第1話:赤い夢を見る



 今日も俺は赤い夢を見ている。

 燃えているから赤いのか、血が流れているから赤いのか。

 何も分からないまま、ただ赤い色の中に沈んでいる。

 どれだけ恐ろしくても、これは夢だ。

 目覚めれば、欠片も残さず忘れてしまう。

 泡沫の光景から、俺は目を逸らすことが出来なかった。


「――こんな契約を望んだわけではないっ!!」

 

 誰かが叫んでいた。

 強く頼もしく、今は痛みと苦しみに満ちた男の声。

 大好きな人の声だった。それは分かるのに、誰なのか思い出せない。

 何もかも、赤く塗られて判然としない。


「――だとしても、これは望んで結ばれたもの。

 契約そのものに瑕疵は一つもない」


 その声は、■■■のものだった。

 けど、少しだけ■■■とは違う気もする。

 ……いやそもそも、■■■って誰のことだ?

 全てが赤い世界。何も出来ずに、俺は夢を見ている。

 目覚めたら、全ては泡と消えるだけ。


「……大丈夫。もう、何も怖がることはないから」


 そんな赤色の中で、いつの間にか黒い少女が微笑みかけてきた。

 誰か分からないけど、その言葉に救われた気持ちになる。

 ――君は一体、誰なんだ?

 夢に問いかけるなんて、無意味にも程がある行為だ。

 そのはずなのに――。


「忘れて良いよ。今はまだ、忘れたままで構わない」


 赤い世界で、少女は答える。

 この問いもまた夢の一部に過ぎないのか。

 分からない――分からないまま、赤と黒は遠のく。朝が近い。


「けど、この夢を見ている事だけは忘れないで欲しい。

 いつか君が、私と――」


 声は、最後まで届くことはなかった。

 忘れては駄目だと、頭では理解している。

 それでも朝は、何もかもを真っ白に染め上げてしまうのだ。


「…………ん……?」

 

