第43話 ずっと傍に

 アースラの叫びが収束してからしばらくして、ずり、と、足を引きずる音がした。


 ミレイユの頭を膝に乗せ、髪を梳くように撫でていたアースラは、視線だけを音の元に向けた。そこにいたのは全身ボロボロになったヴァルターだった。


 剣で体を支え、神妙な顔でアースラを見つめている。アースラはしばしそれを力なく眺めた後、ミレイユに視線を戻した。


「どっか行って」


 無感動な声で命じる。ヴァルターは咳き込み、困惑しながら俯いた。


「しかし……」

「行ってったら! もう、二度と妾にその顔を見せるんじゃないわよ」

「アースラ様……」


 アースラは唇を噛んだ。失いたくなかった。こんな形で何よりも大切な人と、信頼してきた部下の両方を失うなんて、耐えられない。


 しかしそれ以上に耐えられないのは、ミレイユの仇であるヴァルターと共に軍に戻り、何事もなかったように過ごす日々だ。そんなものを受け入れるくらいなら、今すぐここで死んだ方が遥かにマシだ。


「命令よ。従いなさい」

「……承知」


 ヴァルターは最後の命令を受け入れ、恭しく頭を垂れた。ヴァルターが立ち去った後、アースラはそっとミレイユを抱きしめた。


 その体は冷たい。優しく抱きしめてくれたミレイユの温もりと、穏やかな声色を思い出しては涙が溜まっていく。強く、強くミレイユを抱きしめて、アースラは鼻をすすった。


「目を覚ましてちょうだい、ミレイユ……」


 当然のように、返事はない。それでも、言い募ってしまうのだ。どうしても。


「妾は、アンタがいないと……」


 氷のように冷え切った体に、アースラの涙がいくつも落ちて滑っていく。泣いて、泣いて、それでも涙は止まらない。死んでしまったと認めたくないのに、認めなければならない。


 分かっている。いくら悲しんだところで、ミレイユは帰ってこないと。それでもミレイユの死を受け入れてしまったら、ミレイユが記憶の中だけの存在になって、本当に離れ離れになってしまうような気がした。だから、こうして無意味な悪あがきをしてしまう。


「……ミレイユ」


 ミレイユの手をそっと掴んで、アースラは自分の頬にその手を触れさせた。ミレイユはこうして慈しむように頬を撫でながら、うっとりと目を細めて幸せそうに笑っていた。どんな時も瑞々しい表情を見せてくれたのに、もう、何の反応も返ってこない。


「いつものアンタなら、妾を撫でてくれるじゃない……」


 声を張る力もなく、呟きは弱く震えた。体中を巡る血が、喪失感で一気に冷えていく。ミレイユの手のひらに頬をすりつけながら、アースラは掠れた声で小さく笑った。


「初めてミレイユに愛された時と……真逆ね」


 しばらく女性を抱いてないせいで、ミレイユが体調を崩した日。あの日、ミレイユは甘い熱の奔流でアースラを包んだ。呼吸さえままならなくなるくらいキスをして、重ねた肌に伝わる鼓動は激しくて。今のように、静かで、寒々しさを感じる時間とは、無縁だった。


「……」


 まばたきと同時に涙が落ちる。アースラは頬を濡らす涙をそのままに、ミレイユと唇を重ねた。柔らかな感触は何も変わらないのに、あの日、桃の味がしたミレイユの唇は、涙に濡れて塩辛いだけだった。


「っ……ミレイユ……!」


 ボロッと涙が溢れ、落ちていく。いくら泣いても悲しさは引いてくれない。ミレイユの姿は涙でぼやけてしまって、よく見えなくなってしまった。脱力して項垂うなだれる。掴んでいたミレイユの手は、するりとアースラの手から抜け落ちてしまった。


 アースラは目を閉じて、肩を揺らして泣いた。ミレイユを好きにならなければ、こんなに辛い思いをしなくて済んだのかもしれない。死の瞬間に少し胸は痛んでも、きっといつまでも引きずらないで、さっさと気持ちを切り替えていた。


 だけど。


「アンタと一緒にいて……好きにならないなんて……そんなの、妾には出来ないわよ……」


 呪いが発動しなくても、ミレイユに笑っていてほしいと願っていた。何を気にする事もなく、ミレイユが自然と、心の底から幸せだと思いながら笑ってくれたら、それだけでアースラも満足していた。


 ミレイユを失って、どんなに苦痛に悶えても、好きだという気持ちは消せない。もしもこの思いを消してしまったら、それは自分とは言えない。どんなに辛くても悲しくても、ミレイユを思い続けていたかった。それくらい、好きだから。


 アースラが嗚咽を漏らしていると、ふと、頬に何かが触れた気がした。涙が流れ続けて感覚がおかしくなっているのかもしれない。涙を拭おうと頬へ手を伸ばしたアースラは、ハッとして目を見開いた。


 頬に触れる前に、他の何かが指先に当たった。それは手だった。ついさっき、アースラの手中から抜け落ちたはずの、白くたおやかな手。


 うそ、と無意識の内に漏れた呟きは、空気ばかりで声はほとんど乗らなかった。大粒の涙が、また頬を滑った。それは傷ついた心から滴り落ちる涙ではなく、凍りついた心が溶けて、春のような温もりに震えて溢れた涙だった。


