大根サラダの夜
サブロー
第1話
良い包丁を買ったのは、だめになっていく自分をなんとかしたかったからだ。
ひと月前、突然盲腸になった。
なんだか腹がおかしいな、から始まって、帰宅して風呂から上がったところで我慢できないほどの痛みに襲われた。救急車に乗ったのは初めてで、けれど痛みに気を取られて、結構車内が狭いな、と感じた以外はあまり覚えていない。
痛みの割に手術はあっけないもので、わずか五日で退院することになった。入院中、見舞いは誰も来なかった。遠く離れて暮らす両親と姉から「不摂生のせいだ」とお小言を食らったくらいで、ひたすらベッドに座ってテレビを見ていた。ワイドショーをじっくり観るのも、新聞の広告欄を余すところまで読むのも初めてだった。それくらい、俺は「暇」というものの使い方が分からなかった。
上司の勧めで、退院からさらに一週間休んだ。けれど就職してからというもの、職場と自宅のアパートの行き来しかしていなかった俺は、またもや空白の時間を持て余した。スウェット姿のまま近所を散歩してみたけれど、散歩をするのに適した道すら知らなかった。俺が知っているのは、駅とアパートの最短ルートだけだ。
せっかくの休みだから、と思い、俺は自炊をするべく近所のスーパーへ向かった。うちには調味料すら満足に揃っていない。いつも飯はコンビニか外食で済ませるから、近所といえどスーパーのどこに何が売っているのかが分からなかった。
だんだん目的のものを探すことに疲れてきて、俺は目についたもずくをかごに入れた。とりあえず、これは健康的なもの。自炊をする気力は完全に萎えていた。次に、ぶらぶら歩いた先にあった納豆を手に取った。種類の多さに驚いたが、二年前によく食べていたパッケージがあったから、それにした。これもまた、文句なしに健康的。
あとは適当に惣菜を買って……とその場から離れようとしたとき、突然横から「あのう」声を掛けられた。見れば七十代くらいの爺さんが、困った顔をして豆腐を手に持っていた。細くてわずかに背中が丸く、頭の白髪は薄い。爺さんは内緒話でもするように、声をひそめて俺に聞いた。
「麻婆豆腐って、木綿ですか、絹ですか」
「え」
「ちょっと分からなくて」
爺さんは困っているようだった。けれど俺も困った。どちらを使うかなんて、俺も知らない。木綿と絹の違いを意識したことすらない。俺にとって、麻婆豆腐は外で食べたり誰かに作ってもらうもので、自分で作る料理ではなかった。
爺さんの腕に提げられたかごには、レトルトの麻婆豆腐の素と挽き肉が入っていた。爺さんがそんなものを自分で作ろうと思った理由を頭のなかであれこれ考えてみたが、正解なんて分かるはずもない。ただ、ぶるぶると震える手で尋ねる爺さんの姿に憐れみに近い感情が湧き上がってきて、慌ててそれを打ち消した。
周囲には、正解を知っているだろう女性たちがたくさんいた。でも、爺さんは俺に訊いてきた。きっと、こんな質問を女性にするのは恥ずかしいと思っているのだ。俺にはその気持ちがなんとなく分かる。
「……ちょっと失礼しますね」
爺さんを真似て小声で応え、俺は爺さんのかごに収まるレトルトの裏面を見た。「材料」の欄には「豆腐一丁」としか書いていない。明確な正解はないらしい。一瞬「どっちでもいいみたいですよ」と言いかけて、その言葉は飲み込んだ。
「木綿です」
まるでパッケージの箱にそう書いていたかのように、俺は告げた。爺さんは安心したように口の端を引き上げて「すみません」と頭を下げる。そして手に持っていた豆腐をかごに入れて、ひょこひょこと野菜売り場の方に歩いて行った。
まだ惣菜は買えていなかったが、それ以上スーパーに留まる気にはなれなかった。
数十年後の自分を見てしまったような気がして。
