残った朝食を急いで詰め込んでいる俺を、画面の中でミサキは眺めている。


「あ。私も一緒に付いて行くから、そのつもりで」

「はい?」

「おや、そんなに不思議な顔をする事かい?」


 とんでもない事を言われた気がして、思わず手が止まった。

 ミサキは変わらず笑顔のまま。


「私は君と契約したのだから、主人に同行するのは当然の義務だろう?

 ――ほら、ボーっとしてないで早く食べてしまいなよ。カナデ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る