第7話:チュートリアル


「オラ! さっさと焼け死んじまえよ!!」


 聞くに堪えない罵声。そんなものに構ってる余裕はない。

 人気のない夜道を、俺は必死に逃げていた。

 肉眼では見ることのできない炎。見えないのに、熱だけは感じ取れる。

 まともに喰らえば容易く焼け死ぬ。

 炎上していた死体の様子は、頭の奥にこびりついていた。


「ハハハハ! キバさんにゃ契約者には手ェ出すなとか言われてたけどよ。

 お前みたいな雑魚がいるなんてホントラッキーだぜ!」

 

 応えている暇はない。急げ、逃げろ。

 見えないけれど、俺の後ろには悪魔がいる。

 炎を纏うペラペラとした影人間。

 アプリの画面で確認した時、顔らしい部分には何もなかった。

 それでも何となく理解できた。

 ――アイツは、笑っていたんだ。

 獲物を見つけて舌なめずりをする、獣みたいに。


「逃げてばかりでいいのかな、カナデ?」

「っ……ミサキ……!?」


 声。画面は見てないので、位置は分からない。

 けどミサキは間違いなく傍にいる。


「ハハハハ、どうしたよ!

 契約者だったら自分の契約悪魔ぐらい出さねェのか!?」

「え……」


 煽るチンピラの言葉には、微かに違和感があった。

 逃げるばかりの俺と違って、向こうは悠々と獲物を追う側だ。

 状況を認識するため、スマホのカメラも構えているはず。

 なのに、ミサキの事が見えてない?



 浮かんだ疑問に、彼女は即座に応えてくれる。


「悪魔の基本能力、って言えば良いのかな?

 姿や気配を隠したり、声を望んだ相手以外には聞こえなくしたり。

 私はあんまり器用な方じゃないけど、このぐらいはね?」

「それじゃあ、つまり……っ」

「今、貴方に話しかけてる私の声は、あの男には聞こえてないね」

「逃げながら独り言とは、頭がイカれちまったのか! オイ!」

 

 チンピラの反応が、ミサキの言葉が真実である事を示していた。

 背中越しに熱が迫って来るのを感じる。

 死の予感に脅かされ、反射的に地面へと身を投げ出した。

 

「痛っ……!」

 

 頭からのダイブ。腕で庇いながら、全身をアスファルトに打ち付ける。

 すぐ上を不可視の熱が過ぎり、服の一部が軽く焼け焦げた。

 本当にギリギリで避けられたようだ。

 それを見て、チンピラは軽く舌打ちをした。


「面倒臭ェ。夜中に男相手に鬼ごっことか趣味じゃねぇんだよ。

 一気に丸焼きにしてやっから、大人しくしろよ」


 つまらなそうに言いながら、チンピラは半笑いで俺を見ている。

 地面から起き上がり、スマートフォンを確認。

 庇ったおかげで、傷は一つも見当たらない。

 一先ず、スマホの破損で死ぬ事はなくなった。


「……あ? オイコラ、なに睨んでンだよ」

 

 恐怖で震え出すのをどうにか堪えて、威嚇するチンピラを見る。

 今、コイツはどうして……。

 

「追撃してこなかった、でしょう?」

 

 スマホから流れているのに、耳元で聞こえるミサキの声。

 彼女は酷く愉快そうに笑っていた。

 

「簡単さ、悪魔に力を使わせすぎてポイントが切れちゃったんだよ。

 ほら見て、今操作してるの分かる?」

「……あぁ」


 俺を睨んだまま、チンピラはチラチラとスマホを見ていた。

 怪我もしてボロボロの俺に対し、相手の悪魔は何もして来ない。


「アイツ、課金の操作をしてるね。

 悪魔は契約者の命令に従うけど、何かさせるには『価値』が必要。

 課金するのは良いけど、ご利用は計画的にって奴だね」


 クスクスと笑うミサキからは、何の緊張感も感じられない。

 明らかに、悪魔の少女はこの状況を楽しんでいた。


「素人め。連れてる悪魔も第三階位の影人シャドウだ。

 恐らく正式な契約を結んだばかりの悪魔契約者テウルギスト

 おや、立場的には君と同じかな?」

 

 ミサキは心底愉快そうに笑っていた。


「カナデ、ちゃんとスマートフォンを構えて。

 テウルギアを通じてでしか、君は悪魔が見えないのだから」

「っ……わ、分かった」

「良い子だ。あぁ勿論、逃げるって選択肢はあるよ。

 相手は素人だし、ちょっと逃げ続ければすぐにポイントも尽きる。

 流石にそうなれば向こうも諦めるかもしれない」

 