二週間ぶりに会社へ行くと、上司や同僚から適当にからかわれて、その後はいつも通りの業務がやってきた。病み上がり扱いをされたのはわずか数分だ。ノートパソコンを開けば未読のメールが山ほど貯まっていた。きっと俺がいなくても、大きな問題はなかった。でも誰がいなくなっても同じだ。少しだけ誰かが迷惑して、そのうち皆慣れてしまう。それでも生活していくために、俺はその席に座り続けていたいと思う。
次の土日で、良い包丁を買った。
良い包丁といっても、俺の家に置いてある数百円の安物よりは良いもの、という意味だ。以前、料理に目覚めたという同僚が言っていた。高い包丁を使うと、自分が料理上手になった気になるから料理が楽しくなるんだ、と。
俺は同僚の言葉を鵜呑みにすることにした。形から入るのも悪くないと思って。ネットで適当に調べて、初心者向けだというものを買った。箱から出してみると、持ち手のところまで刃と同じ素材でできていて、自分でも驚くくらい気分が上がった。プロの道具みたいだ。
あの爺さんの姿を何度も思い出した。
生きていく上で、飯なんてカロリーを取れればそれでいいと思っていた。でも、このままコンビニに頼る生活を続けていれば、俺はじわじわとだめになっていくと予感した。数十年後、スーパーを彷徨う自分を想像して薄ら寒くなる。どこに何があるかも分からず、プライドが邪魔をしてその所在も聞けず、正しい食材を選び取れなくなる将来が待っている。
だから俺は、包丁を買った。自分でも飛躍した考えだとは思う。でも、なにかを変えてみたいと思った。一念発起というやつだ。
しかしいざ道具を手にしたからといって、たちまち料理の達人になれるはずもない。そもそも何を作ればいいのかが、俺には分からなかった。ネットで初心者向けのレシピを探してみても、いまいちピンと来ない。献立を思いつくためには、基礎的な知識が必要なのだと、初めて知った。
それから一週間経っても、俺は何も思いつけなかった。そもそも、食に対する執着が薄い自覚はある。とにかくスーパーへ行けばひらめきがあるかもしれないと思い、アパートから二番目に近い店へ行った。
包丁の切れ味を試すなら野菜かな、とぼんやり考えていると、入口のところに大根が山積みになっていた。今が旬で、特価だというポップが目に入る。「煮物にするとおいしい」という別のポップを見て、ふとブリ大根を作ろうと思いついた。そして、自分がブリ大根を好きだったということも、あわせて思い出す。長い間、少なくともここ二年は、ずっと忘れていたことが。
ポケットからスマホを取り出し、ブリ大根に必要なものを調べた。カラフルなページに指示されるまま、俺は材料をかごへ入れていく。ブリと、生姜と。醤油は家にある。みりんと酒は自信がないから買った。大根一本はさすがに多いと思ったが、上半分と下半分のどちらを使えばいいのか分からなくて、大きく見える上半分の方を買った。買い物とは、こんなに選択の機会が多いものだったのか。
家に帰ってすぐに、スマホを横に置いて腕をまくった。料理なんていつからしていないのだろう。妙に緊張している自分に気がついた。
――ここの台所、狭くて使いづらい。
よく耳にした文句を思い出した。あいつはいつもそう言って、けれど楽しそうに笑っていた。狭いと言いながら、あいつは器用にいくつも料理を作ってみせた。料理が好きな奴だった。特に和食が得意で……ブリ大根をよく作っていた。
それも、二年前までのことだ。
あいつと初めて会ったのは大学に入ってすぐのころだ。同じ学科で、やたらと授業が同じで、ついでに映画の趣味が合った。ひとりでいるより、ふたりでいる方が楽だった。
そのうち毎日一緒に過ごすようになって、ある日突然「好きだ」と言われた。あいつはゲイだった。好きだと言った舌の根が乾かぬうちに、あいつは「でも友達のままでいい」と続けてきて、俺は思わず笑ってしまった。俺はそんな風にあいつを見たことがなかったから戸惑ったけれど、一緒にいたい気持ちの方が強くて、恋人同士になった。