 全てを忘れて、また朝を迎える。

 自分しかいない家の、自分だけの部屋。

 机、本棚、クローゼット、電灯、ベッド。

 あとはそのベッドで寝ている自分と、枕元のスマートフォン。

 部屋にあるのは、それで全部。

 閉じたカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいた。


「……また、泣いてたのか」


 涙で濡れた目元を拭う。

 悲しい夢を見たせいなのか、辛い夢を見たせいなのか。

 涙の理由はベッドの上には遺っていない。

 無駄に水分を垂れ流しただけの俺が、眠気でぼんやりしてるだけ。

 少し遅れて鳴り出したスマホのアラーム。

 一秒で止めてから、大きく伸びをした。


 「……起きるか」


 学校に行くにはまだ早い。けど、家にいるのは俺だけだ。

 朝食を含めて、支度は先に済ませた方が良い。

 重い頭を振って、ややふらつく足で部屋から出る。

 今日も変わらない一日が始まる。


『今日一番運勢の良い星座は――てんびん座のあなたでーす!』


 テレビに映っている朝のニュース番組。

 雑な星占いのを聞き流しながら、一人分の朝食を手早く用意する。

 重ねられた食器から、普段使うものだけを取り出した。

 焼いた食パン、マーガリンは多め。

 小鉢に卵と水を入れ、レンジにかける。爆発だけは注意、後片付けが面倒だ。

 あとはマグカップに豆乳と珈琲を注ぐ。

 準備を済ませたら、一人だけの食事に取り掛かる。


「世の中ロクなもんじゃないなぁ……」


 流れるニュースの内容は、良くない話ばかりだった。

 流行りのウイルス性の病気で何人死んだ。

 暴走車が人ごみに突っ込んで何人死んだ。

 頭のおかしい奴が何処かの誰かを殺した。

 昨日も今日も、多分明日も。誰かの死んだ話ばかりをテレビは流し続ける。

 ……きっと、この世に神様なんていやしないんだな。

 なんて、考えるだけで気が滅入ってしまいそうだ。

 残りのパンを呑み込んだら、後は聞き流す。

 今日の天気だけ確認して、テレビの電源を落とした。今日は快晴だ。


「洗濯物も干しておくか」


 学校から帰る頃には、十分乾いているだろう。

 余裕を持って起きたのに、毎度のことながら朝の時間は忙しない。

 やる事を一通り済ませたら、学校へ行く支度だ。

 制服に袖を通したら、鏡で身だしなみをチェックする。


「…………」


 洗面台の鏡に映るのは、まだ十六――そろそろ十七になる小僧だ。

 顔が良いわけでもないし、背が高いわけでもない。

 髪だって、精々寝ぐせを直すぐらいしか手を入れた事もない。

 身体付きは、背こそ高くないがそれなりにしっかりとしている。

 自慢じゃないが、趣味で続けているトレーニングの成果だ。

 運動部には所属していないので、本当に自己満足の範囲でしかないけど。


「……ヨシ」


 おかしいところはない、という自己判断。

 鏡の中の自分にびしっと指を差したら、朝の時間は終了だ。


「いってきます」


 俺以外には誰もいない家。

 当然、その言葉に応えてくれる人間はいない。

 それでも習慣として口にしながら、玄関から家の外へと出る。

 晴れた空は、日差しが少し眩しい。

 暑い夏は通り過ぎて、秋に変わろうという時期。もう大分過ごしやすい気候だ。

 家から学校まで距離があるので、通学は徒歩ではなく自転車だ。

 人気が少ない道を走り抜ける。

 この辺りは、出来てそう間もない住宅街。軽く見渡しても新しい家屋も多い。

 けど、何故か住んでいる人間は少ないので静かなものだ。

 暫く行けば大きな通りに出て、他の通学中の生徒とも顔を合わせるけど。


「よーし、皆いるかー?

 朝礼始めるから全員席に着けよー」


 学校に到着して、教室に入る。三分の一は空白となっている座席。

 俺の席は窓際で、比較的に後ろの方。

 軽い挨拶や雑談をしている内に、担任の教師がやってきた。

 特別な事はなく、生徒たちは言われた通りに席に座り、大人しく授業を聞く。

 態度がイマイチ宜しくないのもいるが、素行不良って程でもない。

 ……まぁ、俺が真面目かと言うとそんな事はないのだけど。

 頭が良いつもりはないけど、勉強に困った事もあまりなかった。

 だから今も、授業は半分ぐらいしか聞いてない。

 教師もそこまで熱心でもないので、生徒の態度は二の次だ。

 時折、黒板の内容をノートに写しながら視線を巡らせる。

 例えば、窓の外から見える空。

 例えば、授業中の教室の中。

 例えば、人のいない廊下。

 静かな学校を、ぼんやりと眺めていると……。


「…………」


 いつもの通り、「彼女」と目が合った。

 このクラス一……いや学校一番の美少女が、この教室にはいる。

 名前はソフィア、ソフィア=アグリッピナ。

 バリバリに外国人な名前だけど、一応日本の血も入ってるらしい。

 ただ、見た目は日本人離れを通り越して人間離れした美形だ。

 肩の辺りまで伸ばした、キラキラと光る金髪。

 肌の色は白く、だけど不健康さとは無縁な生命力を感じさせる。

 顔の造形に関しても、十人いれば十五人ぐらいは振り向きそうだ。

 少女らしい幼さもあるが、その上で兎に角美人だ。

 ずーっと見ていても飽きないだろうか、いや流石にずっとは飽きるか?


「…………」


 なんて考えながら、彼女――ソフィアと暫し見つめ合う。

 ソフィアとは別に、友達というわけでもなかった。

 同じクラスだし、挨拶ぐらいはする。

 けど、必要以上に会話をした覚えはまったくない。

 ただこうして目が合うと、大体こういう状態になる。

 不思議と、ジロジロ見るなと文句を付けられたりもしていない。

 お互いに何かを言うでもなく、黙って相手の眼を見続ける。

 周りはこのやり取り(?)に気付いているんだろうか?

 少なくとも、教師に注意された記憶もなかった。


「――――」


 最初に目を逸らすのは、決まってソフィアの方だ。

 小さく何かを呟いてから、興味を失ったように視線を外す。

 多分、聞かせるつもりはないんだろう。

 あるいは、独り言を呟いてる自覚もないのかもしれない。

 ……大した事はないけど、これでも耳は良い方だ。

 だからかろうじて、彼女が何を言ってるのかは聞き取れていた。

 それは一字一句、いつもと変わらない定型文。


「――日野 カナデ。今日も特別な異常行動は確認できず」


 日野 カナデは、間違いなく俺の名前だった。

 彼女に観察……いや、監視されてる?

 学校一番の天才児で、男女問わずに人気者の彼女に?

 いやいや、そんな馬鹿な。

 きっと気のせいだし、今の言葉だって俺の聞き間違いだろう。

 今日だって、昨日と同じ何もない一日が続くだけ。

 それは明日も明後日も、その先もずっと。


「――日野、この問題解けるか?」

「あ、すいません。聞いてませんでした」

「堂々と言うな、バカ」


 いきなり教師に指名されたので、素直にボーっとしてた事を伝える。

 名前もうろ覚えな男性教師は呆れ顔だ。

 そのやり取りがツボに入ったか、何人かの含み笑いも聞こえた。

 ソフィアだけは、もうこっちを見もせずに無表情のまま。

 いつも朗らかに笑って、愛想よく振る舞う優しいソフィア=アグリッピナ。

 そんな彼女のあんな顔を知ってるのは、俺だけではないかと。

 馬鹿な事を考えながら、意識は黒板に踊る数字の羅列に向ける。

 ……それからは、やっぱり特に何事もなく。

 ソフィアに話しかける機会なんてのも、当然訪れずに。

 いつもと変わらない学校での時間は、文字通りあっという間に過ぎていった。

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