「……スラ……さ……?」

「ミレイユ!」


 アースラの頬に伸ばされた手をきつく掴んで、その名を叫んだ。呼ばれたミレイユはスゥ、と深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。そして、いつものように優しく微笑んだ。


「はい。どうしましたか、アースラさん」


 気遣うような声色に、余計に涙がこみ上げた。夢でも見ているのかと思った。もう、この声は聞けないのだと、諦めなければいけなかったのに。またこうして、名前を呼んでくれた。


 それだけで、こんなにも。


「う、うぅぅぅ……っ」

「ア、アースラさん、そんなに泣いたら目がパンパンになっちゃいますよ」

「泣かないでいられるわけないでしょ!?」


 オロオロと心配するミレイユを見て安心したせいか、ワッと涙が出てきて止まらなかった。


「だって、だってアンタ、あんなに……そうよ、傷は!?」

「傷?」


 はて、とミレイユは首を傾げた。ややあって何があったか思い出したミレイユは、にこにこと笑ってみせる。


「刺されたかと思ってびっくりしましたけど、何ともないですよ?」

「いや、服とか破れてるし、刺されてるわよ!」

「大丈夫ですよ。……だから、そんなに泣かないでください」


 体を起こしたミレイユは、眉を下げて困ったように笑いながら、アースラを抱きしめた。温かい抱擁に、アースラは震えながらむせび泣く。


 どうして蘇ったのか。どうして致命傷が癒えたのか。そんな事は、今はどうでもよかった。ミレイユが生きている。それだけが重要で、求めていたものだった。


「……アースラさん。こんな事を言ったら、怒らせてしまうかもしれませんけど……私、嬉しいです」

「な……何がよ」


 鼻をすすって問いかけると、ミレイユはアースラからほんの少し体を離して、眩しそうに目を細めた。涙の筋がついたアースラの頬を、大切なものに触れるように両手で包む。


「アースラさんが私の事を思って、こんなに泣いてくれたのが」


 すり、と、ミレイユの親指が頬の上を滑った。ミレイユの目の端には、涙の粒が浮かび始めている。


「……好きな人に、こんなに思われている事が、嬉しいんです」

「…………馬鹿ね」


 アースラは涙を流したまま、眉間にしわを寄せた。それが今出来る、精一杯の強がりだった。


「妾の気持ちを軽く見ないで。どんなにアンタを思ってるのか、時間をかけて分からせてあげる。だから絶対、妾から離れるんじゃないわよ」

「……はい、アースラさん」


 ミレイユは涙を一つ頬に滑らせ、そっと顔を寄せた。アースラはうっとりしたようにまばたきして、それを迎えた。


 重なる唇は、塩辛い。それでも、顔の角度をゆっくりと変えながら何度も与えられるキスは優しくて、温かくて。安らぐほのかな甘さが体の奥まで注がれて、心地いい。


「ン……」


 キスに夢中になって、時折、アースラは声を漏らした。恥ずかしいとは思わなかった。そう思う暇があるなら、全身でミレイユを感じて、浸っていたかった。


 しばらくしてゆっくり顔を離すと、風がさらりと唇を撫でた。満足してキスを終わらせたのに、途端に物足りなさを感じてミレイユを見つめる。すると同じようにアースラを見つめていたミレイユと目が合い、おかしくて、少し笑って、またキスをした。


 そうして離れてはまたキスをするのを繰り返し、お互いのぼせた頃にようやくフラフラしながら離れた。ミレイユは顔を赤くしながら、聖魔亭をぼんやり眺めた。ヴァルターの攻撃とアースラの魔剣の衝撃波を受けた聖魔亭は、瓦礫の山と化していた。


「お店……、滅茶苦茶ですね。直さないと」


 そう言うと、ミレイユはアースラに視線を戻した。そして、にこっと笑った。


「アースラさん、『お願い』です。ね?」

「……まったく、しょうがないわね」


 アースラは肩をすくめると、いたずらっぽく笑ってみせた。


「キスしてくれたら、やってあげる」

「……」


 ミレイユはきょとんとした後、感に耐えるように小刻みに震えながら目を細め、アースラを抱きしめた。息が苦しくなる程の力の強さに、アースラは頬を染める。


「アースラさん。私、私……アースラさんが好きです。大好きです」

「分かってる。分かってるわよ……ミレイユ」

「アースラさん……」


 アースラに背中を撫でられたミレイユは、瞳を潤ませていた。アースラの唇にかかる吐息は甘い。


 アースラは恍惚としながら、フフンと好戦的な笑みを見せた。


「妾もアンタが好きよ、ミレイユ」


 そう言って、アースラは飛び込むようにしてミレイユにキスをした。アースラを締めつける腕の力が強まり、鼓動は早くなる。


 ――もう二度と離さない。失わない。何があっても、絶対に。


 密かにそう誓いながら、アースラもミレイユを抱きしめる腕に力を込めた。誰よりも大切な人と一緒に明日を迎えられる喜びを、噛み締めながら。






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読了ありがとうございました。

これにて第一部完結となります。

お楽しみ頂けましたら幸甚です


続編についてはカクヨムコンテストの結果を見てから考えてみようと思います。

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処刑台の聖女は最強魔族を篭絡してスローライフを始めたい エルトリア @elto0079

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