第8話:異戒律


「な――なんだよ、これ」


 呆然とした顔で、チンピラは呟いた。

 視線は手元のスマホと、何もない空間を行き来する。

 さっきまで、燃える影の悪魔がいた場所。

 カメラで取っても、そこには暗い色のアスファルトしかない。


「なんだよ、どういう事だよ……!?」


 チンピラの叫びはもう悲鳴と大差なかった。

 金切り声に驚く俺とは対照的に、ミサキは淡く微笑んでいる。

 溜飲も下がって、少しすっきりした顔だ。


「オイふざけんなよ悪魔! 返事しやがれよっ!

 お前をこんだけデカくするのに、一体幾ら突っ込んだと……っ」

「無駄だよ、おバカさん」


 失笑を含んだ声で、ミサキは語りかける。

 チンピラは真っ青になった顔を上げ、それからスマホの画面を見る。

 何度も何度も確認をして。


「あ、ありえねェだろ……一体なんなんだよ、お前っ!?」

「何と聞かれても、私は見ての通りだよ」

!!」

「星……?」


 その言葉だけは気になった。

 悪魔の位階は星の数で分かると、確か公式の説明にあった記憶がある。

 星がない――それはどういう事なのか。

 ミサキも悪魔であるなら、位階が存在するはずだけど……。


「お前には関係ない話だよ。それよりも、少しは喜んだらどうかな?」

「は? よ、喜ぶ?」

「そう。君の悪魔は私が喰い殺した」

「喰い……殺した?」


 意味が分からない。

 俺とチンピラの思考は、この時だけは全く同一だった。

 ゆっくりとした足取りで、ミサキは男に近づく。

 刺さるような殺意は、俺でも感じられるほどだった。

 ……これは、ちょっと拙いのでは。


「テウルギアを喪失した場合、契約悪魔によって契約者の魂は奪われる。

 けど今、私の手でお前の悪魔は死んだ。

 ――おめでとう。死の遊戯からの生還だよ。

 契約相手がいなければ、罰則はそもそも適用されない」


 チンピラは何も言えなかった。蛇に睨まれた蛙そのままに。

 腰は抜けていないけど、足は竦んで動けないようだ。

 そんな無力な獲物に、ミサキの手が伸びる。

 燃える影の首を一瞬でもぎ取った、白くて細い指が。


「契約不履行で死ぬ事はない。けど、最初に襲ってきたのはお前の方だ。

 当然、覚悟はできてるだろう?」

「っ、ミサキ!」

 

 嫌な予感が的中した。彼女は、あのチンピラを殺す気だ。

 殺されそうにはなったが、だからってこっちが殺したいわけじゃない。

 だから、どうにか止めようとして。


「――――」

 

 それより早く、ミサキは動きを止めた。

 ビビり過ぎて声も出ないチンピラなんか、もう視界に入れていない。

 彼女は辺りをざっと見回して――。


「……しまった、こんな距離まで気付かないなんて」

「? ミサキ?」

「カナデ、すぐに逃げよう」

 

 状況が呑み込めない。

 そんな俺の前にミサキが駆け寄って来た。

 画面に見える表情には、明らかに焦りの色があった。


「早く、逃げるよう私に命じるんだ!」

「逃げるって、一体何から――」

「やぁ、実に良い夜だね」


 女の声は、頭上から降ってきた。

 民家の屋根。その上に人影が佇んでいる。

 他に誰の姿もなく、闇夜の下にいるのはただ一人。


「あまりにも良い夜だから、ちょっと散歩に出たんだけど。

 どうやらなかなか愉快な場面に出くわしたらしい」

 

 夜の暗闇に浮かぶような人影シルエット

 その人物は屋根の上から軽い動作で飛び降りる。

 着地も軽やかで、僅かな音もしなかった。


「誰だ、お前は」

「さて、名乗るほどの者じゃあないかな? お嬢さん」

 

 殺意を込めたミサキの視線。

 それをまともに受けながら、その人物は平然としていた。

 ……最初は普通の人間かと思った。

 だが違う。

 相手の姿は現実にはいないのに、テウルギアの画面には映り込んでいる。

 悪魔だ、テウルギアの悪魔。

 さっきとチンピラが従えていたのと違い、見た目はほぼ人間だった。

 けど人でない特徴が、見える範囲でも幾つかある。

 その中で特に気になるのは……。


「……耳と、尻尾?」


 つい言葉として口に出してしまった。

 言われた方は、気を悪くした様子もなく笑って。


「なかなかお目が高いね、名も知らぬ契約者くん。

 あぁ、別に名乗らなくても良いよ? 今夜限りの付き合いかもしれないからね」

 

 笑っている。このまま殺すと、そう取れる言葉と共に。

 傍らのミサキが凄まじい怒気を放つ。


「私は誰だと聞いてるんだけど?」

「通りすがりだよ。ただし悪魔の、だけどね。

 ちなみにこの耳と尻尾は馬なので、犬猫とは間違えないでくれたまえ」

 

 そ、そうなんだ。確かに、言われて見れば馬っぽい。

 黒い耳と尾に、同じ色の髪は肩ぐらいの長さ。

 顔立ちはミサキに負けず劣らずの美人だ。

 ただこちらは、どちらかというと凛々しさが目立つ。背は女性としては高めだ。

 それで、格好だけど……なんというか、王子様だった。

 派手な男装というか、宝塚とかでありそうな。

 夜の住宅街には酷く不釣り合いだが、似合っているのは間違いない。

 ……しかし。


「馬耳と尻尾で、王子様っぽい男装の麗人……どこかで……」

「おぉっと、それ以上はいけないぞ少年!」


 記憶を妙に刺激されたが、当の本人に止めらてしまった。

 立ち振る舞いは優雅で、敵意は微塵も感じられない。

 怪しい――怪しい人物、というか悪魔だけど。

 見たところ、悪い相手には……。


「カナデ、しっかりするんだっ!!」

 

 ミサキの声は、思考を包んでいた薄い靄を切り裂いた。

 心臓の鼓動が跳ね上がる。


「ッ……は……!?」


 呼吸が乱れ、意識が揺れる。待て、俺は何を考えてた?