初めて肌を合わせたとき、「男同士でもできるんだな」と感動して言ったら、あいつは少しだけ泣いた。面倒くさくて、でもそれが愛おしいと思った。
仲の良い恋人だったと思う。俺は間違いなくあいつのことが好きだった。あいつが誰かと話しているといちいち嫉妬したし、あいつもそうだった。色んなところに行って、たくさんのことを話した。だから、社会人になると同時に同居したのは、自然な流れだった。
学生の恋愛と社会人の恋愛は違った。
入社してからの三年間、俺はひたすら業務に追われた。毎日毎日遅くまで残って、それでも仕事は終わらない。当時、組んでいたのは不機嫌を隠さない最悪な上司だった。家に帰っても上司のため息と怒鳴り声が耳の奥で鳴っている気がして、俺はだんだん余裕のない人間になっていた。
一方で、あいつは穏やかなままだった。俺より良い会社に入って、毎日定時に上がり、給料も良い。毎晩料理を作り、俺が帰るまで待っている。理想的な恋人だ。でも、俺にはそれが窮屈だった。
――いいよ、家事は俺がやるから。
そう声を掛けられるたび、役立たずだと言われている気がした。俺の被害妄想だ。あいつは悪くない。むしろ俺は助けられている。理性がそう囁いても、疲れ切った頭は徐々に攻撃的になっていく。
毎日あいつから送られてくる「今日は何食べたい?」というメッセージが負担だった。何も食べたいものなんかない。カロリーさえ取れれば。話なんてしたくない。顔色を窺うお前を見たくない。ただ、さっさと寝たいんだ。お前と違って、俺は明日も遅くまで仕事なんだから。
俺の態度に、あいつはそのうち食べたいものを俺に訊かなくなった。その代わり、「今日は鯖が安かったので鯖を焼きます」というように、その日の献立を送ってくるようになった。そのころには、俺はもうどうでもよくなっていた。いつも苛々して、あいつと肌を合わせることもなくなっていた。あいつはそれでも、毎晩俺を待っていた。
今日はブリ大根にする、とメッセージが送られてきた日のことだ。
アパートに帰ると日付が変わる直前だった。あいつはいつも通りに引きつった笑顔を浮かべて、「おかえり」と声を掛けてきた。
こいつ、なんで俺と暮らしてるんだろ。
疲れ切った頭で、そんなことを思った。俺より優秀で、気が利く男。仕事が忙しいくらいで当たり散らす俺と何のために暮らしているんだろう。
テーブルに着くと、あいつはてきぱきと料理を並べ始める。ブリ大根と聞いていたのに、ブリは照り焼きで、大根は細切りのサラダになっていた。
「大根はさ、今日はサラダの方がいいなって」
あいつは弾んだ声で言った。腹を立てる部分なんてひとつもなかった。思っていたものと違う料理が出てきただけだ。それなのに、そんな些細なことに俺は苛立ち、「いらねえ」と呟いた。
「もういやだ、お前」
うんざりだった。
あいつのこまやかな気遣いや優しさが、窮屈でたまらなかった。そしてなによりも、それを受け取れない自分の惨めさが苦しかった。
優しくしたいのに、楽しく笑い合いたいのに、それができない。なぜできないのかが分からない。その方法を思い出すことさえ億劫だった。
「ひとりになりたいんだよ」
みっともなく泣きながら、俺は言った。あいつの前で泣いたのは、それが最初で最後だったと思う。俺はずっとうつむいていて、最後にはテーブルに突っ伏していたから、あいつがどんな顔をしているのかなんて分からなかった。
ひどいことをしている、という気持ちは心の片隅にあったけれど、俺は自分を優先させた。もうなにもかもがいやだった。ひとりになって、なにも考えずに過ごしたかった。
あいつは静かに俺の背中を撫でていた。そんなときまで、あいつは優しかった。そしてその次の月、あいつはこの部屋を出て行った。
「…………」
それが、二年前のことだ。
俺はあれから部署異動になって、忙しいけれどあの頃よりはまともな生活を送っている。あいつとはあれきり連絡を取っていない。謝るタイミングは逃してしまった。俺は前よりましになったから、戻ってこいよ。そんな台詞で、一体誰が戻ってきてくれるというのか。