 言いたいことは分かる。

 正直に言えば、今も心臓は潰れそうなぐらいに痛い。

 誰にも気付かれない死体。悪魔によって虫食いにされた街。

 見えない炎、悪魔契約者。

 生々しいぐらいの恐怖で、頭がどうにかなりそうだった。

 

「俺が、逃げて……それで、もし。

 全然無関係な人と出くわして、アイツがそれを襲ったら?」

「君には関係ないだろう?」

「関係なくても、ダメだ……っ。そんなの、絶対吐くほど後悔する」

 

 死ぬのは嫌だ。悪魔との戦いなんて、理解したとは言い難い。

 それでも、気付いてしまったから。

 気付いてしまった以上、見えない死体が増えるのはキツい。

 しかもそれが、俺の目の前でなんて。

 とてもじゃないけど、堪えられる自信がない。


「恐怖からの逃避のために、今戦う事を選ぶ――か。

 良いね、ちゃんと男の子だな。カナデ」


 それは優しい声だった。悪魔らしいけど、悪魔らしくない。

 胸の奥が痛んだのは、果たして気のせいだろうか?

 スマホの画面にミサキの背中が映る。

 どうするつもりかなんて、聞くまでもなく明白だった。


「っし、やっとポイントが反映されやがった。

 何でこんな操作が手間なんだか。

 あぁ。テメェ、逃げずにいたのは褒めて――」

「主命を、カナデ。君はただ意思を示せば良い。言うべき事は一つだけだ」

 

 チンピラの寝言は耳に入らない。

 震えを奥歯で噛み潰し、俺は力の限り声を張り上げた。

 彼女が望む主命オーダーを。

 

「戦ってくれ、ミサキ……!」

「あぁ、主命は受諾した。

 今夜は静かで良い夜だから、速やかに終わらせてしまおう」

 

 靴音を高く鳴らして、ミサキは前へと踏み出す。

 優雅さすら感じる動作で両手を覆う黒い手袋を外しながら。

 そこで初めて、チンピラの視線が動いた。

 俺やスマホの画面ではなく、ミサキに向けて。


「……あ? 何だよ、女――?」

「御機嫌よう、ゴミカス」


 こっちからは見えないが、きっとミサキは微笑んでいる。

 微笑んでいるけど、その眼は笑っていないだろう。

 甘く蕩ける声には明らかに敵意と憤怒が混じっていたからだ。


「宣言した通りだ。お前には聞こえてなかっただろうけど」


 散歩するのと変わらない足取りで、ミサキは無造作に距離を詰める。

 チンピラもそれは見えていたし、悪魔も反応していた。

 影の纏う炎が激しさを増し、蛇みたいに蠢く。

 死体一つをあっという間に燃やしてしまった火力。

 こんなもの、まともに受けたら……!


「――速やかに、終わらせようか」


 その一言が幕開けで、同時に幕引きの合図だった。

 ゴリッ、とか。多分そんな音だったと思う。

 カメラが一瞬ミサキを見失い、生々しく重たい音が夜道に響いた。

 俺も相手のチンピラも、何が起こったのかすぐには分からなかった。

 ただ、炎が消えた。あんなに熱く燃えていた炎が。

 影に似た悪魔がぐらりと揺れる。

 火が消えたついでみたいに、首から上も無くした姿で。


「大して美味くもなかったけど、一応言っておくよ。

 ――ご馳走様でした」


 餞の言葉と同時に、悪魔は崩れ落ちた。

 首のない亡骸は、そのままテウルギアの画面からも消えた。

 後には何の痕跡も残らない。

 最初っからこの世にはいなかったみたいに。


「ほら、カナデ?」

「えっ、あ、うん!」


 呆気に取られていたところで、不意に名を呼ばれた。

 驚いて飛び上がってしまった俺を、ミサキが見ていた。

 チンピラも、消えた悪魔も放っておいて。

 彼女は俺を見ていた。そして微笑みながら一言。

 

「私は強いだろう?」

 

 ……言葉もないとは、まさに今の俺の事だった。

 こちらが絶句する様子に、ミサキは実に得意げな顔だ。

 ついさっきまで命懸けだった事への、恐怖だとか緊張だとか。

 この瞬間だけはどちらも吹っ飛んでしまった。


「……あぁ。良く分からないけど、凄かった」

「そうだろうとも」

 

 頷くと、彼女は満足そうに笑ってみせた。

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