 混乱する脳みそは鈍い痛みを訴えている。

 馬耳の麗人は、変わらず人好きのする笑顔を浮かべていた。


相方パートナーは良い対応だね。

 けど、少年の方はちょっと油断し過ぎかな?

 今みたいに声だけで魅了チャームを仕掛けてくる相手もいるんだ。

 気を付けたまえよ?」


 今のは、この悪魔が俺に何かをした結果なのか。

 多分、最初に声を掛けられた時点で影響されていたんだ。

 こんな危機的状況で、馬鹿なことを考えてしまったのもそのせいか。

 恐ろしい。派手な炎だとか、そんな破壊的な力じゃない。

 けど何気ない言葉一つで、他人の意思を操れるなんて……!

 しかも反応からして、今のはこの悪魔にとってはちょっとした小技なんだ。

 だから破られても逆に面白がっている。

 画面の中、ミサキは俺を背に庇いながら前に出た。

 

「お前……!」

「おや、ちょっと怒り過ぎじゃないかな? からかっただけなのにな」


 クスクスと笑う馬耳の悪魔。ミサキは明らかに冷静さを失っていた。

 それでも闇雲に突っ込んだりはせず、ジリジリと間合いを詰める。

 何かのきっかけ一つでもあれば、すぐにでも――。


「化け物に付き合ってられるかよっ!!」


 ヤケクソ気味に叫んで、チンピラが脱兎の如く逃げ出す。

 それに一瞬だけ、悪魔の意識が向いた。

 だから俺は。

 

「ミサキ、逃げよう!!」

 

 そう迷わず彼女に命令した。

 表情こそ驚いていたけど、ミサキの反応は迅速だ。

 即座に俺を抱えて。その場から。


「――今のは良い判断だったよ、少年」

「な……っ!?」


 声は驚くほど間近から聞こえて来た。

 間違いなく、動き出したのはミサキの方が早かった。

 にも関わらず、画面には馬耳悪魔の姿でいっぱいになっている。


「けど残念。ボクにこの手の不意打ちは通じないんだ」


 優しげな声だが、現実は容赦がない。

 右手に構えた細身の直剣、その切っ先は俺を狙っている。

 ヤバい、とてもじゃないけど逃げる暇が……!


「ッ……!!」


 金属の砕ける音と衝撃。

 強い力に押される形で、俺は道路の上を転がる。

 身体は打っても、スマホだけは絶対に離さないように。


「……なるほど?」


 笑う声は、馬耳悪魔のものだった。

 頭がクラクラするが、目を回している余裕はない。

 どうにか立ち上がって、カメラで正面の空間を捉える。

 画面に映るのは二人の悪魔。

 再び、俺をその背に庇って立ち塞がるミサキ。

 馬耳の手に握られている細い剣は、その刀身が半ばから砕けていた。

 面白そうに笑って、馬耳は手の中で剣をくるりと回す。


「さっきの雑魚を潰したのも、その『手』の力かな?」


 ミサキは応えない。

 無言のまま煮え滾る怒りを全身から放っている。

 それにしても、「手」とは……?


「っ……ミサキ、それは」

「あんまりジロジロ見ないで欲しいな、恥ずかしいから」


 視線は馬耳に向けたまま。

 ほんの少しだけ冗談めかして彼女は応える。

 手。俺の位置から見えるのは、ミサキの右手。

 その手のひらに「口」があった。

 人間の口のようで、並んでいるのは殆ど犬歯――牙だ。

 黒い手袋で隠していたのはコレだったのかと、今さらながらに気付く。


「それが君の《異戒律ドミニオン》かい?

 右手と左手、両方とも口が付いてるみたいだけど。

 力もそれぞれ別物なのかな?」

「答えると思う?」

「いやいや、まさか。聞くまでもなく、直接確かめれば良いだけだしね」

 

 異戒律ドミニオン

 また知らない単語――ではあるけど。

 話の流れ的に、悪魔が持つ特殊能力とかそういうのか。

 ミサキは両方の手のひらに付いている口。

 悪魔の首をもぎ取ったり、馬耳の剣を圧し折ったり。

 詳しくは不明だけど、それをやったのは手の口で間違いない。

 

「まぁ――とはいえ、だ。見せて貰ってばかりじゃ、ボクとしても申し訳ない」

 

 馬耳が動いた。折れていたはずの剣は、既に元通りに治っていた。

 まるで中世の騎士みたいな鮮やかな動作で。

 見た目の印象通りに、馬耳は剣を自在に操ってみせる。


「……そうだ」


 悪魔の位階は星の数で確認できる。

 テウルギアの画面を見て、映し出されている馬耳の辺りを指で触れる。

 ポップアップした「悪魔の概要を確認する」の項目。

 これをクリックして――表示された。

 多くは「不明」とだけ書かれた馬耳の情報。

 その中で可視化されているのは位階を示す星の数だけ。

 その数は――七つ。第七階位、伯爵カウント級の悪魔。

 

「ボクも、少しぐらいは手の内を見せて上げようか。

 ――まぁ、君らが死ななければ、だけどね」

 

 名前も知らない馬耳の悪魔。

 彼女は美しく、艶やかに――そして残酷な微笑みを浮かべてみせた。

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