静かな生活には慣れてしまった。むなしいだけで、寂しくはない。好きだったひとを深く傷つけておいて、俺は素知らぬ顔で生活を続けている。
スマホの画面をスクロールしていくと、大根を切れという指示があった。買ってきたばかりの立派な大根を、百均で買ったまな板の上に載せる。皮を剥けとも書いていたが、それは後回しにすることにした。
真新しい包丁を握って、大根をつかみ、ゆっくりと刃を埋めていく。
気持ちいいくらいに刃は繊維を断ち切っていった。ほとんど力を込めなくても、刃を滑らせるだけで大根はふたつに分かれた。俺は静かに感動した。やっぱり、良い包丁は違う。
ふと、大根の断面に視線を落とした。
真っ白なそこからは、じわじわと瑞々しい水分が滲み出てきていた。蛍光灯の光が、断面を照らす。つい先ほどまで土から水を吸い上げていたような、そんな新鮮さを感じる姿だった。
きっと、このまま生で食べてもおいしい。
本能的にそう思った。スーパーで売られている状態では分からなかったが、自分で刃を通すことで気づいた。そして、あいつの言葉を思い出す。
「……これは、サラダだな」
本当のことなんて分からない。でも、二年前のあの日、あいつもこの場所で、同じことを感じたのかもしれない。おいしそうだと思って、予定を変えてサラダにした。おいしいものを食べさせたいと思う相手は、あいつにとって俺だった。
ひどいことをした。最低なことをした。
後悔はいつだって、手遅れになってからやってくる。
ブリ大根はやめた。
代わりに細切りの大根サラダと、ブリの照り焼きを作った。細切りサラダなんていうのは名ばかりで、俺はあいつみたいに針のように細くは切れなかったし、ブリは生臭かった。
あいつがいるときは冷蔵庫には色んな種類のドレッシングがあったけれど、買い忘れたから仕方なく塩こしょうを振った。それでも、大根はそれなりに美味い。
あいつは料理が上手かった。
自分で同じ場所に立ち、同じものを作って、改めて分かる。
俺はあいつが羨ましかった。自分より良い環境で働くあいつが、俺を見下しているように見えていた。自分が疲れていることを言い訳にした。最悪の恋人だったと思う。それを認めたところで、どうにもならないのだけれど。
俺は今でも、あいつのことが好きなんだろうか。
二年の間に、俺の心は前よりもずっと見えにくくなっていた。
◆
そしてまた、俺はスーパーへと立ち寄った。
最近は仕事帰りにスーツ姿で寄っている。アパートから一番近い店より、二番目に近いこの店の方が野菜が新鮮だということも覚えた。
包丁の切れ味は変わらず良い。今度同僚に研ぎ方を教えてもらうことになっている。
けれど分からないことは、まだまだある。
三日前、今度こそとブリ大根を作ったが、また生臭かった。ネットに書いてあるとおりにやったのに。気合いで食べきったが、そろそろブリが嫌いになりそうだ。
そんなことを思いながら、俺はブリを睨みつけていた。今日は切り身三枚入りしか残っていない。そんなに食わないし、そもそも生臭さの原因を突き止める方が先だ。
周囲を歩く女性方に方法を乞うべきか、と俺は考えていたそのとき。
横に男が立った。
手を伸ばして、俺が見つめていたブリのパックを取る。
「……三枚かあ」
買おうかどうか、迷っている声。聞き覚えのある声だった。何年もずっと、隣で聞いた声だ。
思わず横を見た。気配に気づいた男もこちらを見る。目が合って、しばらく互いに黙り込む。
「……ブリが」
言い訳のように言葉が出た。あいつはそれを固まったまま聞いていた。だから、俺はそのまま続けた。
「……生臭いんだけど、どうしたらいいかな」
大根サラダの夜 サブロー @saburo_moon
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